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自分評論家が「書くべきことか?」と問うてくる

僕の悩みを書かせてください。
最近、自分の中にいる「評論家」が手厳しいんです。

「それは、わざわざお前が書くべきことか?」
「そのテーマを選んで、お前は何が伝えたいんだ?」
「その話、お前以外の誰かが散々書いてきているだろ?」

劇作家として作品を書くときも、noteの記事を作るときも、Twitterでつぶやくときも、自分の中にいる評論家がいつも一旦ストップをかけてきます。
スランプってほどでもないし、言いたいことは言えていると思うのだけれど、アクセル全開にできない感覚があって、どうにも居心地が悪いのです。

いまや、インターネットの力で誰もが意見を発信できるようになりました。
本名に肩書を添えて発信している人(僕もそうです)もいれば、匿名で鋭い意見をぶつけている人もいますよね。

すると、あえて自分が言うべきことってなんだ?
……なんて思ってしまうのです。

特に、喜怒哀楽のうち「怒り」は増幅しやすいよなあ……とか思ったりします。Twitterのトレンドとか、ワイドショーとか。
たとえば女性蔑視発言が注目を集めたり、政治献金の問題や、芸能人の不倫が話題になるように。
ちなみに、僕は上に挙げた話題には一切興味がないので、読んでもナナメ読みですし、コメントすることもないのですが、たまーーに心をざわつかせる話題に出会ってしまいます。

たとえば、テクノロジーに関する話題。

これは先日のニュースを受けての感想でした。

しかし、このツイートでも、"自分評論家"が邪魔をしてきたのです。

「お前がわざわざ嘆くことか?」
「開発に携わった人たちが、お前の意見を聞いたらどう思う?」
と。

少々気にしすぎかもしれませんし、上に書いたのはほんの一例でしかないのですが、こんなことばかり考えてしまっています。

今書いているこの記事だって、果たして僕が言うべきことなのだろうか……?


――それでも結局、伝えたいと思う気持ちは消えないので、こうして書いているのですけれど。

"自分評論家"と向き合いながら、葛藤していく日々です。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました! これからも応援いただけたらうれしいです。 (いただいたサポートは、作品制作のために活用いたします!)