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私たちはどれくらい不自由なのか —文化・学校—

私たちはどれくらい不自由なのかを文化・学校に絞って述べる。

□景色
一般的に、学校教育には階級をシャッフルする側面があると考えられている。貧しい家庭の子でも裕福な家の子でも義務教育は等しく受けるもので、家にお金がなくても成績が良ければ奨学金を得るなどして進学することが可能である。

ところが、いくつかの教育社会学的研究では、学校にはまったく逆の機能があることが指摘されている。つまり、学校で勉強することをよしとする態度や性向は、就学以前に獲得される文化資本であるため、その資本が多いか少ないかによって学校での序列が決まり、ひいては社会での位置も再生産されるという。

□本

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『100分de名著 ブルデュー ディスタンクシオン』
岸 政彦 NHKテキスト 2020年

目次
はじめに 私はどこから来て、どこへ行くのか
第1回 私という社会
第2回 趣味という闘争
第3回 文化資本と階層
第4回 人生の社会学
*本記事は第3回に限定*

要約
ブルデューは、行為者が身につけた文化は資本として機能すると考え「文化資本」という概念を創出した。文化資本とは、文化財、教養、学歴、文化実践、文化慣習あるいは身体技法、行為や評価の傾向性、美的性向のことを指す。

美的性向は、内容や実用性と切り離して純粋に形式だけを受容する能力のこと。見せ方を鑑賞し評価するための知識や態度。絵画で言えば何が描かれているかではなく、どう描かれているかという視点で見ることができること自体、長年にわたる家庭と学校での教育を必要とする。

「美的性向とは、日常的な差し迫った必要を和らげ、実際的な目的を括弧に入れる全般化した能力であり、実際的な機能をもたない慣習行動へむかう日常的な傾向・適性である。差し迫った必要から解放された世界経験のなかでしか、学校での問題演習とか芸術作品の鑑賞のように、それ自身のうちに目的をもつ活動の実践においてしか、形成されえない。」
必要性から距離を取ることが美的性向をつくりだす。経験と教育の結果だとブルデューは言う。

文化資本は得やすい環境にある人ほど多く所有している。また所有するための努力ができる人、努力することが当たり前だという態度が身についている人ほど所有できる。

例えば就学以前から、机に向かうことがそれほど苦痛ではない身体的技法と机に向かうことが何の不思議もない当たり前のことであるとする感覚を持っているかどうか、である。

「学校教育制度は生徒たちを種分けし、ある者は正統的慣習行動を行う者として評価の高い位置付けへ、またある者はこれを行わない者として評価の低い位置付けへ振りわけ、彼らの抱いているさまざまな希望や要求、自己イメージや自己評価を操作している。」

「学校による分類=等級づけが生み出すさまざまな公認の差異は、分類された各個人の心のなかに、だれもが認めかつ支持する信念として、これらの差異は確かに存在するのだと信じる気持ちをおこさせ、自分の現実の存在をしかるべき公認の存在に近づけるための行動を取らせる。結局実質上の差異を生産する。」

学校は優秀な人を効率よくピックアップするための装置ではなく、ただ親から受け継いだ文化資本を、そのまま自動的に親と同じように高い位置に押し上げるための装置である。

□ひとりごと
後日、音声公開予定

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