肝心なことがわかってない。死んだら精神が病んだら、学問どころではない。学校と言う処刑場。


て本があるとか。

読む気がせんは。

レビューを二つ挙げとく

アマゾンの書評から

上記文抜粋
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腰痛人生
ベスト500レビュアー
5つ星のうち1.0 齟齬誤謬、偏見、侮辱、確証・認知バイアス、問題発言と、ツッコミどころ満載

著者は「はじめに」で、読者を教育関係者、中高生に想定し「本書は、刺激や気づきから学校のあり方へのヒントになるようエッセー風にし、最後に全体をまとめる」と述べています。
いやな予感。 経験上この手の前説は(失礼承知で言うなら)散漫な感想文の羅列を意味する可能性があるからです。 はたしてその予感は見事(?)に的中、だらだらと240ページ読んでしまいました。 途中で閉じなかった理由は、逐次的にツッコミを書き入れたからです。あまりに腹立たしいとマルジナリアも止まりません。 どれほど困惑したかを、ピッキーに主観的ツッコミで羅列するのは本意ではありませんが、このレビューはそうするしかないこと、ご容赦ください。 不愉快と思ったら閉じてくださるようお願いします。

まず、全体総括。
散漫な感想文、と前述しました。 主張や結論を論理的な章立てで浮かび上がらせるような構成は計算されていないということです。 一番「だまされた感」を感じるのは、本書のタイトル「学校はなぜ退屈で なぜ大切なのか」に対する著者の見解が抽出不可能であることです。 「はじめに」にある通り、それは読者が感じなさいということなのでしょう。 「はじめに」は脱稿後に後付けしたのでは、と勘繰りたくなります。 「学校が退屈な理由」らしきはP100の3行だけに言及されるのみです。 いわく「日常経験と乖離する学校知の本質だから仕方ない。学校とはそういうもんです」。 みごとにズッコケました。 そんなこた~誰でも知っとるわ、と黙読しながら叫んでしまいました。 なぜ退屈で なぜ大切なのか、気づかせてくれると期待してガマンして読んでも見事に裏切られます。 ウソだと思うなら読んでみてください。 ただし本書を読むより、授業参観で現場をライブ観戦したほうが分かりやすいと思いますが。 読んで溜まったストレスを吐き出さないとメンタル不調になりそうなので、以下、腹立たしいツッコミ例を本文引用しながら書き出します。

まず、第一章で「教育とは、意図的に他者の学習を組織化すること」との書きだし。p18
これがもっともシンプルな定義、と自慢げです。 「教育とは組織化」? 最も的外れな定義でしょう。 「『学校』とは組織化」、ならわかります。 あるいは「教育とは『体系化』」、とするならまだ理解可能です。 教育の核心枠をそう断じているのですから、のっけから噴飯もの。 以降に続く話が不安。 ちなみに、これまでに「教育」のもっともシンプルな定義として腑に落ちたのは、経済学者_故・宇沢弘文氏が「社会的共通資本」で述べていた「教育とは幸福へ導く営み」というものです。 だから個々の資質の成長を助けることが経済全体にとっても必要、と論を展開するわけです。 ハナシが逸れました。
P24で、その「被教育者の学習を『組織化しようとすること』」のポイントに言及しますが、「そうしようとする」のが教育なのだ、で説明終わり。 あとは「教育の失敗」へと話がすり替わっていきます。 核心部分をもっとしっかり説明しろと、これまた黙読中に叫んでしまいました。

「勉強できないからといって一人前の大人になれないわけではない。不登校でもきっかけをつかめば社会で自立してやっている」。P32
なんと失礼な表現でしょう。 不登校経験者が傷つくことでしょう。 けっして不登校=勉強できない、ではありません、まったく別物です。 大学教授の教育学者が不登校に不見識なはずはありません。 しかし配慮できないならその看板は下げてもらいたい。

イジメらている、あるいは孤立している子どもにむけ、「学校集団は人生のなかで一時的なもの、悲観的にならないで。いじめをするくだらないヤツのために落ち込んだり死んだりしてはもったいない」p48
励ましているつもりなのでしょうか。 学校生活の一時期でも心の傷は長く癒えることはなく、楽観的になれないからイジメは根深いのです。 くだらないヤツにいじめられるから落ち込むんです。 続く文章、「仲間集団内での自律的な交流が必要だから’イジメのような現象’も生じてしまい悩ましい」など、なんと楽観的な表現でしょう。 イジメは現象などではなく「意識的な行為」です。 いじめられている子どもたちをさらに傷つけるような言葉は慎んでほしい。

学校教育法五十一条_三項の「~健全な批判力」にトンチンカンな説明を加えます。「批判力とは社会で起きていることのいい悪いを吟味して判断できるようになること」。P60
批判力は、いい悪いの判断能力ではありません。 自分の考えを確立するために正当かつ妥当な反証ができることです。 その結果、妥当な正邪判断ができる可能性が高くなるわけです。 吟味して判断してしまうことはむしろ軽率な行為であり、判断前に一呼吸おくのが批判に必要とされる姿勢です。

さらに腹立たしい言い方は延々と続きます。
「学力が身に付くまで留年あるいは逆に飛び級、という習得主義には反対。そう主張する人は、君は落第と言われる子の辛さを知らない勉強優秀な子どもだったのでしょう。私も子ども時代は勉強が得意だったのでえらそうにいえないのですが、勉強が苦手な子ども目線で学校を見たい’とは’思ってます」p64。
どうです、このえらそうな言い方。 弱者の味方といいながら目線は見下す位置に…、平気でこういう書き方をしています。

まだまだ信じられない言い分が続きます。
戦後の偏向教育を話題に引用し、「多元的な社会化エージェントの環境下において怖いのは、むしろ国や大人たちが一つのことを『正しい』というようになった社会です」。p71 さらに、
「警戒すべきは過度の画一化。偏った思想を嫌う政治家たちこそが、多様性や多元性の重要性への感性が鈍すぎて自分が決めつける徳目や歴史像を教育に押しつけている」p72
一つのことを正しいと思うことと、多元的でないこととは次元が違います。 著者は、一つのことを正しいと思うことを「視野狭窄」と決めつけているのでしょう。 多元的であることに盲目的な方が視野狭窄です。 前述の「批判精神」を生かし一つのことを正しいと判断する信念は否定されるのでしょうか。 著者の言い分は、多様性、多元性、ダイバーシティといった流行語に冒された病です。 多様性、多元性は、認める対象であって、二項対立の一方ではありません。
民主社会において多様性を前提に議論することが重要である一方、「ブレない政治」と言うように一貫した考えを持つことは重要なことですし、そう導くことが教育の一目的でもあるはずです。 著者は無意識にそれを自己否定しています。 画一的であることを否定してしまっては教育は(特に公教育)は成立しません。 なぜなら、公教育は効率的に均一品質に徹する画一性こそが基本だからです。 教育研究者がそれを暗に否定してどうする。 ならば公教育はぶっ壊して解体せよ、と主張したらいい。

「『なぜこの問題は解くのが難しいのか。この問題は本当に存在するのか』を突き詰めて考えようとするのが学問なのです。この本もその角度から書かれています」。p74
そういうことを考えるのは学問ではなく哲学です。 本当に存在する難しいことを解く手順を考えるのが学問です。 この本もその視点で書いているから学問なのだ、と言いたいのでしょうか。 視点がオカシイ。 そんな学問など存在しません。

さらに驚きの発言。
「みなさんもどうか、たくさん失敗してください。私の学生にも、そうしていろいろ覚えていきなさい、と教えています」。p86
最初から「たくさん失敗を」と言っては絶対にいけません。 まずは「失敗しないように準備しなさい」という心がけを諭すべきです。 放っておいても半分は失敗します。 「失敗しなさい」ではなく「失敗はあります」というべきであって、事後的なフォローが大切です。 失敗して反省してこそが学習、というのはその通りでしょう。 そのフォローが大切だからです。 しかし、最初に失敗を勧めるような言い方をしてはまったくの反面教師。 「失敗を恐れず」と「失敗していい」とはメンタルが真逆です。 失敗を目的化してしまうリスクを教育に採り入れていいはずがありません。 失敗しない入念さが目的だからこそ、失敗した経験が「経験知」として「学校知」を生かすはずです。 失敗してニコニコしている人間を量産してどうするのでしょう。

明らかな作話も繰り出します。
「私の子ども時代にはピアノや絵の習い事はまれだったので、そんな環境で育った私は学校の美術や音楽で教わった知識が後に役立ち、私の文化活動の基礎になりました」。p97
これは(推察にすぎませんが)学校知が文化的教養基盤に貢献しているとする強引な作話でしょう。 学校の音楽や美術の授業が後の自身の文化的背景に寄与した事実はあるかもしれません。 しかし、大半は逆です。 学校の美術や音楽の授業とは無関係に音楽や美術への素直な感性を体得していったのが普通だったと思います。 著者は、自身が述べるとおり優等生だったので、文化的学校知が後の人生に影響を与えたのでしょう。 そんな人は稀です。 学校の音楽美術で作画したり作曲したりが開花した人は知っていますが、鑑賞する立場で開花した人は寡聞にして知りません。

さらに眉間にシワが寄ります。
著者の後輩が面白い研究をまとめたとのことで、その内容「できる大卒とできる高卒」の違いを引用、分析します。p112。
当該大卒・高卒間の仕事の同一性なしに有意判定は不可能、とツッコミ満載ですが、その研究者への批判にもなるので止めておきます。 問題は著者の解釈です。
「だから大卒の皆さんは勉強し続けるスキルが重要。同時に、だから高卒の人は上司の話を聞き先輩のお手本に学び勉強をコツコツとしてください。そすれば’できない大卒’を尻目に出世頭になるかもね」p114
バカバカしい、そんなくだらないアドバイスするな!と叫んでしましました。 高卒・大卒に無関係に学びは等しく重要です。 学んだから高所得との因果ではなく、高所得の人は学んでいるという事実があるだけです。 ついでに言うなら、仕事ができる人=高所得、ではありません。 せっかくの研究データを前に、こういうのを偏見とか思い込みというのでしょう。 ばかげてます。

次は問題発言。 道徳教育の視野と見極めにつきこんな発言が活字化されています。
「若いうちは不道徳なことをカッコイイとしがち、限度をわきまえてほどほどにね」。p126
これは教育する側の立場の発言として問題発言です(教育者ではなくて、研究者だからいえるのかもしれませんが)。
ほどほどの不道徳などありません。 限度をわきまえられないから道徳に反するわけです。 それこそ事後的に失敗を諫めるなら理解はできなくはない。 しかし、失敗を薦めている著者です。 不道徳まで薦めるのでしょうか。 道徳は人の道。 まずは守りなさいとなぜ言わないのでしょう。 このような方が教育を研究し大学で教えているなど、考えただけで恐ろしい。

困った自慢話が出てきて赤面します。
「日本の人たちに知ってほしい英語の格言『きしむ車輪は油を差してもらえる』は、はっきり主張すれば事態は改善されることを意味する。『広田先生の生き方はこんな感じですね』と同僚の教育学の先生から教えてもらった」。p143
だったら、これほど主張のない(どころか齟齬誤謬ばかりの)本など書きなさんな、とマルジナリアがボールドです。

次は微妙な文章。能力を測る正当性についてです。
「原理的にみて正確に測れないのに、入試で1点差は『能力』の差とはいえない、なぜならそれは恣意的なモノサシだから」。p147
たしかに1点差は能力の差とはいえません。 しかし、能力は一定のモノサシと条件で正確に測れるという側面を無視できません。 1点低かった人が1点高かった人より後に大幅に能力を発揮する可能性は否定できません。 入試であれば、合格点より1点低かった人の方がふさわしい人材だった可能性があります。 「能力に応じて」とする憲法26条の教育を受ける権利の文言が、じつはいい加減なのは著者の言う通りです。 しかし誤解を恐れずに言うなら、陳腐化しないように解釈運用できるいい加減な余地を残したのも憲法です。 そうしないと年中改憲しなければなりませんから。
教育における「能力論」は、因果推論の根本問題の典型です。 絶対に結論は出ないので、いくらでも議論すればよい。

二重の”オヤ?”が続きます。
「企業は卒業証書のランク付けを人員の採用に”活用”します。これがシグナリング理論ですね」。p151
そんな活用はありません。 アカデミックにシグナリング理論などと名付けてほしくありません。 自身が企業人事に携わったことがあるならまだしも、机上の調査でデタラメ言うなと言っておきましょう。
「ただし、労働市場で学歴による序列化はあるが、’どの仕事も’いったん仕事に就けば実力が重要になるのが普通だ」p151
あわててフォローしたつもりのようですが、これも現実を知らない言い訳です。 実力と学歴は、今も両輪です。 給与体系は中卒、高卒、大卒、院卒、とスタートから区別化され、その基本給をもとにボーナスその他が上乗せ計算されるため格差は顕在化しています。 実力が重要なのは確かですが、それをいうなら「実力」の定義づけをしなければ説明になりません。 思い込みを事実のように言うのはやめてください。

次はアンケートで知ったかぶりのページです。p152、153
「アンケートの結果、多くが学歴重視の人事がなされていると’思う’けれど、自分の職場は違うと答えている。仕事において学歴はあまり関係ないということ。同期入社でさほど差はないでしょ。だから『学歴が有効なのは就活の一瞬だけであとは実力。だから大学在学中に力を蓄えなさい』、とアドバイスしています」
なんという思い込みでしょうか。
学歴重視とはいえ実際の職場はそうでもないと「思う」というだけであり、本当にそうなのかわからない意味なしアンケートをさらに拡大解釈しています。 アンケートというデータドリブンを匂わせて、その実、たんなる推察を事実のように語っています。 そもそも「本当に能力があるのか」と「学歴より実力重視なのか」とは別次元の話です。 学歴は就活の一瞬、などということは絶対にありません。
たしかに、たとえば製造メーカーの社長は、微分・積分しながら仕事はしていません。 しかし技術者として採用された社員間で最初からそういった学力・知識の差は歴然とします。 その実力がないと分かった社員は、クビにできないので別の畑の職が頃合いに充当される(配置転換)のが通常の人事です。
学歴がすべてとは言いませんが、知識や能力の差が就活時の一時的なものということはけっしてなく、即戦力となるかどうかを見極める指標であることは今も昔も変わりません。 戦力としてかんばしくないと判断された人材は残念ながら、学校で勉強してきたことや学問とは別の仕事に回されることが少なくないことも確かです。 その場の応変力が必要とされるから「学校知」とか学問以外にバランスした「経験知」が必要なのではないでしょうか。 実際の仕事の現場はアンケートなどで把握できるものではありません。 実際の企業経験がなければ分からないと思います。

的外れは続きます。
「エリート教育は、その特別な子どもたちが進学や就職の機会を独占してしまい、教育機会の平等を保障できなくする」。p154
たしかに就職機会の不平等につながるとはいえそうです。 しかし進学の機会は独占されるでしょうか。 優秀な生徒が上から順に進学するだけのことで、独占はしません。
「日本も義務教育段階で私立学校に行かないと有名大学に入れない社会になりつつあると心配している」同頁
有名大学に入らなくても、社会において、仕事において無関係に活躍できるとアンケート結果を解析した直後にもかかわらず、そんな心配してどうするのでしょう。 有名大学入学への序列化を礼賛するホンネ丸出しです。

教育学の教授とは思えない素人っぽい意見が出てきます。
「不利な家庭環境下にある子どもたちをサポートするために、教育行政の方、教員の増員をお願いします!」p168
ズレています。 教員の”給与”を増やしてください。 そうすれば優秀な教員は増えます(今でも現場の優秀な先生は頑張っていますが、成り手が減っています)。 能力のあやしい教員を増やしてどうするのでしょう。

以下、違和感のある問題指摘です。
「医療は個々の症状は違えど『健康回復が最終の共通ゴール』だが、教育で同様に『個別最適化』を図ると差異化を増大しバラバラの最終ゴールとなり、機会の不平等を作り出してしまう」。p175
教育の最終ゴールはバラバラではありません。 「幸福」という共通の最終ゴールがあります。 差異化を増大させるのはゴールではなく手段と過程です。 これは必然的にバラバラになっても機会の不平等には必ずしもなりません。 たとえば有名予備校や塾が近所にないとか、あっても経済的な都合で選択肢外となることは必ずしも不平等ではありません。 なぜなら予備校に通ったから有名な大学に入れたとする確固たる証拠はないからです。 有名な大学に入れる生徒がその予備校に通っていただけかもしれません。 ただし、経済状態や出自と進学には相関があります。 その地ならしには議論の余地があると思います。

以下、かなり違和感のある説明です。
「学校教育は、AIにより減る知的な『よい仕事』をめぐる競争の場としての役割を果たす」。p200
AIは将来的にどう機能するのか不明確です。 その不明確さに左右される教育を目的とするのが学校教育の役割だとは思いません。 逆でしょう。 不明確な未来にぶれない教育を粛々とこなすのが本来的な教育の姿です。 AIに左右されない『知的なよい仕事』などと煽ってどうするのでしょう。 そういう考え自体がすでにAIに支配されている、と言いたいところです。

さらにこんな偏見に満ちた文章が続きます。
「そうなるとイス取りゲームのようなもので、高度な教育を受けた若者が、低賃金で弁当を売ったりゴミを集めたりするような仕事に付く以外選択肢のない社会になってしまう。だから学校教育は『みんなが豊かさを享受できる社会』の実現に貢献しなければならない」p201
「弁当を売ったりゴミを集めたりする仕事」への偏見とディスクリミネーションに満ちており失礼極まりない。 問題発言です。 「だから教育は、みなが豊かさを享受できる社会に貢献を」とあわててフォローしたところで、偽善的な後付け文章です。

以降、AIがらみの意見が続きますが、ズレまくっていて列挙しきれません。
「AIの台頭により、なぜ学校で長期間学び続けるのか、子どもたちの動機付けへの新たな論理構築が必要になります」。p204
そんなことはAIとは無関係に、今も昔も必要な教育の核心部分です。

P214から先は、「自分探し」とか「アイデンティティ」という言葉を学校教育に関連づけて引用しますが、じつにトンチンカンで面白い。
「学校は『仮のアイデンティティ』は与えてくれるけれども『自分がどう生きればいいのか』の答えは教えてくれない」。「だから『<自分探し>のためには、家庭・友人・学校のありふれた日常を超えた何かを自分でさがしてみることをお薦めしたい」。p220、221
学校は生徒たちに、「仮の自己同一性」など与えません。 それは与えるものではないからです。 自分がどう生きればよいのかなど、一生分からないのが普通です。 そんな極めて個人的な個別マターを学校では教えもしないし、そんな目的もありません。 差異化して最終ゴールがバラバラになってしまうと、著者自身言っていたではないですか。 自分は、どこかに落ちているものではなく、したがって探すものではありません。 だから自分探しなんてやめなさい、というのがとっくの昔に多くの識者が合意した意見です。 それをぶり返してどうするのでしょう。

著者は「アイデンティティ」を「自分らしさ」と誤解しているのかもしれません。 他人と違う優れた部分が「アイデンティティで」、それを見つけるのが「自分探し」と思っている節がある。 そうだとしても、何が自分らしいのかなどの作為的な自分探しはやめて今を生きなさい、さもなければ挫折を繰り返すだけと諭すのが教育なのではありませんか? 大抵の人は他人と同じです。 他人と同じ部分で共存共生できる術を学ぶ画一化した教育が公教育であり、その公共の場が学校だと思います。 「自分探し」なんて薦めてどうするのでしょう。

本書のまとめにズッコケます。
「若い皆さん。どうか、<自分探し>をしてください。よい世界を作るにはその若い力が必要なのです」。p238
これが結論のようです。 「自分探し」なんてやめなさい。
「学校が退屈で大切な理由」を結論付けられる著者自身の自分探しは、まだ終わっていないのでしょう。

余白に書いたツッコミは、これでもごく一部です。 批判的に読む分には’読み応えのある’本だと思います、鵜呑みにしては危険であることを承知の上で。

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抜粋終わり

「退屈」を紛らわすために「いじめ」が発生している。って最近言われ出している。


おなじくレビューを一つ。

上記文抜粋
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学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか
読書
「学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか」を読みました。予想していた以上に、広い視点から学校教育について語られている本でした。タイトルに沿って、考えたことを2つ書きたいと思います。

●なぜ学校は退屈なのか?

個人的には、学校での手段が目的化しているのが最大の要因なのではないかと思いました。何のためのテストなのか?何のための学校行事なのか?何のための授業なのか?ギチギチに編成されたカリキュラムの中で、せっかく学校でしか学べないことばかりなのに、それらを詰め込むことが目的化している側面があります。教育の目的である「人格の完成」を今一度考えてみる必要がありそうです。

●なぜ学校は大切なのか?

仲の良し悪しに関わらず多様な人と協力しながら困難を乗り越えていく。これは学校教育ならではだと思います。社会に出てから色々な人と関わっていくことを考えると、これこそが大切なのだと思います。「地元つながり文化」というのも紹介されており、まさに西川先生の考える理想の社会に繋がります。

AIや世界の現状まで書かれており、筆者がそれらを踏まえてこれからの社会を作ってくれる子どもたちの育成を願っていることがものすごく伝わってきました。読書会に向けて、もうすこし自分の中で考えを整理してみたいと思います。

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抜粋終わり

アホだ。

そもそも「仲の良し悪しに関わらず多様な人と協力しながら困難を乗り越えていく。これは学校教育ならではだと思います」

そのための「いじめ」で生贄を作って、生き延びる。

それが人間の「サバイバルスキル」なのです。

第一「発達障害」等のモノの望んでも無くもった人らには、地獄ですは・・・それを長期に強要されるのは。

学校が退屈でも、ある意味構わんのです。

そうでなければ、「学べない事」がある。

だが、それのために命を落とす

・自分の尊厳を損ねて人生を棄損する

・精神が破壊される

・逆にそれを他人に科して犯罪者になる

てあまりに損な買い物である。


人生をよりよく過ごすために行く学校で、死ぬ・精神を破壊される・犯罪者になる・そのための

「長期に長時間、ソーシャルスキルの多寡がごっちゃ混ぜの子供たちを押し込んで、ストレスフルな人生を送らせる」

のは、バカでなければ、是とは言えない。

私は「学校が偉すぎるのが最大の問題」と思っている。

「勉強できないからといって一人前の大人になれないわけではない。不登校でもきっかけをつかめば社会で自立してやっている」

なら「学校に来なくてはいけない」みたいなことをいうのか?

そもそも「学校」のような「長期に大人数を詰め込んで長時間同居を強要する」のは、人類発生以降、「軍隊」と「僧院」くらいしかなかった。

それも軍隊も僧院もいじめや虐待の「多発生地域」であり、軍隊などは、それを防止するために死刑をもって統制していたのである。

そのような「軍隊」ってモノのありようを、最初期の軍事理論の孫子から「非常の法」「巧みに長い戦いなど聞いたことない」といっているのだし。

2000年前から、近現代日本人は、人文社会学をやり直した方が良いに決まっている。

でも、本当に「学校の勉強は退屈」なだけなのか?

少なくとも「即使える知識」なり「知見」を、ある程度教えるのは、ランチェスター二次法則からみたら、「3{使える知識・おもろい学習}対7{学校のつまらんけど大事な学習}」でやるのが、ベターで効率的に学習や学級運営ができるし、それですでにやっていてもおかしくないのにね。
少なくとも「いじめ」「体罰死」とかで、教師が煩わされることもないだろうし。

励ましているつもりなのでしょうか。 学校生活の一時期でも心の傷は長く癒えることはなく、楽観的になれないからイジメは根深いのです。 くだらないヤツにいじめられるから落ち込むんです。 続く文章、「仲間集団内での自律的な交流が必要だから’イジメのような現象’も生じてしまい悩ましい」など、なんと楽観的な表現でしょう。 イジメは現象などではなく「意識的な行為」です。 いじめられている子どもたちをさらに傷つけるような言葉は慎んでほしい。

これはその通りです。

だから「学校は処刑場兼肉ロボット製造工場」なのです。

これも「長時間拘束」を長期に繰り返す「軍隊か刑務所」のような「学校」という処刑場の在り様は問題なのですは。

ならいっそ「いじめ死」など聞いたことが無い「寺子屋」を復興させたら、いいは。

少なくとも日本で「いじめも無い先進的教育」といわれた北欧やキューバは、「寺子屋の近代西欧的焼直し」ですからな。

内藤朝雄さんのこの指摘が大事だよね。

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さらにそれが日本社会に及ぼす影響を考える必要がある。学校の分析を手がかりにして、人類がある条件のもとでそうなってしまう、群れたバッタのようなありかたについて考える必要がある。

学校で集団生活をしていると、まるで群れたバッタが、別の色、体のかたちになって飛び回るように、生きている根本気分が変わる。何があたりまえであるかも変わる。こうして若い市民が兵隊のように「生徒らしく」なり、学習支援サービスを提供する営業所が「学校らしい」特別の場所になる。

この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、私たちにとって、あまりにもあたりまえのことになっている。だから、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだす仕組みに、私たちはなかなか気づくことができない。

しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてくる。

市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多い。

たとえば、どんな服を着るかの自由がない。制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。

逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。

正当化するのがちょっと苦しい場合は、「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として責任からのがれることができる。生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて教育の問題にする。

こうして、社会であたりまえに許されないことが、学校ではあたりまえに許されるようになる。

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抜粋終わり

教室は未来の社会・・・て西欧の教育学者がいってたとか。

今の日本にもそれは当てはまる。

・いじめ自殺~過労死自殺

・教師の「教育的措置」による無法化~統一教会政権

・ブラック部活~ブラック労働

・いじめの黙認やその環境の放置~ヘイトや、移民の勧誘と、逆に難民への虐待

内藤さんも同じように

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学校は「教育」、「学校らしさ」、「生徒らしさ」という膜に包まれた不思議な世界だ。その膜の中では、外の世界では別の意味をもつことが、すべて「教育」という色で染められてしまう。そして、外の世界のまっとうなルールが働かなくなる。

こういったことは、学校以外の集団でも起こる。

たとえば、宗教教団は「宗教」の膜で包まれた別の世界になっていることが多い。オウム真理教教団(1995年に地下鉄サリン事件を起こした)では、教祖が気にくわない人物を殺すように命令していたが、それは被害者の「魂を高いところに引き上げる慈悲の行い(ポア)」という意味になった。また教祖が周囲の女性を性的にもてあそぶ性欲の発散は、ありがたい「修行(ヨーガ)」の援助だった。

また、連合赤軍(暴力革命をめざして強盗や殺人をくりかえし、1972年あさま山荘で人質をとって銃撃戦を行った)のような革命集団でも、同じかたちの膜の世界がみられる。

そこでは、グループ内で目をつけられた人たちが、銭湯に行った、指輪をしていた、女性らしいしぐさをしていたといったことで、「革命戦士らしく」ない、「ブルジョワ的」などといいがかりをつけられた。そして彼らは、人間の「共産主義化」、「総括」を援助するという名目でリンチを加えられ、次々と殺害された。

学校も、オウム教団も、連合赤軍も、それぞれ「教育」、「宗教」、「共産主義」という膜で包み込んで、内側しか見えない閉じた世界をつくっている2。そして外部のまっとうなルールが働かなくなる。よく見てみると、この三つが同じかたちをしているのがわかる。

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抜粋終わり

そもそも「退屈な学校」に耐えれるのは、ほぼごく一部の人間なのですは・・・それで選ばれた人間・・て思いこむアホによって今の「格差社会」が作られているのです。


以前から時々載せている裨ジン とか、こういう人らを使えないというか殺してきたのが現状の「学校」だからね・・・

死んだら、精神を壊したら、学校など意味ない。


学校行って犯罪者になるのが、日本での成功の秘訣。


一つ言えるのは、教師もそうだが、より以上に日本の指導者・指導層が傲慢でアホになっている。

まあ、これも「天皇陛下のおかげ」ですは。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

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