最後は「愛よ、愛だよ」かもね。


返事を書こうとおもっていたら、ちょうど、こんな記事も目に付いた。

先に結論を言えば、3つの要素が戦略家の能力をある一定の水準に限定していると私は考えている。
①自己本位であるため、視野狭窄になってしまう
②対人関係の面での包容力に欠ける
③マクロ的視点はあくまで慣習的で、ビジョナリーな要素に欠ける

へ~。


ていうが、歴史オタクの私としたら、「そういう欠点を持つのは、半人前の戦略家」と思う。

まあ、どれかの欠点はもっていてもいい。

以前書いた、

が、だが、あえて「癖のある戦略家」を使いこなすのが「大戦略家」ともいえるし。

で、さっきの抜粋

『正義と調和を希求する戦略家』
『正義と調和を希求する戦略家』とはいなかる能力を備えた人物か。その概要を述べておこう。私は上記人物が持っているメタスキルを正義指向力と言語化している。
正義指向力とは、戦略家らしく自分の理念・主義主張を持ちながらも、他者の価値観、物の見方を自分のそれと同等に尊重する態度が形成された物の見方と言える。そのため、正義指向力は傑出した戦略眼を持ちながらも、周囲と温かな人間関係を形成することができる。
正義指向力を持つ人物は、自己犠牲的ではない形で利他的な目的に心が占められていく。これを「去私的自我」という。自己犠牲的な利他とは明らかに異なる資質である。
正義指向力を持つ人物は、自分を包み込む大きなものに自分を同化させていく。家族、地域、会社、業界、国、世界等のために仕事ができることを喜びに感じる傾向がある。戦略家のように自分を強く押し出し、作為的に物事を実現する姿勢とは異なり、最善を尽くし、あとは流れに委ねるスタンスを持つ柔軟さを備える。
このように稀有なバランス感覚を備えた人間が、『正義と調和を希求する戦略家』なのである。
人はいかにして『正義と調和を希求する戦略家』となりえるのか
『正義と調和を希求する戦略家』。
自分の理念・主義主張を持ちながらも、他者の価値観、物の見方を自分のそれと同等に尊重する成熟した態度を取る人間。
自分としても合理的に勝てる算段などないと感じながらも、利他的な夢、熱情に駆られて高邁なビジョンを掲げ、成就させていく人間。
そうした極めて優れた人物像にどれほど憧れる人がいるかはわからないが、妥協なく自身のキャリアを成熟させていく意図を持つ少数の人のために、『正義と調和を希求する戦略家』に至る道について解説しておこう。詳細はこちらの記事も参考になるかもしれない。
一言で言えば『正義と調和を希求する戦略家』たりえるには、正義指向力というものの見方が不可欠だ。そして、正義指向力を持つためには己の死生観を整えることが必要になる。死生観とは死と生に対する見方である。もっと平たく言えば、何のために生きるのかという問いに、徹底的に向き合い、本心から納得のいく答えを自身の中に持つということである。
なぜ死生観が必要なのか?
死生観を元にしなければ、戦略家が合理や打算を超える理由がないからである。儲かれば良い、勝てればよいということであれば、よりリスクのない形で、予測可能性が担保された世界で勝ちをおさめることに終始する方が、実際に儲かる公算が高いのは言うまでもないだろう。
死生観を生きる人間は例えば「誰もが生きがいを持って人生を全うできる世の中を創るにはどうすればよいのか?」という、自我を超越した問いを持つことになる。そのような抽象的な問いに予測可能性が担保された合理的な答えなどあり得るだろうか?ありえるはずがない。
しかし、そのような問いに熱を帯びてしまっている人間は、リスクや周囲からの冷笑を浴びながらも、そうした世界観の実現に向けて歩みを進める。そのような態度は、他者を感動させることになる。そうして心から応援してくれる他者を仲間として巻き込んで、その運動を大きなうねりに変えていく。
もちろん、取り組みが大失敗に終わることもある。『正義と調和を希求する戦略家』は、不確実性の高い、困難な課題にぶつかっていくからである。散々に失敗して、落伍者の烙印を押されることもあるだろう。ただそのような挫折がさらに彼/彼女らを謙虚にし、胆力をつけさせ、捲土重来するための足腰を作りこむことを助けるのである。
『正義と調和を希求する戦略家』とは、自分が何のために生きるのかという死生観を定め、仕事に向き合う人間。そのような人は世の中にいるのか?と問いたい人もいるだろう。実際にはいる。
会社員でありながらも(実際には会社の役員以上である場合がほとんどだが)、彼/彼女らは組織で与えられた問題を解決していくマシーンなどではない。
彼/彼女らは彼/彼女らの固有の人生の問いを持って、組織の中で仕事をしている。彼/彼女らにとって会社とは、滅私奉公をする場ではなく、自分の自己実現のための大事な媒体になっているのである。そして、究極的に自分の自己実現、生きた意味の証明のために会社を利用しているにもかかわらず、そのような人間こそが会社に最も大きな価値をもたらすのである。
繰り返しになるが、『正義と調和を希求する戦略家』たりえるには、正義指向力というものの見方が不可欠だ。そして、正義指向力を持つためには己の死生観を整えることが必要になる。なお、このような死生観を定めることは、単に『正義と調和を希求する戦略家』としてキャリアを歩むための手段としてあるのではないと思う。実際のところ、死生観を持って生きることは非常に幸せなことなのだ。
アリストテレスは人間活動の究極の目的は幸福(eudaimonia)であるとした。アリストテレスが言う幸福(eudaimonia)とは、エゴイスティックな欲求を超越し、自己超越的な目的、つまりは利他的な目的に生きることによって得られる幸福と言った。アリストテレスは、人にはみな内なるダイモン(善性を持つ超越的存在)が内在しており、そのダイモンと調和した生き方が幸福の道だと主張したのである。
まあこれはアリストテレスの言葉を引っ張ってくることもないだろう。苦しんでいる同胞を見て、我々は平然と放っておくことができるだろうか?手を差し伸べて力を貸してあげたいと思うものではないだろうか?同胞の範囲とは何か?家族、クラスメイト、会社の同僚、国民、人間一般、何でも構わないと思うが、確かに我々には人に手を差し伸べること、人に与えることによって喜びを感じることができる感性が眠っている気がする。アリストテレスが言うダイモンと調和したあり方は、確かに我々に苦労も与えれば、とてつもな充実感と自己受容を可能にしてくれるのである。

・・・・抜粋終わり

さすがに本職のモノ書きだ。旨い事書いてるね。

でも諸葛亮はもっとシンプルに説明してくれている。

戒外甥

それ志は、高遠に存するべし。
先賢を慕い 情欲を断ち
疑滞を捨て 庶幾の情をして、掲然として存する所あり、惻然として感じる所ありらしめよ
屈伸を忍び、細砕を去り、諮問を広め、嫌吝を除かしむれば、
何ぞ美趣を損ぜん。何ぞ不済を煩わしめん。
若し志、強毅ならず、意亢慨ならず、徒に碌々として俗に滞り、黙々として情に束ねられなば、長く凡庸に竄伏して下流を免れざらん。


私の記憶してたのと、少し違うので、少し変えました。

志が「高く・遠く」ないと、それは

>徒に碌々として俗に滞り、黙々として情に束ねられなば

日常や、目先の欲、自分だけの私欲に引きずられる。

本当に、志なり野望が高ければ、

>屈伸を忍び、細砕を去り、諮問を広め、

人にわからないところは尋ねて教えを乞うだろうし、小さなわだかまりで他者を攻撃したり馬鹿にしない。それで自分の考えを広めていける。


その人が、なにを目標にしているか、大事にしているか。ってのが結構肝心なのだよね。


後漢の光武帝劉秀が

他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ 


とか言っている。って実はこれも儒家の経典の引用らしいけど。


 劉秀は天性の世話好きであり、お節介な人間である。酒も飲めないのに宴会好きなのも、他人が喜ぶ姿を見るのが楽しいのである。自分自身で楽しむよりも、他人と楽しむのがよいというのは心からの実感であった。
 家庭でも、家計を破綻させそうな兄の劉縯のため農業に努めて稼いだし、税金の減免交渉に出たり、姉の結婚相手を探すのに協力したりと、ここでも他人の世話ばかりである。長安での学生時代も同級生のために解説してあげたり、郷里から上京してきた人に情報を与えたりしていた。いい人づくしである。
 侠客とつき合いがあり裏社会に通じているという裏の面があると思ったら、そこで行ったことも逃亡者を匿って逃がしてあげることだった。どこまでも困っている人を助けるのが何よりも好きな性格なのだ。
 河北へ脱出したとき、自らのことを考えれば河北の有力者と連携し独立の準備をすべきなのに、そうせずに、王莽の新法で法律にかかって困っている人々を救済する作業を始めた。
 王郎との戦いが終わったとき、敵に内通した者の内心を思いやって許してやり、銅馬軍との戦いの後は自分の命をかけて不安におびえる銅馬軍を安心させた。皇帝に即位すると兵士たちの家族との再会の願いを叶えるため奴婢の解放令を出した。隠者を招聘しても相手が拒絶すれば強要せずに、相手の志に従った。
 皇帝になっても相手の気持ちを考えて喜ばせるという劉秀の行動原理は変わらなかった。
 死に際しての遺言が「朕は百姓に益するところなし」という衝撃的な言葉で始まるのも、自分が他人に何ができるかということを常に念頭に置いていたことを示している。最後の瞬間まで他人に対して何をできるかを考えていたのだ。劉秀の言葉や行動には、常に相手の視点から見て考え、相手の望みをかなえるという思想がこもっている。そしてそれを自分の喜びとして取り込んでいくのが劉秀なのである。
 この劉秀の性格をかつて馬援は、人にしてあげられることがあればすべてしてあげようとする人だ(極盡下恩)と評したほどである。
 ただ人の望みをかなえることばかり考えて、人に与え続ける生涯を生きた劉秀は、逆説的にも世界のすべてが自分のものになってしまう。それも文字通りの世界帝国の支配者としての物質的なものだけでなく精神的なもの――国民からの厚い信頼、美しい妻と愛する家族、生涯変わらぬ戦場の戦士たちとの友情……。

これって理趣経のこの一節を私は連想するのだけど。

① まず、自ら智慧の水をすべてのものに灌ぐものとなり、これによって真理を悟って成仏する。最上の宝を他人にも自分にも施し、三界のすべての心に願うところとなり、三界の法王の境地に到る。(灌頂施)
② また、あらゆる人々に義利(よきもの)を施し、世の生活に不如意なものを取り除く。そうすれば、この世の一切の願いは満ち足らされるであろう。(義利施)

与えることで、まさに「得られる」

老子の最後の章にも

聖人は自分のために蓄財などしない。
 彼は他人のために生きて,
 自らはますます豊かに富む。
 彼は他の人々に与え続けて, 
 自らはますます豊かな物であふれていく。

と。

自分たちを豊かにしてくれるもの・・てそりゃ、守るはね。

自分の利益も含めて、それを守るは、どんな馬鹿でも普通に。


一つは、戦略や論理以前に、

「その人の生き方なり価値観」

が、結構大事。

そもそもそれから、哲学も思想も始まる。それを駆使する「戦略」も、それに大きく影響される。

「相手の動く動機がわかれば、容易に相手を動かせる」っては、詐術・謀略・戦略の基本事項で、いくら頭が良くて「戦略家」でも、それが見えて「底が浅い」とそりゃ、容易に、相手の「思うつぼ」だしね。


本当の知性ってなんじゃろう?て思うが、その一端が

「自他を含めた人への愛」

とかもあるだろうし。

その愛の感情に溺れない「冷静さ」てもまた大事。

本当に「愛」なり「慈悲」がある人は、愛や慈悲にあまり、溺れない・盲目にならない。

そりゃ、「愛」「慈悲」の感情を満足させるのでなく、それを「実現・伝える」ことが、より大事だからね。



あまりまとまりがつかないけど、今はこんな感じかな。


お読みくださりありがとうございます。






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