まったくもって無駄話。





実際種シリーズの敵は一貫してカテゴライズ化して他人を知ろうとしない人が敵だから(種では人種、運命では遺伝子、自由では役割)

へ~
でも、大事だよ・・・これ。

カテゴライズ化して他人を知ろうとしない人

はなんせ危険。「正確に知る」って孫子とか兵書が口酸っぱく言っているんでそれを怠ると、死にます・・・
のでね。


コンパス自体が無くなっても戦争や紛争が起きず、オーブ中心に軍縮できる世界を目指していこうって流れになるのかな
できるできないはともかく恐れから武器を取ることを辞めようというテーマかと受け取った
キラとラクスに決めてもらおう救ってもらおうと縋るのではなく一人一人が考えろやって結論なのかなと
まぁC.Eなんで綺麗事すぎるテーマだよね…

所詮「奇麗事」しか「大義名分」にならない。

それを実現するのが、政治家の仕事・・・・

失敗したら、罵倒され、下手したら殺される。

それなくては、「富の再分配」もママならない。


 劉秀の奴婢解放はしばしばアメリカ大統領リンカーンの奴隷解放と比較される。そして時代の古さから、劉秀の奴婢解放はリンカーンの奴隷解放と違い政治的なものとされる。しかし真相は真逆である。
 リンカーンの奴隷解放は明確な政治的な目的によるものである。リンカーン自身は確かに奴隷制反対の立場であったが、あくまでも国家の統一を優先し、南部が合衆国に戻るなら奴隷解放はしなくてもよいと考え、その意思を何度も南部に伝達していた。
 それが変更されたのは外交の問題である。南北戦争が長引くと、経済も人口も劣勢な南部が善戦していることに対して諸外国から同情が集まり始めていた。イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が介入する気勢を見せていたのである。
 それを封じるための政治戦略が奴隷解放であった。南北戦争を正義の戦争であると定義し、南部を奴隷制を持つ道義的に劣った存在とすることで、イギリス、フランスに南部を援助させないようにしたのである。これが功を奏し、イギリス、フランスともに南部を支持することなく、リンカーンは南北戦争を終結させることに成功したのである。
 それに対して劉秀の場合はどうか。当時の状況を見てみよう。
 新末の農民反乱の猛威に、豪族は自衛のために独立勢力となって、地方を割拠し、天下は分裂する。劉秀の統一に抵抗した政権のほとんどが豪族連合政権であった。特に蜀の公孫述政権、隴西の隗囂ともに典型的な豪族政権であった。
 蜀と隴西は戦乱の少ない新天地であり、中原の大混乱を避けたたくさんの避難民が流れ込んでいた。着の身着のままの難民は資産もなく土地もない。新しい土地で地元の豪族に奴婢として使役される身分に甘んじざるを得ない。公孫述と隗囂の政権では、無数の奴婢が使役されていた。
 ところが劉秀政権は奴婢の解放を早々と宣言し、その待遇改善を実行していた。公孫述、隗囂から見れば、兵員の八割以上が銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍から構成され、奴婢の解放と保護を宣言し、馬武、臧宮、王常といった緑林の将軍まで現役で活躍している劉秀政権は、農民軍政権そのものとしか映らなかったであろう。
 公孫述と隗囂の政権にとって劉秀に降伏するということは、その財産を大量に没収されることを意味していた。そのため公孫述も隗囂も劉秀の六分の一にすら満たない勢力であるのに、徹底抗戦を展開し、全滅するまで戦い続けたのである。劉秀の奴婢解放は統一戦争の妨げになっていたことがわかる。

 しかも当時の中国には道義的な理由で介入するような外国は存在しない。劉秀の奴婢解放は、実際の政治政策としては死傷者を増やす誤った政治戦略であったことがわかる。リンカーンの奴隷解放とはすべての意味で真逆なのである。

もし奴婢解放をするのなら、天下統一後にすればこうした抵抗はなかったはずである。ではなぜ劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのか。それは劉秀の政権の兵力のほとんどを銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍が占めているということにある。
 飢饉のために飢えに苦しんだ農民には、二つの選択肢があった。土地を捨てて流浪し農民反乱軍に加わるか、豪族に身売りして奴婢に転落するかである。このとき反乱軍に加わるのは壮年の男子が多く、女子供は豪族に売られることが多かった。劉秀の率いる兵士たちの妻子は、豪族に買い取られて奴婢に転落している者が多かったのだ。
 劉秀は常に自ら先頭に立って戦い、直接に兵士を率いていたから、当然、彼らの悲しみや悲劇を良く知っていた。夜な夜な妻子を想って涙する兵士がいることを。劉秀は自分の兵士たちの、家族に再会したい、家族とともに暮らしたいという願いを叶えるために、奴婢の解放に踏み切ったということなのである。
 劉秀自身、皇帝に即位してそれから洛陽を陥落させてやっと、妻の陰麗華、姉の劉黄、妹の劉伯姫と再会できた。家族との再会の喜びを自分だけが味わうことは許されないと考えたのであろう。そのため劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのである。
 


士大夫を言論を理由に殺してはいけない・・・と宋の国是




趙匡胤は皇帝になると、
跡継ぎの皇帝しか見られない命令を、石に刻んで2つ遺した。
ひとつめは「後周の皇帝一族を殺さず保護せよ」というもので、
王朝が交代すると前の皇族は皆殺し、という悪習が回避されたという、
これだけとっても画期的で尊敬に値することだ。
(後周の皇族は宋の貴族として、南宋滅亡まで優遇されます)

あり得ないほど素晴らしいのはふたつめの、
「言論を理由に臣下を殺すな」というもので、
皇帝に反対意見を述べても殺されない、世界初の「言論の自由」だ。
(対象は士大夫、一般庶民は関係ない、というかそんな機会がない)

[漢文の考え方](ここは読んどけ。赤丸超スーパー最重要だぞこれ)
したがって、大学受験に出てくる漢文も、
唐までは、命を賭けて意見を述べる描写がよく見られるが、
宋からは、殺される代わりに田舎に左遷されるので、
左遷された側の、都に帰りたい、という文が多くなっていく。
(古文の「東下り」を思い起こせば、あれに近い)
そういう概念で漢文を読めば、文脈を間違えない。

宋は、後に江戸幕府が真似をする文治主義を政策として、
節度使に欠員ができるたびに軍事に無縁の文官を当てるが、
太祖趙匡胤は、節度使に名乗り出た武将に、
「おまえに反乱する気がなくても部下に黄袍を着せられたらどうする」
と言ったそうだ。
そこまで考えての行動なら、たいしたものだと思う。

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