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学ぶ楽しさをみつける距離感(管見)

学ぶ楽しさをみつける関係性で以下のように述べました。

誰もが”I”であり”YOU”である水平な関係性。互いに敬意を持ちながら共に学ぶ。そんな学びの共同体を目指しつづけていました。

「互いに敬意を持ちながら共に学ぶ」という綺麗ごとをいかにして実現するか。いったい何に向かって共に学ぶというのか。それを明確にしなければ緊張感や躍動感は生まれてきません。

今回はその水平軸の中心と、中心までの距離についてを書きたいと思います。

先生も生徒も共に、中心に向かって学ぶイメージを僕は持っていました。中心に位置するのは真理です。
先生は先に生まれたため、真理に向かって先行して学んでいます。先生の蓄積してきた知識や経験や技術と、生徒さんのそれらとで、生じている差分が教育の対象というイメージの持ち方です。

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教育実習担当官から伺った1時間の授業につき30時間分の予習を積み上げなさいという言葉は、先生こそ真理に近づく努力をしつづけなさいという意味も込めてられていたと思います。

この抽象的なイメージを具体化していくのに役立ったのがこの本でした。

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湖人が生涯をかけて学んだものは、『論語』で・・・自分の生活をかけて『論語』を読みつづけた・・・本書はあくまで湖人の『論語』であって、だれの『論語』でもない。そしてそういう読み方こそが、孔子の学問態度であった。湖人はそれを最も忠実に受け継いだものといえる。学ぶとは古聖人の道を祖述し、かつ実行すること・・・孔子はすぐれた教育者であった。教育乱脈の今日の日本にとって、本書は万人必読の書である。(永杉喜輔)

『論語物語』(下村湖人 1938年初出)での孔子と弟子たちは、道に向かう学びの共同体とも言えます。孔子を先頭にみんなで道を追い求め、より道に近い孔子に弟子たちが教えを乞う、あるいは孔子とや弟子同士でのやりとりの中に道のある方角を再発見し向き直し、みんなで切磋琢磨しながら進んでいく。

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優れた教育者である孔子は弟子たちに、時と場合に即した対応をします。みんなを集めて説いたり論じ合ったり、その中で特定の一人に厳しくしたり、三人だけの時に理想を語り合ってみたり、一対一の時に沈黙で長い間を置いてみたり、相手をよく観察し見抜いた上で言葉を選び、かける声に緩急をつけたり、弟子と共に涙したり、実に多様な対応をしています。そしてそこには満ち満ちた緊張感と躍動感があります。

対応の全ては上の基本構図を変えないまま、孔子自身を含めたみんなで道に向かうベクトルをつくり出し、弟子の中にズレたり違う向きをしたりすれば都度修正し、ひとつの共同体として道に向かっていくのです。

僕はこの『論語物語』の構図を参考にしながら、具体的な対応例を文から読み取り、教育の現場で具体的な行動を取っていきました。もちろん湖人の孔子のようにいかなくて失敗の連続(例:沈黙で長い間を置いてみたら、授業放棄だとクレームが来る)でしたが、大学を卒業してすぐに起業した、上司も先輩もいない僕にとっては重要なモデルでした。

真理に対して先生も生徒もなく、ただ一人ひとりの人同士として、中心である真理と思しき方角に向かって、共に学ぶ。真理に向かう姿勢や行動に、敬意は自然と生じてくるものだと思います。

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