体育が嫌い。とリベラルの限界と。

正直、「体育」が私も大嫌いだ。


亡くなった津村喬さんが

「身体から拘束される。身体から人間性を奪われる」

とか書いてたように記憶する。

その経験が、津村さんが「太極拳」とか気功にのめりこんでいった大きな要因のようだ。



この記事を書いている人は、正直 熱心で真面目と思う。

でも愚生のような「発達障害」で「虚弱」な人は、その「集団行動」自体が、困難で、苦痛なのである。


今ならそういう人は別枠で授業もあることもあろうが、氷河期世代の私のころはそんなの無かった。


出来る人は、出来ない人の苦悩は、ほぼわからん・・・特に日本では・・・


昔読んでた「拳児」って漫画で「市村 太一」てキャラがいる。



イジメられてて、主人公の祖父に教わった「崩拳」をひたすら練習して、強くもならなかったが、いじめを克服した。

崩拳で、いじめっ子やチンピラを撃退できるほどでも、懸垂はできない・・のを、教師に笑われてたが、それを主人公が教師をたしなめて、納得させた。


最初の記事の「体育が嫌い」は、そもそも「出来ない子」を置いてけぼりにするなり「集団行動」のように「無理にでもついていかないといけずそれが難しい」ような子は、確実に「いじめ」の対象になる。


人間の「多様性」って見ると、普通に「出来ない子」が出てくるのは当然で、それを「無視」して、日本の体育の思想はある。

そもそも「工場労働者で画一に動ける」という経団連や戦前の軍部の「オーダー」に則った教育なのだしね。


仮に「懸垂」できなくても「崩拳」の練習を毎日できたら、たぶん身体的には問題もないだろう。


>できなくても罵倒されたり晒されたりせずただ褒められてする運動が超楽しかった


て本当にそう思う。



もうそう思う。


そういえば、孫禄堂っていう孫氏太極拳の開祖が

「あなたが、心身の健康を求めて健やかに暮らしたいのなら、責任をもって指導しましょう。ですが、武名を上げて天下・社会に名を響かせて名声をはせたいのなら、他の師匠に行った方が良いですよ」

と入門者に言ってたとか。


そういうのとは、日本の体育教育はかなりかけ離れていると思う。


「出来るやつと国家・天皇の押し付け」なのが、日本の学校の体育教育なのである。


それはちょうどこのサンデル教授の指摘とも同じくする。



上記文抜粋・・・・・・・・・

つまり、人種差別や性差別が嫌われている(廃絶されないまでも不信を抱かれている)時代にあって、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見なのだ。欧米では、学歴が低い人びとへの蔑視は、その他の恵まれない状況にある集団への偏見と比較して非常に目立つか、少なくとも容易に認められるのである。

この研究論文の執筆者たちは、大学卒のエリートが学歴の低い人びとに向けるさげすみの目を明らかにしただけでなく、いくつかの興味深い結論を提示している。第一に、高学歴のエリートは学歴の低い人びとよりも道徳的に啓発されており、したがってより寛容であるというよくある考え方に異論を唱えている。高学歴のエリートも低学歴の人びとに劣らず偏見にとらわれているというのが彼らの結論だ。「むしろ、偏見の対象が異なっているのだ」。しかも、エリートは自らの偏見を恥と思っていない。彼らは人種差別や性差別を非難するかもしれないが、低学歴者に対する否定的態度については非を認めようとしない。

・・・・中略・・・・

最後に、論文の執筆者たちによれば、能力主義社会において大学へ行く重要性を執拗に強調すれば、大学の学位を持たない人びとの社会的汚名を強めることになるという。「教育こそ社会問題を解決する万能策なのだと示唆すれば、社会経済的な地位の低い集団が特に否定的に評価される一方、能力主義のイデオロギーが強まるリスクが大きくなる恐れがある」。そうなれば、人びとはさらに躊躇なく不平等を受け入れ、成功は能力の反映だと信じやすくなる。「教育が個人の責任だと見なされれば、人びとは、教育の違いから生じる社会的不平等への批判を弱める可能性が高い……教育成果の大部分が受けるに値するものだと考えられるなら、その帰結もまた受けるに値するものなのである」

・・・・・・中略・・・・・

トランプは、聴衆に自分の学歴を思い出させる必要があると感じることがよくあった。彼はフォーダム大学で二年を過ごしたあとペンシルヴェニア大学へ移り、そこでウォートン・スクールの学部課程の授業を受けた。トランプは「入学の最も難しい世界最高の大学……超天才の集団」に通ったのだと自慢した。2016年の選挙運動中、トランプはこんな不満を述べている。彼が絶えず自分の知的経歴を語り、擁護しなければならないのは、保守主義者に対するメディアの偏見のせいなのだと。絶えず自分の知的経歴を語り、擁護しなければならないのは、保守主義者対するメディアの偏見のせいなのだと。

私がリベラルな民主党員として立候補すれば、メディアは私を世界中のどこであれ最も賢い人物の一人だと言うだろう。まさにその通り! ところが、保守的な共和党員だと、メディアは──何と、厳しく批判しようとする。だから、私はいつも「ウォートン・スクールへ通った、優秀な学生だった、あそこへ行った、これをした、富を築いた」などと言って話を始める。そう、私はいつでも自分のいわば経歴を示さなければならない。われわれは少しばかり不利な立場に置かれているからだ。
トランプ自身が不満や不安に駆り立てられていたとはいえ、自分は「頭のいい人間」だという度重なる主張は、批判者にとってはどれほど物悲しく滑稽に響こうとも、一つの政治的資産となった。トランプの選挙集会に参加した不満を抱えた労働者階級の共感を呼んだのだ。彼らはトランプ同様、エリートたちの能力主義的おごりに怒っていた。トランプの異議申し立てによって浮き彫りになったのは、能力主義社会が押し付ける屈辱だった。トランプはエリートをののしる一方で、エリートからの敬意を切望してもいた。2017年の選挙運動形式の集会で、トランプはエリートを激しく非難したあとで、自分自身がエリートなのだと主張した。

・・・・・・・・・抜粋終わり


以前、春秋時代の裨諶の事を書いた。

裨諶は、「郊外で無ければ、立てた作戦が的中しない」のだが、

日本の学校教育のようにそういう事情を勘案しないと、ただの「アホ」だったわけである。

またディスタンクシオンの指摘でもあるが、幼少期から「学校・学習」の態度を、触れられ、また遺伝子的に「合致しやすい」方が、それで良い成績を上げれて、さらにそれは親の資産・生活とほぼ比例している。当人の知能や資質とは別のモノで、すでに「生まれた時」から「格差」をつけられているのだ。


リベラルのアホがその「普通の人」らの苦悩や惑いをわからんように、体育でも「出来る人~教師」も、出来ない私らのようなポンコツは理解できないのだ。てあえて言ってみる。



まあ、そりゃ、リベラルも失墜するし、日本のスポーツもドンドン忌避される・特に野球も・・・そうなるは。


面白いのは、王陽明

「愚夫愚婦になり切ってこそ、教えれるのだ」

「高い泰山よりも、見えない平原のほうがはるかに広いよね」

て、なかなか面白いことを言っている。


そういえば、中国の政治思想書で

「名もなき老人や寡婦の声からも、耳を傾けろ」とよく出てくる。


晏子春秋 より

・・・・・・・抜粋

君よ、そんなに責めないで下さい。

臣はこう聞いています。下の者に直辞がなくなれば上の者は悪事を隠し立てするようになります。

人民がはばかってものを言わなければ、 上の者におごった行為があります。
昔、明君が上にあれば、下に直辞が多く、君が善を好めば、民がものを言わないことがありませんでした。

今、君に間違った行いがあり、びっこが直辞をもってこれを禁じました。

これは君にとっての福です。

ですから臣は来朝して慶賀するのです。この者を賞して、わが君が善を好むことを明らかにして、 この者に礼をつくして、わが君が諫言を受けることを明らかにさせてください

・・・・・・抜粋終わり


学歴が無いことで、バカにして、その言葉に耳を傾けなければ、危機の情報も、忠告も、意見も、普通の人は言わなくなる。

と、どんどん「気にすべき情報」を見過ごし、破滅と死に近づいていく。


諸葛孔明が

画像1

{諸葛亮 三国志10 より}

論語の孔子の言葉引いて

「傲慢かつケチならば、聖人のような才能があっても、評価に値しない」

と言っている。


そもそも「学歴の高さ」で傲慢な人間に、必要な情報を集めようって気になるかね。

ならんよね。


また諸葛亮兵書にこういう

諸葛亮兵書 兵要 自勉

 聖人は「天」を手本とし、賢者は「地」を手本とし、智者は「古{いにしえ}」を手本とする。
 驕れる者はみずから墓穴を掘り、自分勝手な者は禍の種をまく。口数多き者は約束を破り、自らの才能を誇る者は恩愛に欠ける。功のない者に賞を与えれば見放され、罪のない者に罰を加えれば恨みを買う。また感情のままにふるまえば、身の破滅を招く。

同じく 兵要 将誡

「書経」に
「君子をあなどれば、その心をとらえることができない。小人をあなどれば、その力を尽くさせることができない」
とあるが、将帥の心得の条も、このことばから導き出すことができる。
 将帥たる者は、なによりもまず兵卒の心をつかみ、賞罰のけじめを厳しくし、文武の道を兼ね備え、剛柔の術を会得し、礼・楽・詩・書といった教養科目に親しみ、智・勇よりも仁・義を優先させねばならない。

・・・中略

 味方の将兵に対しても、きめこまやかな配慮を怠ってはならない。危険にさらされている者には、救援を保証し、びくついている者には士気を鼓舞してやる。反乱の恐れのある者は巧みに手なずけ、冤罪を主張する者には無実の罪をはらしてやる。血気にはやる者は手綱を引き締め、女々しい者には勇気を奮い起こさせる。すぐれた計謀の持主は側近に登用し、讒言をこととするやからは追放する。また財をほしがる者には惜しまず与える。
 さらにつぎのことも銘記しておかなければならない。
1・相手が弱敵でも、嵩にかかって攻めたててはならない。
2・味方の強大をたのんで、敵をなめてかかってはならない。
3・おのれの才能を鼻にかけて、威張りちらしてはならない。


スポーツライターの広尾聡さんのブログでもその辺ことも書いてる


昨年末に、山中正竹さんにじっくり話を聞いた。近々記事にするが、山中さんが嘆いておられたのは「俺たちの時代は暴力なんて当たり前だった」という武勇伝を若い人に話すOBがいまだにいることだった。
スポーツと暴力、パワハラは相いれない。これは世界のスタンダードではあるが、日本では全く浸透していない。
高校野球は不祥事があるたびに報道され、学生野球協会が罰を与えるので(これ、いいとは思えないが)少しは改善されているが、大学野球の体質は変わっていない。
その幼さには愕然とする。第一に本人の責任ではあろうが、こういう人間を生み出した責任は「日本野球」そして日本の教育にもあるだろう。
「野球だけやっていれば世渡りができる」という日本野球の体質は、まともな社会人とは程遠い偏った人間を生みがちだ。指導者は選手を支配するために厳しい上下関係を作りたがる。また、実力本位の指導は、人間関係に軋轢を生みがちだ。
千丸は、野球一筋で生きた。野球をすること以外に知らないままに甲子園に出て、野球で大学に行った。プロになるかどうかはわからないが、それでも「野球で飯を食う」以外には考えられなかったのだ。しかし、駒沢大の過酷な暴力、パワハラに耐えることができなかった。上下関係の強い組織では、弱いもの、身体の小さなものがより虐められることが多い。167㎝の千丸は格好の標的になったのだろう。

指導者に「愛・慈悲」も無く「礼」もなく

智・勇よりも仁・義を優先させ、無い。


そんなのが「体育指導」の「国家の中枢部」にいてセレブ。


て、まあ 破滅は必至なのだ。


>「君子をあなどれば、その心をとらえることができない。小人をあなどれば、その力を尽くさせることができない」


孔明が引用した書経の言葉の通りであろう。


おまけにまた諸葛亮兵書 より


 将帥は、おのれの能力を鼻にかけて増長してはならない。増長すれば、それがおのずと態度にあらわれて、人に礼を失う。礼を失えば、人心の離反を招き、部下を心服させることができなくなる。
 将帥はまたケチケチして、賞を出しおしみしてはならない。賞を出しおしみをすれば、部下は命を投げ出そうとしなくなり、そうなれば、せっかくの軍事行動も所期の目的を達することができなくなるし、ひいては国土を敵に侵略されることにもなりかねない。
 孔子もこう語っている。
「たとえ周公ほどの並びない才能に恵まれていても、そのために増長したり、またそれを人のために出しおしむとすれば、ほかにどんな美点があっても評価するに値しない」



あまり、上手く「オチ」が付かないけど


「体育嫌い」

「リベラル忌避」


どっちも

「体力」「智慧と文化」


を持っている者の

「傲慢」


が起因しているのだ。


そもそもだ、

リベラルで真に「理性を信じて、それの無限の可能性を信じている」

のなら、

今のところ顕現している「理性とその成果」の、「小ささ」を理解し、体感すらできてるはず。

それゆえに「理性」での今での判断にも慎重になるはずだが・・。

それもわからんのが「理性の無限の可能性を信じている」ってアホだよな。


ていうか体育教育も、どうも「アホ」が作っているから、「虚弱な人が強くなる」って理解できずに、侮蔑している傲慢。

まあそういうやつはもっと「強い」のが出てくるとそっちに即鞍替えするのは一目瞭然。


傲慢を「セレブ意識」「地位」「知識」で誤魔化している連中が、社会を指導しているのだから、


当然に、日本社会は悲惨になるのだよね。









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