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生きがいの発見

□要約
「生きがい」は生きる意味、将来への期待、今ここで行われる挑戦、知らない間に育んできたものの現れ。「生きがい」の発見を人間が努力して一から作り上げていくものではなく、自分が何か大きなものに包まれているという実感から始まると神谷美恵子はいう。

深い悩みのなかにあるひとは、どんな書物によるよりも、どんなひとのことばによるよりも、自然のなかにすなおに身を投げ出すことによって、自然の持つ癒しの力——それは彼の内にも外にもはたらいている——によって癒され、新しい力を恢復するのである。

苦しみや悲しみの経験の中で芽吹き花開く「生きがい」は、「自然」の与えるものとして発見される。人は大地の上に生きているのではない。大地に「生かされて」いる。人間も「自然」の一部なのだ。

□本

『100分de名著 神谷美恵子 生きがいについて』
若松英輔 NHK出版 2018年

目次
はじめに
第1回 生きがいとは何か
第2回 無名なものたちに照らされて
第3回 生きがいを奪い去るもの
第4回 人間の根底を支えるもの
*はじめにと第1回から構成

□背景

平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。耐えがたい苦しみや悲しみ、身の切られるような孤独とさびしさ、はてしもない虚無と倦怠。そうしたもののなかで、どうして生きて行かなければならないのだろうか、なんのために、と彼らはいくたびも自問せずにはいられない。

生きがいを失った「あちこちにいる」けれども見えない人々は、私たちの目に入らない、目に入っても「生きがい」を失っている現実が理解されづらい。

「苦しみ」、「悲しみ」、「孤独」、「さびしさ」、「虚無」、「倦怠」、神谷は苦しみや悲しみを別々のものではなく、一つの大きなものと捉えていた。

たとえば治りにくい病気にかかっているひと、最愛の者をうしなったひと、自分の全てを賭けた仕事や理想に挫折したひと、罪を犯した自分をもてあましているひと、ひとりの人生の裏通りを歩いているようなひとなど。

病、死別、失敗、挫折、過ち、すべて人間が制御できないもの。生きがいの喪失は、いつ、どこで、誰にでも、起こり得る。

悲しみや苦しみの根源は、通常の感覚では捉えがたい場所にあり、手の差し伸べようもない。神谷はここに突破口を開く。「生きがい」を深化させ、わたしたちにもう一つの目を開くことを促す。

「生きがい」を最初に認識するのは「感情」のはたらき。

なんといっても生きがいについていちばん正直なものは感情であろう。もし心のなかにすべてを圧倒するような、強い、いきいきとしたよろこびが「腹の底から」、すなわち存在の根底から湧きあがったとしたら、これこそ生きがい感の最もそぼくな形のものと考えてよかろう。・・・理くつは大ていあとからつくようで、先に理くつがたっても感情は必ずしもそれについて行かない。

硬質な知性で「生きがい」は捉えきれない。「生きがい」は名言化を拒むもの、概念化を拒むもの、の典型。目には見えない、しかしたしかに感じられる。柔軟な知性、開かれた感性によってこそ「生きがい」は把握される。「生きがい」は、「考える」だけでなく同時に「感じる」ことが重要。

「生きがい」は、今、ここに、潜んでいる。「生きがい」を失った人は今の世界、現実世界から離れることを強いられた人。そうした人々にとって歴史的時空の発見はしばしば大きな意味を持つ。このとき人は現在ではなく、歴史の世界に対話者を見出し、「永遠性の意識」と呼ぶべきものを経験する。

永遠性の意識が、かならずしもこの世における現在の生とかけはなれた遠い未来として体験されているのではなく、すでに「いま」、「ここで」いきいきと体験されている・・・「生きられた永遠」はそうである

真の「生きがい」は、人間が「つくる」ものであるよりも、すでにあって発見すべきものである。

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