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学校に行かないことを選んでから、を考える(雑記)

以前、学校に行かないことを選ぶまで、という記事を書かせていただきました。そこで浮かびあがったのが、「じゃあ、学校に行かないことを選んでからはどうなるんだ?」という問いでした。

今はたしかにフリースクールやオルタナティブスクール、塾、それらの枠にとらわれないNPOや活動などがあり、金銭的、(移動距離等の)地理的な問題を抱えがちですが、ご家庭は選択できる状況です。では、その選択の基準をどことすれば良いのでしょう。何をもって選択すればベターなのでしょうか。僕はそこからもうわからなくなってしまいました。

我ながら、20年以上も教育にたずさわっていてそんなこともわからないのかと感じました。そこで社会と学校に関する本読みをしていこうと思いました。

まずはじめに、戦後教育改革と戦後民主主義学派という観点です。そういえばあの本、めっちゃ良かったよなと思い出して、『教育を支える思想』を引っ張り出しました。そこからいくらかの本を追加して、教育改革の重要人物南原繁を中心に、少し外側の清水幾太郎までをかんたんに追っていきました(戦前・戦中・戦後の社会システムがむき出しになった時代を経験してきた人たちの慧眼は、今後の見通しに有効になりうると思っています)。

そこでわかったのが、そもそも今の教育って経済>人間という社会システムの上に成り立っているかもしれない、ということです。そうやって見ると不登校の生徒と先生が過去最多になっても予算が増えないのも道理だよなと思うしだいです。

次に、経済<人間という教育の成り立つ社会システムは存在しうるのかという観点です。そこで出てきたのが、近代教育の名著『エミール』と『社会契約論』でした。J.J.ルソーが真っ向から取り組んでいました。ルソー関連の記事を7つもつづけたのはそのためです。ルソーは経済<人間という教育の成り立つ社会システムの可能性を示唆していました。

その次に、しかし当然ながら社会システムの話は大きすぎるので、今の社会システムの中で、経済<人間という教育の可能性をみつけにいくという観点に移ります。いちばん目立つのは地域教育ならぬ地域共育です。みんなの学校小学校という場教育から共育へローカリズムでもある時代の記事がそれにあたります。

ここからは、戦後教育からもう少しさかのぼり、内村鑑三、福沢諭吉らに関する本を読んでいこうと思います。二人は私教育に大きな影響を与えていますが、片方は徹底的に霊性を重視し、もう片方はとことん実学を重視するという対称的な面もあります。南原の師匠である内村、南原の弟子である丸山の私淑する福沢という筋も面白いです。

おそらく、寺子屋や藩校まで時代をさかのぼることになると思いますが、上記した課題感をもって、本読みを進め、記事化し、ご共有していこうと思います。お読みになってくださる方に少しでもお役立ちできれば幸いです。

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