より
上記文抜粋 ・・・・・・・・・・
マイケル・ハドソンと柄谷行人の「金融資本批判」
J SATO氏がマイケル・ハドソンを強く持ち上げているね、
私も何度かマイケル・ハドソンを引用してきたが、確かに巷間の新自由主義イデオロギーに毒された主流経済学者に比べて、マルクス主義者と自認するマイケル・ハドソンーーHudson identifies himself as a Marxist economist,(Wikipedia )ーーは格段にすぐれているよ、
J Sato@j_sato Feb 6, 2024 マイケル・ハドソンが世界最高のエコノミストである理由 執筆:ポール・クレイグ・ロバーツ(元米財務次官補で、ウォール・ストリート・ジャーナルの副編集長) マイケル・ハドソンは世界最高のエコノミストだ。実際、世界で唯一の経済学者と言ってもいい。それ以外のほとんどは新自由主義者であり、彼らは経済学者ではなく、金融利権の手先である。 もしあなたがマイケル・ハドソンを知らないなら、それはマトリックスの力を示しているに過ぎない。ハドソンはノーベル経済学賞をいくつも受賞しているはずだが、決して受賞することはないだろう。 ハドソンは経済学者になるつもりはなかった。一流の経済学部があったシカゴ大学で、ハドソンは音楽と文化史を学んだ。ニューヨークへ行き、出版社で働いた。ジョージ・ルカックスとレオン・トロツキーの著作とアーカイブの権利を譲渡され、独立できると思ったが、出版社は20世紀に大きな影響を与えた2人のユダヤ系マルクス主義者の著作に興味を示さなかった。 友人関係から、ハドソンはゼネラル・エレクトリック社の元エコノミストと知り合い、経済システムを通じた資金の流れを教わり、負債が経済を凌駕したときに危機がどのように発生するかを説明された。ハドソンはニューヨーク大学の経済学大学院に入学し、金融部門で貯蓄が新たな住宅ローンにどのようにリサイクルされるかを計算する仕事に就いた。 ハドソンは博士課程の授業よりも、実務経験から経済学を学んだ。ウォール街で彼は、銀行融資がいかに地価を吊り上げ、それによって金融部門への利払いを増大させるかを学んだ。銀行の融資が増えれば増えるほど、不動産価格は上昇し、銀行融資はさらに促進される。住宅ローンの債務返済額が増えれば、家計の収入と不動産の賃貸料のうち、より多くの額が金融部門に支払われることになる。不均衡が大きくなりすぎると、バブルは崩壊する。その重要性にもかかわらず、地代と不動産評価の分析は、経済学の博士課程には含まれていなかった。 ハドソンの次の職場はチェース・マンハッタン銀行で、南米諸国の輸出収入を使って、その国がアメリカの銀行に支払える債務返済額を計算した。ハドソンは、住宅ローンの貸し手が不動産の賃貸収入を利払いに流用できる資金の流れとみなすように、国際銀行も外国の輸出収入を対外融資の利払いに使える収入とみなしていることを学んだ。ハドソンは、債権者の目的は、一国の経済的余剰をすべて債務返済に充てさせることであることを知った。 やがてアメリカの債権者とIMFは、債務国に利子を支払うための資金を貸し付けるようになった。そのため、各国の対外債務は複利で増えていった。ハドソンは、債務国は債務を支払えなくなるだろうと予測したが、メキシコが支払えないと発表したことで、その歓迎されていなかった予測は的中した。この危機は、アメリカの財務長官にちなんで命名された「ブレイディ債」によって解決されたが、2008年にアメリカの住宅ローン危機が起こったとき、ハドソンが予言した通り、アメリカの住宅所有者のためには何もされなかった。メガバンクでなければ、アメリカの経済政策の焦点にはならないのだ。 チェース・マンハッタン銀行は次に、米国の石油産業の国際収支を分析するための会計フォーマットをハドソンに開発させた。ここでハドソンは、公式統計と現実の違いについて、また新たな教訓を得た。石油会社は「移転価格」を利用して、利益がゼロであるかのように見せかけ、税金の支払いを免れていたのだ。租税回避地にある石油会社の関連会社は、生産者から低価格で石油を購入する。利益に対する課税がないこれらの便宜置籍地から、石油は利益をなくすために値上げされた価格で欧米の製油所に売られた。その利益は、非課税地域にある石油会社の関連会社によって計上された。(現在の税務当局は、課税逃れのための移転価格の使用をある程度取り締まっている)。 ハドソンの次の仕事は、スイスの秘密銀行システムに流れ込む犯罪資金の額を推定することだった。チェイスでの最後の調査となったこの調査で、ハドソンは、米国務省の指示の下、チェイスや他の大銀行がカリブ海に銀行を設立していたことを発見した。それは、ワシントンの対外軍事資金流出と均衡または相殺するために、(犯罪者によるドル需要を高めることで)ドルを支えるために、麻薬ディーラーからドルを保有する資金を集めることを目的としていた。もしドルが米国から流出し、ドルの供給の増加に見合う需要の増加がなければ、ドルの為替レートは下落し、米国の力の基盤を脅かすことになる。犯罪者が不正にドルを預けられるオフショア銀行を提供することで、アメリカ政府はドルの為替価値を支えていた。 ハドソンは、米ドルの価値を押し下げる要因であるアメリカの国際収支の赤字が、完全に軍事的な性格のものであることを発見した。米財務省と国務省は、海外での米軍の軍事作戦が米国の国際収支に与える悪影響を相殺するために、カリブ海の違法利益の隠れ家を支援したのである。言い換えれば、米ドルを支えるために犯罪が利用できるなら、アメリカ政府は犯罪に大賛成なのだ。 この状況の経済学となると、経済理論にはまったく手がかりがなかった。貿易の流れも直接投資も、為替レートを決定する上で重要ではなかった。重要なのは「誤謬と脱漏」であり、ハドソンが発見したのは、麻薬の売人や政府高官が自国の輸出収益を横領する、ホットで流動的な資金の婉曲表現だった。 アメリカ人にとっての問題は、両政党がアメリカ国民のニーズを、軍事・安全保障複合体、ウォール街とメガバンク、そしてワシントンの世界覇権の利益にとって障害であり、負債であるとみなしていることだ。ワシントンの政府は、アメリカ市民ではなく、強力な利益団体を代表しているのだ。だからこそ21世紀は、市民を帝国とその受益者の必要から遠ざけるために、市民の憲法上の保護に対する攻撃で成り立っているのだ。 ハドソンは、経済理論が実際には国民から金をむしり取るための装置であることを学んだ。国際貿易理論では、債権者に支払うために国内の賃金を引き下げるだけで、各国は莫大な債務を返済できると結論づけている。これは現在ギリシャに適用されている政策であり、IMFが債務国に課している構造調整プログラムや緊縮財政プログラムの基礎となっている。 ハドソンは、金融理論が賃金と消費者物価にのみ関心を持ち、不動産や株式などの資産価格のインフレには関心を持たないことを学んだ。ハドソンは、経済理論が世界経済の貧富の二極化の隠れ蓑になっていることを知った。グローバリズムの約束は神話である。左翼やマルクス主義の経済学者でさえ、搾取を賃金の観点から考えており、搾取の主な手段が金融システムによる利払いへの価値の抽出であることに気づいていない。 経済理論が搾取の道具としての負債を軽視しているため、ハドソンは、初期の文明が負債をどのように処理したかという歴史を調べた。彼の研究は非常に画期的で、ハーバード大学はピーボディ博物館でバビロニア経済史の研究員に任命した。 一方、彼は金融会社からも引っ張りだこだった。彼は、アルゼンチン、ブラジル、メキシコが超高金利の国債を支払える年数を計算するために雇われた。ハドソンの仕事に基づいて、スカダー・ファンドは1990年に世界で2番目に高い収益率を達成した。 ハドソンは、現代における諸問題を調査するため、経済思想の歴史に踏み込んだ。ハドソンは、18世紀と19世紀の経済学者たちが、金融セクターの利益を優先するために債務を本質的に軽視する今日の新自由主義経済学者たちよりも、はるかによく債務の取り消しを理解していたことを発見した。 ハドソンは、欧米経済が金融部門の利益のために公共の利益を犠牲にする略奪的な方法で金融化されてきたことを示している 。だからこそ、経済はもはや普通の人々のために機能しないのだ。金融はもはや生産的ではない。金融は経済に寄生するようになったのだ。ハドソンは近著『Killing the Host』(2015年)でこのことを語っている。 どうすれば経済学を学べるのかと読者からよく聞かれる。私の答えは、ハドソンの本に何時間も費やすことだ。まず、何が取り上げられているかを知るために、この本を1、2度通読する。それから、セクションごとにじっくりと勉強する。この本を理解すれば、ノーベル賞を受賞したどんな経済学者よりも経済学を理解することができるだろう。 このコラムは、この本の入門編としてお読みいただきたい。時事問題や時間の許す限り、この本についてもっと書いていくつもりである。私の知る限り、多くの時事問題は、金融化した西欧経済に関するハドソンの説明と切り離して理解することはできない。実際、ロシアと中国の経済学者のほとんどが新自由主義経済学の訓練を受けているため、この2カ国も西側諸国と同じ下降線をたどるかもしれない。 金融化に関するハドソンの分析と、雇用のオフショアリングがもたらす悪影響に関する私の分析を合わせれば、西側世界の現在の経済的道筋が破滅への道であることが理解できるだろう。 ポール・クレイグ・ロバーツは元米財務次官補で、ウォール・ストリート・ジャーナルの副編集長。ロバーツ著『How the Economy Was Lost』はカウンターパンチ社から電子版で発売中。最新刊は『The Neoconservative Threat to World Order』。https://counterpunch.org/2016/02/03/why-michael-hudson-is-the-worlds-best-economist/
とはいえ、である。ハドソンの著書を直接的には読んでおらずその概要しか知らない私が「敢えて」言わせてもらえば、日本でのマルクス主義者柄谷行人が金融資本の弊害を繰り返し強調している。別の言い方をすれば柄谷の「交換様式」をめぐる思考はハドソンの思考にすこぶる近似している。
◼️Three Spheres of Mark Stahlman vs the Three Spheres of Michel Bauwens
My reading is the following: I see history as a competition between relational grammars (Fiske), modes of exchange (Karatani) , or as I call them ‘modes of coordination’. Michael Hudson comes close to this interpretation as well.
言わせてもらえば、巷の知識人に対して私はマルクスをいまさら読めとは言わない、が、まずは柄谷の『トランスクリティーク』と『世界史の構造』を読め、と言いたい。近著『力と交換様式』はこの二つをある程度消化してからでよろしい(例えばこの3年のあいだ反主流情報提供に最も貢献をした人物のひとりであるのは間違いのないJ SATO氏は、マルクスどころかカラタニのカの字もない不幸を持っているように見える)。
くりかえしていうが、資本とは G - W - G' (G+⊿G) という運動である。通俗経済学においては、資本とは資金のことである。しかし、マルクスにとって、資本とは、貨幣が、生産施設・原料・労働力、その生産物、さらに貨幣へ、と「変態していく」過程の総体を意味するのである。この変態が完成されないならば、つまり、資本が自己増殖を完成しないならば、それは資本ではなくなる。しかし、この変態の過程は、 他方で商品流通としてあらわれるため、そこに隠されてしまう。したがって、古典派や新古典派経済学においては、資本の自己増殖運動は、 商品の流通あるいは財の生産 = 消費のなかに解消されてしまう。 産業資本のイデオローグは「資本主義」という言葉を嫌って 「市場経済」という言葉を使う。 彼らはそれによって、あたかも人々が市場で貨幣を通して物を交換しあっているかのように表象する。この概念は、市場での交換が同時に資本の蓄積運動であることを隠蔽するものである。そして、彼らは市場経済が混乱するとき、それをもたらしたものとして投機的な金融資本 を糾弾したりさえする、まるで市場経済が資本の蓄積運動の場ではないかのように。 しかし、財の生産と消費として見える経済現象には、その裏面において、根本的にそれとは異質な或る倒錯した志向がある。 G′(G+⊿G) を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない。マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部 第2章「綜合の危機」p323~)
より詳しくは➡︎「資本とは自己増殖する貨幣 」
さらに2016年の英語論文より。
M - M' (G - G′)において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積 は、人々が気づかないままに、階級格差[class disparities]を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟ Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016, 私訳)
この柄谷は直接的には次の資本論3巻の次のマルクスにある。
利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣が完成されている。 Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld〔・・・〕 ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G - G´ で持つのは、資本の中身なき形態 、生産諸関係の至高の倒錯と物件化、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化である。 Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form. (マルクス『資本論』第三巻第二十四節)
この文は次の資本論の第1巻の文とともに読むといっそうわかりやすくなる。
貨幣-貨幣‘ [G - G']・・・この定式自体、貨幣は貨幣として費やされるのではなく、単に前に進む、つまり資本の貨幣形態、貨幣資本に過ぎないという事実を表現している。この定式はさらに、運動を規定する自己目的が使用価値でなく、交換価値であることを表現している。 価値の貨幣姿態が価値の独立の手でつかめる現象形態であるからこそ、現実の貨幣を出発点とし終結点とする流通形態 G ... G' は、金儲けを、資本主義的生産の推進的動機を、最もはっきりと表現しているのである。生産過程は金儲けのための不可避の中間項として、必要悪としてあらわれるにすぎないのだ。 〔だから資本主義的生産様式のもとにあるすべての国民は、生産過程の媒介なしで金儲けをしようとする妄想に、周期的におそわれるのだ。〕 G - G' (…) Die Formel selbst drückt aus, daß das Geld hier nicht als Geld verausgabt, sondern nur vorgeschossen wird, also nur Geldform des Kapitals, Geldkapital ist. Sie drückt ferner aus, daß der Tauschwert, nicht der Gebrauchswert, der bestimmende Selbstzweck der Bewegung ist. Eben weil die Geldgestalt des Werts seine selbständige, handgreifliche Erscheinungsform ist, drückt die Zirkulationsform G ... G', deren Ausgangspunkt und Schlußpunkt wirkliches Geld, das Geldmachen, das treibende Motiv der kapitalistischen Produktion, am handgreiflichsten aus. Der Produktionsprozeß erscheint nur als unvermeidliches Mittelglied, als notwendiges Übel zum Behuf des Geldmachens. (Alle Nationen kapitalistischer Produktionsweise werden daher periodisch von einem Schwindel ergriffen, worin sie ohne Vermittlung des Produktionsprozesses das Geldmachen vollziehen wollen.)
現在の金融資本はここにある妄想に襲われている、ほとんど常に。金融資本は狂気の母だよ、ーー《利子生み資本全般はすべての狂気の形式の母である[Das zinstragende Kapital überhaupt die Mutter aller verrückten Formen]》 (マルクス『資本論』第3巻第24節)。
表題に「金融資本批判」としたが、この内実は「世界資本主義批判」である。最も重要なことは、この世界資本主義という「真の敵から目を逸らしてはならない(レーニン )」ことである。
・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・ 抜粋終わり
資本主義は、欠陥が多い。
それを知らんと、共産主義や社会主義を否定しても、意味ないは・・・