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武士道とキリスト教、内村鑑三

□景色
「父方の祖父は典型的な武士」で、重厚な鎧を身にまとい、弓矢と銃を手にして戦列に並ぶことを誇りとした、と内村は『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』に書く。

「私はゆりかごのうちから、すでに生くるは戦うなり」、「戦うために生まれたのです」という。内村は、生まれたときからすでに武士道の洗礼を受けていた。

内村の生涯は正義のための無私の営為としての「戦い」の連続で、しだいに人間の考える「正義」が神の「勝利」へと変貌する霊性の自覚が起こっていく。

□本

『内村鑑三 悲しみの使徒』
若松英輔 岩波新書 2018年

目次
序章  回心
第一章 入信
第二章 死者
第三章 非戦
第四章 再臨
第五章 訣別
第六章 宇宙
あとがき
✳︎序章のみから構成

□要約

基督教は神の道であります。武士道は人の道であります。神の道は完全であって、人の道は不完全であるは云うまでもありません。そして人の道は神の道に寄るだけ、それだけ完全なるのであります。(「武士道と基督教」)

武士道を追究することは、キリストの道を深め、開花の準備をする。人と神において、後者は常に前者を包含し、後者のなかに前者の場所を見出すことが「武士道とキリスト教」の関係だと内村は考える。

武士道的キリスト教は、武士道という枝にキリスト教という見えない枝を「接ぎ木」し、繁る見えない葉の「言葉」を世界に向けて発していくこと、そこに近代日本の託された固有の使命があると内村は信じる。

キリスト教が大きな影響力をもった欧米において、その真髄は「亡びつつある」というのが内村の実感だった。一方、「武士道そのものに日本国を救う能力はない」が「武士道の台木に基督教を接いだもの、そのものは世界最善の産物であって、これに日本国のみならず全世界を救うの能力がある。」という。

日本国の歴史に、深い世界的の意義があった。神は二千年の長きに渉り、世界目下の状態に応ぜんがために、日本国において武士道を完成したまいつつあったのである。世界は畢竟基督教によって救わるるのである。しかも武士道の上に接木されたる基督教によって救わるるのである。

武士は、公の正義のために戦う。しかし、社会的存在としての武士の時代は終わった。内村が戦おうと心に決めたのは、「二つのJ」のためだった。

日本文で言い兼ぬることを欧文をもって言うことができます。日本を世界に向て紹介し、日本人を西洋人に対して弁護するには、如何しても欧文をもってしなければなりません。私は一生の事業の一としてこのことを為し得たことを感謝します。私の貴ぶものは二つのJであります。その一はJesus(イエス)であります、その他のものはJapan(日本)であります。本書は第二のJに対して私の義務の幾分かを尽したものであります。(「菊花薫る」『聖書之研究』)

JapanとJesusという「二つのJ」に献身、それを欧米に「欧文」(英語)で語る、それが自らに託された神聖なる義務だという。

若き内村が自らの聖書に次のように書き込む。

I for Japan;
Japan for the world;
The world for Christ;
And All for God.

「二つのJ」を捉えつつ、「神」の業の実現のためにわが身を投じる、そこに内村の悲願があった。

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