学ぶ楽しさは終わらない(管見)
中学生が学習塾に通う大きな目的は高校受験合格ですが、合格しても通いつづけることがあります。月単位の契約なのでまだ契約が切れてなく仕方なしに通うためだったり、合格後もつづけて通いたいためだったりします。
FOLSでは毎年その時期は↓の本を読んでいました。
著者は執筆当時をこうふり返ります。
ひどい反動の時代・・・出版物についての、削除や発売禁止は日常のことになり、反共的、国粋的な言論だけが横行・・・表現の自由は極度にせばめられ・・・なにかギリギリな、思いつめた・・・嵐の中で顔を伏せて耐えているような・・・支えてくれているのは、ただいつかは、いつかは……という未来への期待でした。(『教育を支える思想』より)
厳しい時代に誕生したこの作品の秀逸さを、丸山眞男はこう表現します。
この一九三〇年代末の書物に展開されているのは、人生いかに生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがある・・・きわめて高度な問題提起が、中学一年生のコペル君にあくまでも即して、コペル君の自発的な思考と個人的な経験をもとにしながら展開されてゆくその筆致の見事さ(『君たちはどう生きるか』より)
主人公コペル君の、ありきたりの日常で目の当たりにしたことを他と関連づけ、意味をさぐり、推論をつみ重ね、日常にひそむ科学的法則をみつけ、知的興奮を覚えてはさらなる探究心を湧かせる物語から、主体的に学ぶ楽しさを読者は追体験します。また「自分中心とした世界像」から「世界のなかで自分の位置づけという考え方」へと巧妙にいざなわれる、まさしく啓蒙の、真理への瞬間を体験します。
教育のゴールのひとつは、生徒さんが自ら学びつづけるようになることです。
しかし、
どこに向かって
なんのために
どのように?
そのための教育なのだと思います。
初めは親のまねびから始まります。赤ちゃんが言葉を覚えていく時などまさにそうでしょう。やがて学び場は家庭だけでなく学校も加えられ、先生のまねびも起こります。
いつしかは親のまねびも先生のまねびも終えて、自らの学びになります。
子ども/生徒がひとり立ちするその日までに、教育はどれだけ真理を体験できる機会を提供できたかどうかが、自ら学ぶ力を支えつづけられるかどうかを分けていくと考えます。
ひとしきりの受験勉強を終え卒業しゆく生徒にとって、主体的に学ぶ楽しさと真理を体験する可能性をもつこの本は、教育の一段階のゴールにうってつけの書だと思います。
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