福沢諭吉の深イイ話
僕は大分県中津市の出身。大人になってから読んだ福沢諭吉の書籍に感銘を受けたし、同郷にこんな素晴らしい人物がいたことに誇りを覚えたものだ。
最近多様性について関心があるが、福沢諭吉を多様性という観点で認識していなかった。しかし福沢諭吉の思想は多様性そのもの。やはり時代を変える人には多様性の要素が必ずあるのだと確信。今晩NHKプラスでなんとなく見始めたヒストリアが福沢諭吉の回であり、そこから新たな学びもあったのでまとめておきたい。
生い立ち
生まれは大分県の中津藩。中津藩は身分制度が特に厳しく、上の身分の人が通るときにはたとえ雨でも履物を脱いで、跪いで触れ伏す必要があったらしい。このような状況の中、下級武士の家の息子だった諭吉は、この状況を脱するには学問こそ重要なのだと考え、日々本を読み漁っていたらしい。
そして、その後中津ではもう学ぶことは何もないと家を出て大阪の緒方洪庵の敵塾で学んだ。
どんな子供だったか
子供のころ、殿の名前の書かれた紙を踏んでこっぴどく叱られたようだ。怒られながら「こんなの単なる紙じゃないか」と思った諭吉は、自分が正しければ、神棚のお札を踏んづけても何も起きないはずだと思い、それを証明するために実際にお札を踏みつけたそううだ。その結果何も起きないということを証明した。実際にやってみる、そういう行動力のある性格だった。
渡米
幕府がアメリカ(サンフランシスコ)に視察に行くというのを聞きつけ、志願。当時アメリカへの航海は命に係わる危険なものであり、志願する人など稀だったためすぐに受け入れられたようだ。
アメリカでは、工場などを見学し、説明を受けたが、そんなものは書物ですでに得ている知識であり、大して驚かなかったようだ。何よりも驚いたのはアメリカ人の生活。たとえば、市民にワシントンの末裔は今何をしているのか?と聞いたところ、何も知らなかったらしい。これに衝撃。江戸時代、代々続く徳川家を思うと考えられない。アメリカでは大統領の子孫なんて重要視されない社会なのだと驚いた。また、あるアメリカ人の家庭に招かれた際、妻が机に座り客人と会話しているときに、お茶の準備をしたり忙しく働く夫に衝撃を受けた。男尊女卑の根付いよい日本。アメリカは平等な国なのだと衝撃を受けた。アメリカ人の女性と撮影した写真は有名。写真館に一人で入った諭吉が、その写真館の娘ととった写真だ。それを帰りの船の中で自慢したらしい。驚くべきは、女性と福沢が触れるほどの近いこと、武士の命ともいえる刀を抜いていること。この時代の日本社会の価値観とはあまりにかけ離れた状況。諭吉は、平等、多様性という精神を米国で学んび、かつそれに対応できる柔軟な頭を持っていた。
学問のススメの出版
大ベストセラーとなった学問のススメ。10人に1人がもっていたほど売れたらしい。学問がいかに重要かということが国民に広がった。
千葉県長沼に語り継がれる福沢諭吉のエピソード。長沼にはとても大きな沼があり、長沼の収入の大きな糧になっていた。しかしその歌かな沼を長沼の住民が独占するのは不公平だと周辺がいいはじめ、遂に国の所有物になってしまった。沼で生計を立ててきた長沼の人たちはとても貧しくなった。その時、学問のススメを読んだ人が、福沢諭吉なら助けてくれるかもしれないと直接本人を訪ねた。
諭吉は「覚悟はあるのか」と問い、長沼からきたその人の覚悟を見極め、この問題に対して支援することを決めた。国や県への嘆願などを精力的に動き、結果長沼に優先的に沼の使用が認められた。その後諭吉に長沼の住民たちがお金を集め、それを手に諭吉にお礼に来た。しかし諭吉はこれを断り、逆に大金を寄付した。その場で諭吉が言ったことは、「学問さえあれば、こんなことにはならなかったのだ。学問こそ重要なのだと」長沼の住民の学問の重要性を説いた。長沼では、県で2番目に小学校が建てられた。長沼ではこのエピソードが語り継がれ、石碑が建てられている。歌もあるらしい。
脱亜論の真意
東アジアの悪友との関係を断つこと。アジアから脱出することが重要と主張した。その真意は?
日本は1854年黒船来航を機に開港。同じころ朝鮮でも開港の動きが起きていた。朝鮮において日本と同じように開国を進めようとする開化派が誕生し、守旧派と対立。この朝鮮の開化派に関心を示したのが福沢諭吉。開化派の人と対話した福沢は、日本が開国し、渡米して近代化をしたことを教えた。また、朝鮮から留学生を来日し、学問を学ばせた。一身独立があって、国家独立があるということを教えた。
しかし残念なことに、朝鮮で甲申事変という開化派が起こしたクーデターが起きた。しかし清が介入し失敗。開化派の大半が犠牲に。福沢が教えた生徒も犠牲に。その後福沢が出したのが脱亜論。朝鮮のこの状況に失望し、中国、朝鮮を悪友として批判したのか。
脱亜論は日本のアジア侵攻を後押ししたという難癖をつけられ批判を受けた。だが実際にはこの社説を出した当時、まったく脱亜論には周囲から関心を示されなかった。なのでこれが悪影響をもたらしたという学説は疑わしい。
この脱亜論の真意は、清国が甲申事変は日本の陰謀だというデマを世界中にばらまき、西洋諸国から日本に大して疑心感が沸いた。これは嘘だ。中国や朝鮮と同じにするな。日本を敵視するなということをこの脱亜論でアピールしたのではいかというのが最新の学説。先手を打った。
アジアとの決べつを宣言したかに見えたが、実は実際は逆だった。1894年日清戦争が勃発。翌年日本は勝利。朝鮮から清国を一層。その後再び、朝鮮から日本へ留学団を招くことが可能に。これを福沢が後押しした。慶應義塾に招き、本気で議論をすることが重要だと説いた。教育は人を変えていく。朝鮮も教育によって国を独立させ、変えて行けと説いた(一身独立が、国家独立につながると説いた)。その後留学を終え、国に帰った学生は朝鮮の官僚など中心的な人物となった。
故郷中津への思い
中津の身分社会が納得できず、中津を出た福沢。しかし実は忘れたわけでは決してなかった。学問のススメの序文にこうある。「この学問のススメは、なぜ学問をしなければならないかということを中津の友人に示すために執筆したのだ」と。
独立自尊に凝縮された思い
自分を貶めるな、気品と誇りをもって生きるべきである。世界中の人々は等しく同じ人間なのだから、決して差別があってはならない。他国人を蔑視すれば、独立自尊の胸に反するものなり。
あの時代に、これほど多様性が重要性であることの本質を理解していたとはすごいと思う。この人がいなければ今の日本はない。
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