仏陀の傷。
はい。素晴らしい。おっしゃる通りです。久野収「天皇制顕教・密教論」がそれです。広田照幸「陸軍将校の教育社会史」、吉田裕「昭和天皇の終戦史」参照です。天皇は国体運営側に到達する立身出世に利用される「玉」が密教。非出世の通俗道徳負け組大衆には絶対崇拝を前者が求める顕教です。 https://t.co/5eei2WeK9K
— 昼寝猫 (@tcv2catnap) October 9, 2022
「天皇」を絶対崇拝させて、日本人へのピンハネをする。
それが「天皇」制。
読了、金のない明治政府は公的援助が薄く「ひたすら自分でがんばる」、それを江戸後半からの石門心学や報徳思想の「通俗道徳」が下支え、村請制も無くなり民衆はこの「わな」にはまり立身出世を夢見た苦学生は時に最底辺へ、暴動に参加する若者に、通俗道徳に逆行する都市民に、怠惰はやはりダメとなる pic.twitter.com/Ueh1uDAIwo
— グレンジャー (@grangerism171) June 12, 2023
自己責任論の横行は僕たちが「ひとに迷惑をかけるな」と言われ続けてきたことも原因だろう。これは奇妙なことだ。人間というのもそもそも「迷惑」な存在だ。それが共に在るということであって、避けるべきこというより基本的前提だ。そしてそこに「自己責任」のような皮相なものではない責任が生じる。 https://t.co/9T4S3UOZDI
— 山口貴志 (@derneueengel) August 18, 2021
仏教者が説いてきた自業自得と因果応報が正常化バイアスと結び付いて弱者への自己責任論がより強化されますね。法の支配における法的責任はより限定的なのですが、ここでは無限責任が問題となりますね。
— 小笠原正仁 (@ogacci) August 18, 2021
成程、仏教的背景ですか。僕は仏教にも暗いのですが、仏教の側に何か変質があるのでしょうか。単なるイメージにすぎないのですが、仏教的なものと現在猛威をふるう自己責任論は本来相容れない感じがするのですが。自己責任論の自己概念はあまりに浅薄だと思うのです。
— 山口貴志 (@derneueengel) August 21, 2021
江戸時代に思想的転向があったとする説があります。
— 小笠原正仁 (@ogacci) August 21, 2021
私は仏教者の立場で、自己責任論と自業自得の結びつきによる自己無限責任が、社会の構造的責任を免責すると主張してきました。曰く、障害、差別、不幸は前世の業であるとする説です。
— 小笠原正仁 (@ogacci) August 21, 2021
たいへん残念ではあるが、これは当たらない。仏教では、「菩薩は、生まれる家と両親を選んで生まれてくる」という伝承が古来からある。一切が菩薩でほとけであるという大乗仏教なら何をか況やである。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) June 20, 2021
そして、たとえば特に曹洞宗では、道元禅師は、「願生此娑婆国土し来たれり」といわれ、ようは自ら臨んで生まれてきたのだと明確に述べる。「親を選んで生まれてきた」と法話で話すのも最もであるし、そしてそれについて、仏教にかかわるものは誤魔化すことはできない。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) June 20, 2021
また業縁で生まれてくるのであれば、生まれに恵まれなかった場合、業が悪かった、つまり前世の行いが悪かったといっているようなものである。それで終わりにするのであれば、差別がそこから派生するのもやむを得ないということになろう。仏教は古来より現在に至るまで、この問題は泣き所になっている。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) June 20, 2021
↑引用
— ≠なかだち(頭は悪いが馬鹿ではない) (@madaraiguana4) March 7, 2020
「公正世界仮説(こうせいせかいかせつ、just-world hypothesis)または公正世界誤謬(こうせいせかいごびゅう、just-world fallacy)とは、人間の行いに対して公正な結果が返ってくるものである、と考える認知バイアス、もしくは思い込みである。
…「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。この世界は公正世界である、という信念を公正世界信念(belief in a just world)という。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、
— ≠なかだち(頭は悪いが馬鹿ではない) (@madaraiguana4) March 7, 2020
公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などが存在するという考えを暗に含む。公正世界信念の保持者は、
— ≠なかだち(頭は悪いが馬鹿ではない) (@madaraiguana4) March 7, 2020
「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、あるいは「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。
— ≠なかだち(頭は悪いが馬鹿ではない) (@madaraiguana4) March 7, 2020
一方、公正世界信念の保持者が「自らの公正世界信念に反して、一見何の罪もない人々が苦しむ」という不合理な現実に出会った場合、「現実は非情である」とは考えず、自らの公正世界信念に即して現実を合理的に解釈して「実は犠牲者本人に何らかの苦しむだけの理由があるのだ」という結論に達する
— ≠なかだち(頭は悪いが馬鹿ではない) (@madaraiguana4) March 7, 2020
また、相関研究によれば、公正世界仮説は、内部での統制の所在と相関している[28]。公正世界仮説を強く信じることは、人生の否定的な出来事を受け入れ、不満を減らすことにつながる[54]。これは、公正世界仮説が精神衛生に影響を与える1つの方法かもしれない。
— ≠なかだち(頭は悪いが馬鹿ではない) (@madaraiguana4) March 7, 2020
他の研究では、この関係は自分に身近な領域での公正世界仮説にだけ当てはまると示唆している。その代わりに、公正世界仮説における他者への信念は、他の研究で観察された被害者の非難と軽蔑という負の社会現象と関連している[56]。
— ≠なかだち(頭は悪いが馬鹿ではない) (@madaraiguana4) March 7, 2020
仏教者が説いてきた自業自得と因果応報が正常化バイアスと結び付いて弱者への自己責任論がより強化されますね。法の支配における法的責任はより限定的なのですが、ここでは無限責任が問題となりますね。
また業縁で生まれてくるのであれば、生まれに恵まれなかった場合、業が悪かった、つまり前世の行いが悪かったといっているようなものである。それで終わりにするのであれば、差別がそこから派生するのもやむを得ないということになろう。仏教は古来より現在に至るまで、この問題は泣き所になっている。
空海が「無明を父に生まれ、死と言う殺人鬼に殺される」と何度か書いていてる。
五生格別については、若干批判気味だった空海。「生まれながら、人間の格なり質は決まっている」のが、五生格別らしい。
「誰それは救われる救われないとか言う教えが、絶対の教えなはずがない」って確か秘蔵宝ヤク
そもそも「生まれる」自体が、本当は「無明・わけわからん」はずだが、それでも、人間は、理由をつけたがる。それ自体が無明で、差別も生んでいく。
この辺は、むしろ左伝の言葉で
「君子は、幼弱や卑賎を虐待しない。それは天を畏れるから」
の方が、態度としては正しいと思う。
あと
また業縁で生まれてくるのであれば、生まれに恵まれなかった場合、業が悪かった、つまり前世の行いが悪かったといっているようなものである。それで終わりにするのであれば、差別がそこから派生するのもやむを得ないということになろう。仏教は古来より現在に至るまで、この問題は泣き所になっている。
業が悪い人を差別したり虐待すると、因果応報なら、次は自分が、差別し虐待される。。て本当は因果論や仏道の話のはずだけど、それは「無かったこと」にされているのが、カルト日本。
その辺は、むしろ中国思想の方が、いいよな・・・
なんせ「やくざもの」の劉邦が「高祖皇帝」ってなっても、なんらおかしくないものな。
想像以上に「劉邦」って中国の思想への影響が大きいと思う。いくら競争社会でなんでもありでも、それなりに、世界中「階層」で「生まれ」の格差や差別が、厳然とあったはず。
でも、劉邦の存在って、「生まれ・階層・前世て、言っても、現に国家を統一し社会を安定させる奴が、一番偉いに決まっているは」って、ことだからね。いくら反対しても「それを為せた後の社会だから、いろいろ言える」って言えるしね。
まあ、そんな感じ。
オチはないけど。
世界・宇宙の「公正」と、人間の考える「公正」には、ずれがある。
その「公正」は、結構えげつなく、辛辣で、訳が分からん。て思う。
「公正世界仮説」ってのが、日本で「通俗道徳・自己責任論」って地獄を作っているので。
むしろ「世界は公正でもない。あるいは人間の構想できる「公正」ではない」
のが、正しいのだろう。
王陽明が「至善は、無善無悪」ってのも、そういうところの塩梅を言ったモノのでしょうね。
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