見出し画像

多分、協調 の方が圧倒的に強い。使いこなせたらの話だが。



競合よりも、たぶん、協調の方が強いと思う、使いこなせたらの話だけど。


最近嵌っている「光武帝」って人だが、まあ面白い。

で、ヘッダーの画像は、光武帝のドラマの「秀麗伝」の劉秀~光武帝


光武帝の詳細は、このサイトが巧い事載ってる


いろいろ引用させてもらっているけど、

例えば、その重臣の祭遵は、兵士まで「君子」として扱うようにしたので、

彼の死後、重病の時期の合わせて1年ほどの将軍の不在の期間がありながら、敵の襲撃を耐えきって勝利に貢献している。


その秘訣は

>すなわち、祭遵は兵士を立派な士人として扱うことにより、兵士に志と自覚を与えその質を高めたと考えられるのである。だからこそ、祭遵の指揮がなくとも自らの意志をもって戦うことができたのであろう。

そうなったのは

>将軍となると、部隊長を選ぶのに儒を基準して選んだ。戦場を前にしても、部下たちとともに儒の作法に基づいて酒を飲み、音楽を演奏し、雅歌を歌い、投壺(壺に矢を投げ入れる遊び)をして遊んだ。悠然として儒者の風があったのである。
 儒はこの時代の主要な学問であるから、こうしたイベントに兵士を参加させることは、兵士の教育に熱心であったことを示している。
 孔子はかつて「民を教えずして戦わせる、これを棄てるという」と述べた。兵士を教育してから戦わせることが肝要なのである。祭遵は、孔子の用兵を行っていたのである。
 人にもし立派な振る舞いをさせたいのなら、まず立派な人物として扱い、立派な人物であるという自覚を与えることである。相手を悪人であると見なして応対すれば、相手は悪人として振る舞うし、有能な人として応対すれば有能に振る舞う──これは心理学でいうピグマリオン効果として知られているものであり、集団に対したとき明確にあらわれる効果である。

人間って、目くそ鼻くそ扱いされると、所詮そのように相手は思う。潜在的にそう相手に対応する。

立派な人に、「立派な人」を遇されたら、大概の人が「立派な人」であろうとする。


競合こそ大事・競合が真理  て思想は、こんなことを為すことはできない。


そんな「相手を君子として扱う」人らを相手に「競合大事」な人が争って、普通に勝ち目無いよな。

「弱肉強食・下っ端は俺たちの駒」って思うような人たち相手に、誰がそういう上長や組織にアイデアを具申するだろうか?忠誠を尽くすだろうか?

「みんな英雄・みんな君子」で、アイデアを具申したり「忠誠・義理」を尽くそうとする組織やそういうトップに、

普通「競合がこの世の原理」って人たちが勝てるわけがない。


ちょっとこれも引用してみますか



 劉秀は悪く言えば主体性がなく、周囲の期待を吸い上げて生きてきた。劉秀の生涯からは、彼自身の意志や願望がほとんど見えない。
 劉秀はいったい何を望み、何を夢見て生きたのか。
 劉秀は一貫して他人を喜ばせることで自分も喜ぶという人間である。劉秀の言葉には次のようなものがある。
「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)」
 劉秀は天性の世話好きであり、お節介な人間である。酒も飲めないのに宴会好きなのも、他人が喜ぶ姿を見るのが楽しいのである。自分自身で楽しむよりも、他人と楽しむのがよいというのは心からの実感であった。
 家庭でも、家計を破綻させそうな兄の劉縯のため農業に努めて稼いだし、税金の減免交渉に出たり、姉の結婚相手を探すのに協力したりと、ここでも他人の世話ばかりである。長安での学生時代も同級生のために解説してあげたり、郷里から上京してきた人に情報を与えたりしていた。いい人づくしである。
 侠客とつき合いがあり裏社会に通じているという裏の面があると思ったら、そこで行ったことも逃亡者を匿って逃がしてあげることだった。どこまでも困っている人を助けるのが何よりも好きな性格なのだ。
 河北へ脱出したとき、自らのことを考えれば河北の有力者と連携し独立の準備をすべきなのに、そうせずに、王莽の新法で法律にかかって困っている人々を救済する作業を始めた。
 王郎との戦いが終わったとき、敵に内通した者の内心を思いやって許してやり、銅馬軍との戦いの後は自分の命をかけて不安におびえる銅馬軍を安心させた。皇帝に即位すると兵士たちの家族との再会の願いを叶えるため奴婢の解放令を出した。隠者を招聘しても相手が拒絶すれば強要せずに、相手の志に従った。
 皇帝になっても相手の気持ちを考えて喜ばせるという劉秀の行動原理は変わらなかった。
 死に際しての遺言が「朕は百姓に益するところなし」という衝撃的な言葉で始まるのも、自分が他人に何ができるかということを常に念頭に置いていたことを示している。最後の瞬間まで他人に対して何をできるかを考えていたのだ。劉秀の言葉や行動には、常に相手の視点から見て考え、相手の望みをかなえるという思想がこもっている。そしてそれを自分の喜びとして取り込んでいくのが劉秀なのである。
 この劉秀の性格をかつて馬援は、人にしてあげられることがあればすべてしてあげようとする人だ(極盡下恩)と評したほどである。
 ただ人の望みをかなえることばかり考えて、人に与え続ける生涯を生きた劉秀は、逆説的にも世界のすべてが自分のものになってしまう。それも文字通りの世界帝国の支配者としての物質的なものだけでなく精神的なもの――国民からの厚い信頼、美しい妻と愛する家族、生涯変わらぬ戦場の戦士たちとの友情……。
 しかしもちろん劉秀にとって何が本当に欲しかったものなのかは明白だ。
 無数の押しつけられるように得たものの中で、ただ一つ、公言して自ら望んで得たもの。
 ところがこのただ一つの願望を実現するには、信じられないほど大きなことを成し遂げなければならなかった。離ればなれになった陰麗華と再会するためには、皇帝になって郷里に帰る以外に道はなかったのだ。
 陰麗華との息子である明帝劉陽は、母親思いでしばしば両親の夢を見た。そこでは劉秀と陰麗華がいつものように楽しく会話していたという(先帝太后如平生歓)。"歓"とは声を出してにぎやかに騒ぐことを言う。冗談を言うのが何より好きな劉秀と、時にはその冗談が嫌いと反発した陰麗華。二人がどんな愉快で楽しい会話をしていたか想像に余る、二人の仲睦まじさが偲ばれるエピソードである。
 劉秀は、その夢を実現したのである。


ふと、理趣経の経文の邦訳を思い出す

五段 (富の法門) 虚空蔵菩薩の巻
 ついで、大日如来は、三界のすべてのものの主であり、そのすべての福を集める一切三界主如来の姿となられ、すべての如来がすべての人々に灌頂(めぐみ)する真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。これは灌頂の智慧をみきわめる「四種の施行」である。
① まず、自ら智慧の水をすべてのものに灌ぐものとなり、これによって真理を悟って成仏する。最上の宝を他人にも自分にも施し、三界のすべての心に願うところとなり、三界の法王の境地に到る。(灌頂施)
② また、あらゆる人々に義利(よきもの)を施し、世の生活に不如意なものを取り除く。そうすれば、この世の一切の願いは満ち足らされるであろう。(義利施)
③ 次に、如来の法(おしえ)を人々に施すことにより、一切のものが法性(普遍の真理)を獲得することであろう。(法施)
④ 最後に、生(いのち)の資(もと)となる種々様々なものを施す。この行ないによって、世のすべての飢えたるものは、ことごとく苦しみから救われ、身口意(しんくい)も安らかで楽しいものとなるであろう。(資生施)
 かくて、一切の如来の灌頂智蔵という真理の体現者であり、虚空(おおぞら)のように無限の福徳を身に持つところの虚空蔵菩薩は、この「四種の施行」の真理を、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、金剛と宝珠とを連ねて作った冠を頭に頂いて、「すべてのものに智慧の水を灌ぐ」という教えを一字で表わす聖音「タラ-ン」を唱えたのであった。


>また、あらゆる人々に義利(よきもの)を施し、世の生活に不如意なものを取り除く。そうすれば、この世の一切の願いは満ち足らされるであろう。(義利施)

>最後に、生(いのち)の資(もと)となる種々様々なものを施す。この行ないによって、世のすべての飢えたるものは、ことごとく苦しみから救われ、身口意(しんくい)も安らかで楽しいものとなるであろう。(資生施)


ソノモノ とは言わないけど、それに近い。


孫子にいう

孫子曰く、凡兵を用るの法は、国を全するを上と為なし、国を破るは之に次ぐ。
軍を全するを上と為し、軍を破るは之に次ぐ。
旅を全うするを上と為し、旅を破るは之に次ぐ。
卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。
伍を全するを上と為なし、伍を破るは之に次ぐ。

ようするに「相手を叩き潰してしまうよりも、仲間にした方が良い。まあ戦いだから「叩き潰す」も居るけど、次善の策だな」

て話。

その後に

「百戦百将は善の善ならず、戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるもの也」

は、百回も戦えば、相手も減っても、当然こっちも消耗して破滅する

ので、「戦わず」に自分も保存して相手も吸収して、「無敵」じゃん!って話。


こんなのは「競合こそこの世の原理」では出てこない。


もっというと

競合こそ真理・原理  て人らは、勝てば勝つほど、「敵・恨みをもつモノ」が増えてくる。

まさに「百戦百勝は、善の善に非ざるなり」

この百戦百勝は、孫子が書かれた時代に「英雄的資質をもった暴君の紂王の破滅の原因」と言われてたそうだ。そう「百戦百勝」はむしろ「百回も戦う羽目に至った失敗」でもあるのだ。

でも

「協調こそが、この世の原理」とみている人は、その人の成功や勝利が、周りを下手したら「対戦して負けた相手」も得をしたり、幸福になってしまう。

そうなると「勝てば勝つほど、戦力が増す」って状態になり、挙句は「戦う気が無くても勝ってしまう」

得になるのものな、負けても相手は。


これも孫子からで

これが敵に勝ってますます強さを増すということである。

てことだな。


あと

>「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)」


て心理学でも、ある程度「正しい」って言われているだろうし、

リアリズムで孫子で考えても「百戦百勝は善ではない」って見方を含めてみても、

「自分だけの幸福を追い求めて、束の間に消える幸福よりも、みんなで幸福になって、みんなで幸福にしあう方が、幸福が消える可能性も減り増える可能性ばかり増えるので得」

て言える。


で一つの仮説の結論として

>「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)」


多くの人と、楽しみと幸福を分かち合って増やせば

>また、あらゆる人々に義利(よきもの)を施し、世の生活に不如意なものを取り除く。そうすれば、この世の一切の願いは満ち足らされるであろう。(義利施)

>最後に、生(いのち)の資(もと)となる種々様々なものを施す。この行ないによって、世のすべての飢えたるものは、ことごとく苦しみから救われ、身口意(しんくい)も安らかで楽しいものとなるであろう。(資生施)


で、満たされ、安らかになり、それで


>これが敵に勝ってますます強さを増すということである。

で、競合せずして、相手を屈する・あるいは「飲み込んで」協調・協働してしまう。


で、ハッピーエンドがエンドレス。


て話。

追加で

平等思想の源泉・戦場とユーモア
 こうした劉秀の平等観はどこからきたのか。
 一つは戦場である。戦場では皇帝といえども将軍に従わなければならないとされているのだ。皇帝であるより、将軍として戦場に生きた劉秀は、法律に将軍の姿を見て、そこに万人が従わなければならないと考えたのかもしれない。
 優れた将軍は兵と同じ待遇でなければならないとされる。食事も兵士と同じでなくてはならず、すべての兵士が休むまで休んではならないのだ。そしてその通りに、皇帝でありながら兵士と同じく自ら武器を取って戦ったのが劉秀である。皇帝であるよりもまず将軍として生きた劉秀は、平等であることこそが人の能力を最大に発揮できることを知っていたのである。


特に

>優れた将軍は兵と同じ待遇でなければならないとされる。食事も兵士と同じでなくてはならず、すべての兵士が休むまで休んではならないのだ。


諸葛亮兵書にも


将帥の陣中心得
1・水を汲んでこないうちから、「のどがかわいた」など口ばしってはならない。
2・食事の支度がととのわないうちから、「腹がへった」など口ばしってはならない。
3・かがり火をともさないうちから、「おお、寒い」など口ばしってはならない。
4・幔幕を張りめぐらさないうちから、「ああ、疲れた」など口ばしってならない。
5・夏でも扇を使わず、雨の日でも蓋をかけず、すべてを兵卒と共にすべきである。

とある。

ちなみにだいぶ後の宋の太祖皇帝は、出陣する将兵を見送るときに、雨の中、自分も傘を差さず見送り、そのままコートも着なかった。

側近にそれをやめるように言われて

「出陣の将兵が耐えているのだ。自分だけ安穏としてられるわけがない」

と断っている。


最近では、第二次大戦の戦没者の慰霊式の際に、プーチン露大統領が、雨の中傘もささずに儀礼を行った。てのあった。

そう「人間は砂糖では無いから」と。

画像1


>私たちは砂糖でできていないし溶けない。


なぜ、平等が大事なのか。それは、そうでなければ、司令官や命令者のために、本当には力を尽くす気など起きるはずも無いからだ。

>そしてその通りに、皇帝でありながら兵士と同じく自ら武器を取って戦ったのが劉秀である。皇帝であるよりもまず将軍として生きた劉秀は、平等であることこそが人の能力を最大に発揮できることを知っていたのである。


平等であることが、「人の能力を最大」に発揮させるのなら、「競合」で、

「俺は勝者で、敗者とは違う人間様で上級国民」な組織や社会は、どう考えても

人の能力を最大には発揮されない。


まして「天皇制」となると、もう絶望的なのは明白。

さらに天皇制ってのは天皇家以外の閨閥や財閥が「神様気取り」し、上級国民で他の日本人を、同じ人間とは見ない。

まあ、ゾンビですは、帝政日本って奴は。


ともわれ、

「競合が大事で、弱肉強食がすべて」って奴は、勝てないのですは。それは競合って奴が実は「この世の原理」から「外れている」ってこと。

て極論だが、あるいは「協調するための、一種のスパイス」に過ぎない。

競合しても、それで和して協調すれば、その「競合」はスパイスになる。

でも競合の過剰使用は、「不味くて食えない」だけでなく「毒で死んでしまう」

てことになる。


人間には短長・多寡がある。

それはそれだが、大局的にみると、マクロに見ると、「そんな特徴がある」だけで、それが「強弱・善悪」では無いのだ。

それをミックスしてコンビネーションして使ってこそ、うまく行く。

て世界・宇宙自体がそうだから。

「人間の平等」てことだから、協調し協働するように人間は動くようになり、それが、ミックスコンビネーションして、「人の能力を最大に発揮」させることができるのだ。


「競合」でそうはならない。

だが、

「協調」では、それが可能になり

「戦勢は奇正に過ぎざるも、奇正の変は勝げて窮む可からざるなり。奇正の還りて相い生ずるは、環の端なきが如し。孰か能く之を窮めんや。」

{戦いの情勢ってやつは、奇策と正攻法しかない。奇策と正攻法の変化は、言上げて言い究めることなどできない。奇と正が互いに変化して相互に生み出すのは、まるでメビウスリンクのようで、誰も極めることはできない{手私の勝手な訳}}

尽きることなく、変化して対応して、様々なモノや、幸いを生み出せるのだ。


で、

何故に


「人間の平等」が大事か。


協調が大切か。


これは「奇麗事」ではなく、


旨いこと使うと、

これこそが、


もっとも効率的で、

もっとも強く

もっとも有効に、


物事を為して達成できるからである。






今の所は、こんな感じか。


またなんか後で追記するかもしれないけど

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?