ふれあいの教育へ(雑記)
「ふれる」あるいは「さわる」について今回を含めて全10回書かせていただきました。その1回目ふれるということの冒頭に引用した栗原彬の文章です。
ふれあいの論理をもちこんだ教育とはどのようなものでしょうか?
ふれるということでもその問いを立てさせていただきましたが、その時よりも僕たちはもう少しだけ深く考え、感じることができるようになったかもしれません。
「ふれる」はこれまで見てきたとおり
・人間的なかかわりで
・双方向的
・主客が分離しておらず
場合によっては
・向こう側からも「ふれ」られ
・異なる次元の開くことがあり
・宇宙や「いのち」といった存在などにつながる
・あるいはそのものとなる
この「ふれる」ことのない学びを想定して坂部はこう述べます。
学びの根底に「ふれる」ことをして
歓びにつながる。
「ふれ」て、「ふれ」あう教育とは何か。
人間的で、双方向的で、主客が分離しておらず、ときに向こう側からも「ふれ」られ、異なる次元につながり、宇宙や「いのち」といった存在につながるあるいはそのものになる。
そんな教育を共育と言ってよいのではないか。
共育をめざすことが望ましい時代に入っているのではないか。
「さわる」教育もあっていい。
「ふれる」教育もあっていい。
これからは少しずつ「ふれ」て、「ふれ」あうような教育、つまり共育の時間を空間を増やしていくことが、望まれているのではないでしょうか。
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