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島と、子どもと、牛と。(隠岐の幼少期)

隠岐の島で過ごした子ども時代を徒然。移住者に愛される島となった今、改めて尊さを感じるかつての島の日常記録。記憶だよりの曖昧な部分も多いので、いろいろとしっかり知りたいは公式情報等でご覧ください。

牛って書いてるのに写真は馬なんだね。

隠岐の島とは

島根県の北方約60kmにある隠岐諸島。大きくて丸い島後、西ノ島・海士・知夫からなる島前で地域が分かれている。私は島後出身。
島に渡る方法は飛行機又は高速船(レインボー)又はフェリー。風も強く荒波の日本海にあるので、飛行機や高速船は欠航になることも多い。フェリーが1番粘り強く運航するが、それでも年に何度かは欠航する。運が良ければ海でイルカに会うこともあるらしい(私はまだない)。フェリーからトビウオはほぼ毎回見る。過去に高速船は航行中鯨に衝突してしまったことがある。

フェリーから見る隠岐

世界ジオパークにも認定されたように、島の随所に独特な地形、生態系がある。マスメディアでよく取り上げられる断崖絶壁の摩天崖や、海に面したホテルENTOは島前にある。移住者が多いのも島前の海士町。カバー画像の馬たちも島前。

空港があるのは島後。空港裏の港からはこんなふうに飛行機が真下から見える。

遊び相手は自然

高校生までを隠岐で過ごした。小学校低学年まで住んでいた集落は、子どもが両手に収まるほどしかいないし、ゲーム機のない家だったので遊びは自然の中にありだった。怪我したり、謎の生き物や現象に出会ったり、育ててみたり、死んでしまったり。
近所の水路で捕まえてきたおたまじゃくしを妹と自分、それぞれのアクリルケースで飼ってて、ある日シャボン玉で遊んでたら片方のアクリルケースにうっかりシャボン玉が入ってしまって、めちゃくちゃ怒ってもう片方のアクリルケースにもシャボン玉を入れて、お互い怒って怒ってやったけど、あとから2つともおたまじゃくしは全滅してしまった。4,5歳からそこらだったと思うけど、ものすごく悲しい気持ちになって、いきものに対して強烈な罪悪感を持った最初の出来事だったとおもう。
これはやってもいい・ダメ、ということは良くも悪くも教えられるというより、痛い目みて自分で知りなはれ、が多かった。自然の中で得た体験や気付きは、今の自分の様々な価値観や人生観に強く影響を与えているように思う。

海との距離感

卯敷の海。波止が綺麗になったり海面が上昇して当時とは結構様子が変わりました。

小学校低学年まで過ごした、島後の右側あたりにある卯敷という地区。住んでいた家もだが、祖父・祖母の家は海の目の前で、海まで徒歩10秒という感じ。場所が場所なら名物・海の家としていっちょ流行りそうな立地。祖父・父が船も持っていて、あきえ丸という名前がついていた。

これはあきえ丸ではなく親戚の船だがこんな感じだった(写ってるのは父)
写ってるのは自分

時期や天気の良い休みの日は家族で船に乗って眼前の小さな島や岩場に渡り、貝殻拾いをしたり素潜りしたり海苔つみしたり、磯の生き物観察をしていた。毒のあるもの、生き物の扱い、近寄らない方がいい場所など、そうしたお出かけの最中にいろいろ学んだように思う。強烈なクラゲやオコゼに刺されたことはないが、海に入れば海藻についている小さな虫に刺されたり、何かで切って怪我したりは日常茶飯事。沖の孤島、岩場で遊ぶときは大人も子どもも基本的に各々好きなことをしていたが、今思うと子どもから目を離してはならない、という危機感が薄くてすごい勇気だなと思う。
私が2歳か3歳の頃、波止で親戚と魚釣りをしていて、バケツに入れていた釣れた魚をひっそり捕まえて、頭にかぶりついて魚の頭がなくなっていた、という話は大人になっても親戚の笑い話にされる。

巨大な鮫の死がい、流れ着いた気味悪い深海生物、ぶよぶよのエチゼンクラゲ、洞窟にいる光るクラゲ、大怪我した鋭利な貝、抜けないウニの棘、飼おうとしたウミウシ、読めない文字だらけのたくさんの海ゴミ。何事も一次情報として、自分で見て体感したかけがえのないものだった。

実家のいぬ。5年前くらい。
こういう岩場でよく遊んでいた。
危ないけどとても楽しい。
船を出してもらって探索。象みたいに見える島。
海遊び後のスイカ割り。

波止周辺を飛び回る鳶に、晩御飯の余った具材を思いっきり投げてあげるのが楽しかった。鳶が空で見事にキャッチするのが面白くて、人間が食べるはずの焼肉のタンをひっそり持ち出してあげたことがある。
台風や強風の日の海は、海面から3,4メートルはありそうな波止を波が平気で乗り越えてくるので近寄れたものではない。それでもどんな時も、海は特別なものではなく、日常の昼夜が繰り返すがごとく、当たり前に存在しているものだった。

波止を平気で乗り越えてくる荒波。
こんな中で釣りをする猛者がいる…。

あきえ丸は中学生くらいのときに廃船になったが、隠岐では船を持っている人がゴロゴロいるので、島を離れたあとの帰省中にも、近所のおじさんが夜のイカ釣りに連れて行ってくれたり、親戚のおじさんが離れ小島に連れて行ってくれたりした。最近は高齢化が進んでフットワークは重くなってると思うが…。
主観だけど隠岐といえばやはり海。
海にはじまり海に終わると思う。


生きものと暮らす

ザリガニ、メダカ、金魚、コオロギ、スズムシ、アリ、ダンゴムシ、カマキリ、蝶、亀、オタマジャクシ・カエル、カブトムシ、クワガタ、ニワトリ、ハムスター、いぬ…子どもの頃にいろいろと飼育した。
巣から落ちたスズメや巣が壊れたツバメ、道で怪我していたフクロウに少しの間餌をあげたりもした。ミミズや虫を捕まえて、エイッと。
いつだかの夏にセミの幼虫が土から出てきたのを見つけて、網戸につかまらせて飛び立つまで夜な夜な観察したことがある。セミの抜け殻探しは大好きで、中でも小さくて可愛い土だらけのニイニイゼミを発見できたら嬉しい。
卵から小さな虫が孵ったり、脱皮をして新しい姿になったり、足が生えて陸に上がったり、そういったままならない生命の、奇跡の一歩のような瞬間は、本当に神秘的で美しかった。

こちらはなんということはない普通のセミ

隠岐と牛

隠岐の島では牛がいたるところで飼われている。飼主に連れられて道路を散歩する牛や、広々した場所で放牧されている牛と至近距離でニアミスすることも度々。子どもの頃よく遊びに行った親戚の家も牛を飼っていて、まじまじと観察し草をあげたりしていた。牛突きに出る牛が角を鍛えるために削った土の壁も時々目にした。

やぁ!ドゥ・モォ〜

隠岐の牛突き

隠岐はおよそ800年前から続くといわれる、牛突きの文化がある。年に3回ほど、島の牛付き場で座元と寄り方に分かれた対抗戦が行われている。

相撲の番付と同じように牛には番付がついていて、下から取り組みが始まり、最後は横綱対決。下の番付の牛は若い牛が多く、最後まで決着をつせさせないことが多い。一度負けた牛は負け癖がついて、もう試合に出られなくなるから、らしい(本当?)。終盤に登場する牛たちは見るからに屈強であったり、年老いている牛もいた。牛突きの牛として育てられた牛は、負けたら食べられてしまうとも聞いたことがある。筋肉質で硬い肉なので、干し肉になることが多いとかなんとか。

牛突き大会

観光用の牛突き場(モーモードーム)では勝負をつけない観光牛突きが年中見られるが、島を出てからできた施設で私は見たことがない。
元来の伝統の牛突きは何度か見たことがある。
山奥の円形の牛突き場。牛突き場は直径40,50メートルかどうかだった記憶。校庭のように整備された場所ではなく、草や石をはらって平らにはなっているが、山の土といった感じの土俵。ふかふか、というよりはベチャベチャ。木の囲いで囲まれている。
子どもの頃に見ていた牛突き大会は半日から1日程かかることがあった。私が見たときは、勝負をつける横綱戦で全く勝負がつかず、その1番の取組だけで2時間を超えていた。
大会の雰囲気は堅苦しい感じではない。荘厳で活気はあるが、酔っぱらったおじさんがマイクで呼び込みと実況をしていた。
「座元〜横綱〜〜◯◯丸〜 綱取は◯◯屋(隠岐では名字ではなく屋号で呼ぶのが普通)のおっつぁーーーーん!」という具合。育て一家や仲間たちが掛け声で応援し、観衆も歓声で送り出す。取り組み中は牛の横には綱取が常について、掛け声をかけたり綱を操ったりしている。
勝負をつける取組は応援にも実況にも熱が入っている。負けた牛は、ある瞬間に急に背を向けて逃げ出して二度と向かうことをしないので、誰が見ても勝ち負けはわかりやすい。勝った牛の一家が場内に飛び出してきて皆で牛を称えて大盛り上がりする。最後に見たのが小学生か、中学生だったと思うので、20年以上経過した現在の牛突き大会がどんな様相なのかはわからない。ただ、800年も続き、こんなに島全体に根付いていた文化はとても貴重なものだと今は思う。

こちらは牛突きの牛ではなく島前でのんびり放牧されている牛。犬を連れてると高確率で追いかけてくるので時々怖い。

島あるある?

ここからはより一層個人的な環境に起因するものが多いですが、島あるあるっぽいお話。

1.待ち合わせ…してた?

“時間に追われる”は希少

子どもだったから気が付かなかったからなのか、本当にそうなのかわからないが「待ち合わせ」どうしてたの?と思う。
特に親戚と魚釣りをする、家に行くという時に、時間を明確に決めているのを見たことがない。そもそも行く、という約束もとても曖昧だった。「この前行く言っちょったが来んかったの」といった具合で訪ねる方も待つ方も、それはそれは緩やかである。
釣りに関しては場所さえちゃんと示し合わせてないこともあった。行動パターン、状況による定番の場所選びが察しがつくからなのか、そもそも言ってはみたものの一緒に釣りをすることはさほど重要ではないのか。見つからない相手を探して電話することもほぼない。稀に「なぜここにいることがわかったのだ…」というケースもある。島には謎のテレパシーのようなものがある気がする。

2.なにかと置かれる

いただきものの連子鯛

家に帰ると野菜がドンっと無言で置かれていることがよくあった。誰がくれたのかは流石にだいたい察しがつくが、置き書きもなければ留守電もない。LINEをよこすことなんてもっとない。きっとあの人がくれたんだろうな、として後日こちらもまた玄関にノシっと何かを置いて帰る。
流石に家にいるかどうか声はかけてみるが、車がないわとか、ひと言ふた言かけて返事ないわ、とかで無言置き去りお野菜が進呈される。
ただ魚や貝などの生物は、放置しすぎると傷むし猫がいたずらしたりもするからとかで、在宅を見計らって持参されることが多い。といっても、“待ち合わせ”の例のごとく、近所であれば事前に連絡をしたりはしない。
今年亡くなった島の祖母は、亡くなる前日まで近所にお野菜を進呈していたそう。人になにかをあげるのは島ではごく自然で大切なコミュニケーションのひとつ。そこに言葉は介在しなくとも。

3.あいさつする

道ですれ違った人とは基本的にあいさつすると思う。横断歩道で手を上げる子どもも、渡り終えたあとにドライバーにお辞儀をよくする。
社交的、というのはちょっと違う。小さなコミュニティだからこそ敵を生まない平和的関係性を重視する意識が自然にあるのだと思う。シンプルに顔なじみや知り合いだらけなので、無言ですれ違うことは不気味でもある。島を出てから最初に衝撃だったことの中に、あいさつしないということがあった気がする。残念ながら今ではそちらの感覚の方が身についてしまったが…。


一旦これくらい。
記憶を頼りに書いている隠岐の島の子ども時代。もし、子育てをするなら隠岐の島がいいなとか、いつか友達の家族を連れて行ってみたいなとか、自分も動けるうちにもう一度島で暮らしてみたいな、とか思ったりはする。時々メディアで流れてくる島の様子を見て、やっぱり素敵だなぁといつも思う。でも二度とあの子どもの頃のような距離感でいられることはないなぁ、しみじみ。

雄大な日本海
島の晩飯はどこまでも海産
摩天崖
犬の散歩
馬に接近する私
どこまでも海産。真ん中の黒いのはベコ(アメフラシ)

以上、隠岐の島の幼少期思い出記録でした。

※記憶違いなこともあると思うので正しい情報を知りたい方は公式情報などを適宜参照くださいませ。


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