陰謀論は、社会の宏観異常現象


5月15日の謎…


子供の「予言」めいたことを言うのは、一種の「宏観異常現象」

と私は見ている。


動物や、植物、自然が、地震の異常を感じて、異様な動きをする。

なら人間もなんかあるでしょう、普通に考えて。


また易とか歴史を見てわかるが、「桐一葉落ちて、天下の秋を知る」っていうように、不思議とそういうモノを直観出来ることもある。


なら、こういう「不思議話」を「陰謀論」と切り捨てる也無視するのが、果たして正しいのかな。。

大川小学校の悲劇は、「法律」「常識」を神のように崇める思想で、学校が動いていた、当然の結末だった。





「周囲や大人が間違っていると思ったら、自分の感性と判断を信じて命を守る行動をとるように」と言い聞かせるようになり、家庭の教育方針となっていきました。


学校を信じる者は殺される・・・

先生個々人には、立派な人もいるので、そういう人は信じた方が良いですが。


まあね・・


上記文抜粋
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心的発達において、すべての初期の発達段階は、そこから生じた後の段階と並行して存続する。ここでの継承には共存も含まれるが、一連の変容全体が同じ素材に対して適用されている。より初期の心的状態は長いあいだ現れないかもしれないが、それにも拘らず現前しており、いつでも心的力の表現様式となり、あたかもすべての後の発達が無効にされたり取り消されたりするかのように実に唯一の状態になりうる。
seelischen Entwicklung…daß jede frühere Entwicklungsstufe neben der späteren, die aus ihr geworden ist, erhalten bleibt; die Sukzession bedingt eine Koexistenz mit, obwohl es doch dieselben Materialien sind, an denen die ganze Reihenfolge von Veränderungen abgelaufen ist. Der frühere seelische Zustand mag sich jahrelang nicht geäußert haben, er bleibt doch soweit bestehen, daß er eines Tages wiederum die Äußerungsform der seelischen Kräfte werden kann, und zwar die einzige, als ob alle späteren Entwicklungen annulliert, rückgängig gemacht worden wären.

心的発達のこの並外れた可塑性は方向性に関しては制限がないわけではない。それは特殊な退行作用[besondere Fähigkeit zur Rückbildung – Regression –]として説明しうる。というのは、後のより高次な段階が一旦放棄されると再び取り返せない事態がとしばしば起こるから。しかし原初の段階へはいつでも戻りうる。原初の心的状態は、言葉の十全な意味で、不滅である。
Diese außerordentliche Plastizität der seelischen Entwicklungen ist in ihrer Richtung nicht unbeschränkt; man kann sie als eine besondere Fähigkeit zur Rückbildung – Regression – bezeichnen, denn es kommt wohl vor, daß eine spätere und höhere Entwicklungsstufe, die verlassen wurde, nicht wieder erreicht werden kann. Aber die primitiven Zustände können immer wieder hergestellt werden; das primitive Seelische ist im vollsten Sinne unvergänglich.

精神疾患と呼ばれるものは、一般の人には知的生や心的生が破壊されているという印象を必然的に与える。だが実際には、破壊は後に獲得されたものや発達にのみ適用される。精神疾患の本質は、情動的生と機能が以前の状態に回帰することにある。
Die sogenannten Geisteskrankheiten müssen beim Laien den Eindruck hervorrufen, daß das Geistes- und Seelenleben der Zerstörung anheimgefallen sei. In Wirklichkeit betrifft die Zerstörung nur spätere Erwerbungen und Entwicklungen. Das Wesen der Geisteskrankheit besteht in der Rückkehr zu früheren Zuständen des Affektlebens und der Funktion.

したがって、文化に対する我々の感受性の基礎となる欲動の変容も、人生の影響によって永久的または一時的に取り消される可能性がある。戦争の影響は、このような退行を生み出す力のうちのひとつであることは疑いない。
Es kann also auch die Triebumbildung, auf welcher unsere Kultureignung beruht, durch Einwirkungen des Lebens – dauernd oder zeitweilig – rückgängig gemacht werden. Ohne Zweifel gehören die Einflüsse des Krieges zu den Mächten, welche solche Rückbildung erzeugen können
(フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年)

どうだろうな、一般大衆はもとより、あれらインテリたちの「精神疾患」をこれ以上巧みに説明する仕方があるかい?

ま、発達過程の上覆いが取れて下部が露出したんだよ、これ自体、ニーチェが既に似たようなことを言っているけどさ。


性欲動の発達としての同情と人類愛。復讐欲動の発達としての正義[Mitleid und Liebe zur Menschheit als Entwicklung des Geschlechtstriebes. Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes. ](ニーチェ「力への意志」遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )

ニーチェのいう性欲動も復讐欲動もフロイト用語のリビドーだが、臨床的には退行とは幼児期のリビドーの固着(欲動の固着)への退行であり、これが戦争によっても起こるわけだ。

・・・・・・・中略・・・・

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)

強迫的な農耕社会…彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)
国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」2005年『樹をみつめて』所収)


そうそう、「大破局は目に見えない」戦争による退行者は、おみこしの熱狂が過ぎたあとは、《誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている》のさ。これが木村敏のpost festum(あとの祭)効果だよ、戦争は祭のひとつに相違ないからな。ーー《戦争はそれなりに人類の祝祭なのである》(木村敏『時間と自己』1982年)

でもなんだろうな、最近アキラメ感に襲われることがままあるのだがね、人間はもともとこういうもので抵抗しようがないなって気分だけどね。よくない傾向だなァ、これ。



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抜粋終わり



知識人は問うべき正しい質問を探し、似非知識人は正しい答えだと主張するものを与える。

知識人は明らかに、真理に対する無関心な愛に突き動かされている。一方、似非知識人は、自分が正しいかどうかにかかわらず、正しいこと、あるいは正しいと思われることに関心がある。

知識人は、自分が知らないことの方が知っていることよりもはるかに大きいことを進んで認める。似非知識人は、対象について知りうる限りのことを知っていると主張する。

知識人は、敵対する人物に対して、できる限り良い事例を述べる。似非知識人は、優位に立つように見せるために、わら人形を用意し、それを死ぬまで叩く。

知識人は人間の理性の限界を深く常に意識している。似非知識人は理性を神格化し、理性の入り込めない領域にまで押し込もうとする。

知識人は、アイデアは人を選ばず、思いもよらない場所で、思いもよらない人々からもたらされるものであることを認識しながら、あらゆる情報源から光を探し求める。似非知識人は、専門家やスペシャリスト、公認の権威からしかアイデアを受け入れない。

知識人は、自分が真実かもしれないと期待する仮説を提唱し、似非知識人は、自分が真実だと主張する教義を提唱する。

知識人は、対立するものが常に矛盾しているわけではなく、実際に互いに補強し合っている可能性があることを認識する。似非知識人は、白か黒か、正しいか間違っているかで絵を描き、反対の視点が入る余地はない。

知識人は人間の問いに最終的な答えなどないことを知っている。似非知識人は、仮の暫定的な答えのひとつひとつを、最終的な答えのように聞こえるようにする。

知識人は、自分の立場が危うくなるような場合でも、勇気をもって多数派の意見に反対する。似非知識人は、異端を嘲笑しながらも、その分野の"最も信頼できる権威"に従順に従う。

知識人は聴衆を見下すような言い方は決してせず、できるだけ明瞭であろうとする。似非知識人は、聴衆を煙にまき、印象づけるために、聴衆の上に立って話をする。


本当の知識人には「陰謀論」など無い。

宏観異常現象か、意図的に起こされた情報流布よる工作なのか。

それとみて、軽視しない。

と私は考える。


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