母親が転んだ日
東京で3泊し帰ってきた大阪の実家。
家のご飯って美味しい。外食って、特にコンビニ・ファストフードくらいの範囲だと、具体でどれだけ豊富なものを摂取してても、抽象化すると同じものを食べてる感覚になって、お腹をぐーぐー鳴らしながらも、「特に何も食べたくないなあ」と陳列棚と睨めっこする。そーんな感覚ある。
さて本題について。実家に帰ると母親の鼻やらおでこやらに傷があって。どうしたのと聞くと家の前で転んだと。ピンポイントでこのワードは出なかったけど、まあ「お」から始まって「い」で終わる2語だなあと思ってさ。
でも歳とって悲しいみたいな話はさ、あんましない。ただ、その話を聞いて3日経ってもなお、ふと想像してしまうのは、母親が手もつけずに顔から地面に前倒れた光景。これを想起すると、なんだろ、どうしようもない気持ちになるというか、多分「怒り」みたいな感情に支配されるのね。
ん、まって。多分だいぶ私今サボってる。もっと蛇足的にでも頑張って言語化してみると、見てられないというか、見たくないというか。怖かっただろうなとか、どんな気持ちで立ち上がったのかな、人目を気にしたかな、恥ずかしいなんて思ってしまったかな。地面は冷たく感じただろうな、想像以上に硬く感じただろうな。痛みはじんじんと強まっただろうな、鏡で傷を見て、過去の暴力を思い出しただろうな、と。母親にだけはそんな思いしてほしくなかったなと思うのね。誰が悪いわけでもなくて、多分そんな話をすればうちの母親が悪いとなるんだろうけど、大した欲もなく、というか、厳密にいうと彼女も女性なのに、母親の側面を99%に引き上げ、25年間家族を最優先に、たくさんの理不尽を黙って受け入れ、家族全員に光を与えるべく、影を独り黙々と歩いてきた母親にね、そんな仕打ちはしてやらないでくれ、と、やり場のない感情に支配されるのね。
ただこんな気持ちになるのも勝手が良すぎる気がしてて。これまで散々搾取してきて、こうしたわかりやすい悲劇が彼女に起こった時にだけ、同情的。
こんな自分は嫌だと思って、これを原動力にしなければと思って、ここに記した。ここが今回の執筆意図です。
今は何をしてやれるでもない小さな人間だけども、少しでも彼女の余生に光を返すんだ。忘れるなよ、自分。
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