見出し画像

半径15mのセカイ 〜創造主にはなれない〜

家具取りゲーム

家具取りゲームなる遊びをしていた。聞いたことがないのも無理はない。ほんの数日前に僕が発明したゲームだ。発明したと言っても、友人とピザを頬張っている間に脳みその暇つぶしにでもと思って始めたものだ。

ゲームのルールは簡単で、2人組で順番に家具を口に出していき、相手が言った家具は使えないという制限の下、全くの更地から自分の必要な家具を空想上で獲得し合って相手より快適な生活を手に入れるというものだ。家具と言っても家の中にある生活に必要な物体であれば、それを取っても良いし、それを取ることで相手の生活水準を下げることもできる。

例えば、僕が「冷蔵庫」を取ったら、相手の家では「冷蔵庫」を置くことは不可能になり、相手が「キッチン」を取ったら、僕は先ほど取った冷蔵庫をキッチン以外の場所に置かざるを得なくなる。「キッチン」や「風呂場」のように、他のより小さい物体を包括した総称としての物体(?)に関しては、「キッチン」という役割を損ないすぎない限りでは、そこに内包されるより小さい物体(コンロやフライパンなど)を奪い合うことは可能であるというルールだ。なお何かを取る際にものの値段については考慮しなくて良い。最終的に完成した”自宅”を相手と比べることで、どちらが生活水準が高いかをお互いに判定する。

このゲームの醍醐味は、ゼロから自分に必要なものを揃えていく作業によって、自分の生活にとって最低限必要なものを優先順位をつけて素早く獲得していかなければいけないというところ。また、自分は必要がなくても相手にとって必要なものを戦略的に奪っていくということもゲームのミソである。さらに先ほど説明したように、相手がとった家具(物体)の機能が別の何かと併せ持って初めて成り立つような場合に、相手が選択した物体の機能を奪うという攻撃も可能である。

例えば、ゲームが始まった時点で、まず必要なのは「玄関」や「寝室」だったりするわけだが、「玄関」が取られた後で「鍵」を取って置くことで、相手の家の玄関にはセキュリティの概念を持たないという状態におとしめることができる。もっとも、こちらは玄関もなく鍵しか持っていない訳だが・・・。そんな調子で、「本棚」を取ったり、「本」を取られたり、「ベッド」を取られた代わりに「布団」を取って代替したり、攻守を切り替えながら家具を獲得していく。「パソコン」を取られた代わりに「iPad」を取ったり、「コンセント」を取られた代わりに、「リチウム式バッテリー」を取ったりして、生活の不便さはあるもののなんとか人間として最低限度の生活を手に入れていく。

ゲームの終盤(ゲームの終わりは任意)に差し掛かると、お互いに「ジャグジー」を手に入れたり、「茶室」を手に入れたりとラグジュアリー路線に走っていく(茶室がラグジュアリーかどうかはここでは置いといて)、その中で最終的に完成したお互いの家は、「冷蔵庫」はないけど「シアタールーム」があるような奇妙な家になる。それを後でああだこうだ言いながら、どちらが快適なのかを議論するのも面白い。この家具取りゲームはぜひやってみて欲しい。

マインクラフト的な創造主感覚

この家具取りゲームをしていて面白かったのが、ゼロから自分の身の回りの世界を構築していくようなマインクラフト的な創造主感だ。「スマホ」が必要で・・・それには「充電器」が必要で・・・それには「電源」が必要で・・・。と細分化しながら、生活に必要な環境を組み立てていく。2人ゲームなので制限はあるものの、少なくとも2人で取り溜めた家具やモノは理想の生活とも”自宅”という小さな世界を言語で組み立てていき、改めて本当の”自宅”に目をやった時、ゲームの中で自分が必要だと感じて取り揃えてきたもの以外のものが大量にあることにも気づく。(家にジャグジーなんかないので、当然逆も然りだが・・・)

”くにつくり”ゲーム

ここでふと、別のことに興味が飛んだ。
一旦家具取りゲームの順番に取り合うという制限と家の中だけという縛りを外して、2人で想像できる限りの理想の世界を作るというゲームにしてみてはどうか。

家具取りゲームから大きく発展して、古事記に出てくるイザナギとイザナミのように”お互いの持つ余分なものと足りないものを繋ぎ合わせた”。(変な意味はない・・・)僕の本棚には、相手の本が入り、相手の電子レンジには僕の電力が宿った。これからのゲームは、ここから家を飛び出して自宅の周辺の街を、そして街を構成する都市を作り、最終的に世界いわば”くにつくり”をしていく。これを”くにつくりゲーム”とした。

今度こそ本当に創造主になった気持ちで、先ほど作った自宅の周りには何もない「無」の世界にあらゆるインフラを整えていく。2019年を生きる今の僕の記憶と想像力を持ってして、どれだけ現実の世界を再現できるのか。記憶を頼りにまずは静止した世界にドミノを配置するように必要なものを揃えていく。

道路を敷いて、ゴミ箱を置く。いや待てよ。生命を産まなきゃあらゆるものは役割を持たない。

気を取り直して、土を作って、虫を作る。木を植えて、鳥を生み出す。畑を作って、果実を作る。広場を作り、ニンゲン(行き交う人々)を配置する。そのニンゲンが僕らと同じような生活を手に入れるために、自宅の隣に家を建て、多くの人が暮らせる集合住宅を作る。車を配置し、道路を敷く。商店を置いて、従業員募集のチラシを貼る。バス停を置き、時刻表を作る。自宅にある「電力」を元に動く家具に整合性を持たせるために、発電所を置く。ダムを作り、貯水池を作る。

一旦立ち止まって、今自分が言語で作っている世界がワークするのか確かめる必要がある。静止した世界に配置されたすべてのものや生命に動きをつける脳内の再生ボタンを押してみる。

すると車は事故るし、人々を争ってしまう。もう一度停止ボタンを押して、世界の再構築を始める。標識を立てて、信号を作る。ルールを作り、貨幣を作る。教会を建てて、裁判所を作る。ずっと続いていく仕組みを作るために、世界をデザインする。

作っては再生し、想像の及ばない部分での機能が滞り、また作っては再生する。

何度作り直してもうまくいかない。おそらく生命というものの存在のせいだ。そして、生命は常に動的で留まるということを知らない。鳥は虫を食わないと生きれないし、人は所有するために他者から奪う。その動き続けるという命の性こそが世界がどうやったって機能しない理由である気がした。僕は僕の想像だけで作る理想の世界というものに限界を感じた。

創造主にはなれない

ふと我に返って、僕が存在するこの世界の”くにつくりゲーム”を実際に成し遂げた”誰か”に想いを馳せた。それはキリスト世界でいう神なのかもしれないし、神道の世界でいうイザナギとイザナミなのかもしれないが、ここでは”誰か”としておこう。

こんなことを考える僕のことまでデザインして作り出したその”誰か”は今の世界をどう思っているんだろう。

僕が寝てるたびに、「あぁまたワークしてない。あれも直さなきゃこれも直さなきゃ」と停止ボタンを押しながら、試行錯誤を続けているんだろうか。

はじめは単なる思いつきで、言語を積み重ねたら創造主になれるんじゃないかと安易に思ってしまった自分がいた。僕のイメージが作り出す具象を全部言葉にしたらちゃんと世界をなんとなく再構築できる。それくらいは現実を観察してきたんじゃないかって勘違いしていた。

でも、そんなことない。僕は全然世界を知れてないし、イメージとして言語化する能力もない。言われなければ気づかない美しさを素通りしているし、傷つかなきゃ分からない過ちも繰り返す。

僕が創造主だったら、光が織りなす影を世界に設置できるだろうか。

小さな公園の一角に佇む給水機の剥がれた壁面にサビという形で時間経過を表現できるだろうか。

あらゆる動的なものの影響の中で大気が流れる様をデザインできるだろうか。

諸行無常という変わらぬ概念を物体の細部まで作り込めるだろうか。

朝の光に照らされたコンクリートに芽吹く新緑の瑞々しさと強さを記述できるだろうか。

わずかに揺らぐ水溜りの中に自分が作った世界を反転して複製するなんて気の利いたことできるだろうか。

全知全能の神が1人で作ったとは思えない。世界はシンプルな構造の上に、複雑な絡まり合いを持っていて、あらゆるものが影響し合っている。創造主にはなれない。ただ今ここにある世界をそのまま美しいと思える感性は人間にはデザインされているし、さらに美しくしていこうという意志も脳みそに設置されている。何をやったって他者に影響するし、生まれてきてしまった以上は世界と関わりを持って生きていかないといけないのだったら、どんどん影響し、影響されていきたい。

よろしければサポートお願いします。いただいたサポート費はクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。