天皇は、臆病者の巣窟。最低人間もどきの呼称を「天皇」という言う。

上記文抜粋
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「外道の所業である」発案者でさえ否定した「神風特攻隊」はなぜ実行されたのか?
『神風頼み 根拠なき楽観論に支配された歴史』 #2

「無能な戦争指導者の尻拭い」「外道の所業である」――発案者でさえ非難した自爆攻撃「特攻」は、なぜ日本軍の切り札になってしまったのか?

その歴史背景を、立命館大学授業担当講師の秦野裕介氏の新刊『神風頼み』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

「統率の外道」──特攻と神風

「神風」といえば、アジア・太平洋戦争末期の「神風(しんぷう)特別攻撃隊」に触れないわけにはいかない。正式名称は「神風特別攻撃隊」であるが、一般には「神風(かみかぜ)特攻隊」と呼び習わされている。その発足までの歴史的背景は以下の通りである。

アジア・太平洋戦争はサイパン島を失ったことで「絶対国防圏」が破られ、その結果開戦時の内閣であった東条英機内閣が総辞職した。新たに内閣を組閣した小磯国昭予備役陸軍大将と米内光政海軍大将(元首相、現役復帰の上、海軍大臣兼副総理格)はフィリピンで米軍に打撃を与え、少しでも有利な条件で講和しようという「一撃講和論」に傾く。この一撃講和論の目玉として登場したのが「特別攻撃」つまり決死の体当たり攻撃であった。

この体当たり攻撃でもっとも有名なのが「神風特攻隊」であり、そのせいか「自爆攻撃」の英語訳の一つに「kamikaze attack」というのがある。さらには自爆テロを「カミカゼ」と呼ぶ例すらある。

戦場における正規軍同士の戦いという「神風特別攻撃隊」と、非戦場における一般人を標的にした自爆テロを等しく「カミカゼ」と呼ぶことに違和感を感じるのは一方では当然であるが、自爆攻撃を組織的に行ったというその命令の不条理さという側面で同一視してしまう心性も、まったく理解できないわけではない。

「無能な戦争指導者の尻拭い」「外道の所業」

この神風特攻隊を、「無能な戦争指導者の尻拭いであり、軍事作戦としては外道の所業である」と非難したのは誰あろう、特攻隊の創始者である大西瀧治郎海軍中将その人である。

大西は特攻隊を見送ったのちに、「こんなこと(組織的な体当たり自爆攻撃)をしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道だよ」と第一航空艦隊主席参謀だった猪口力平海軍大佐に述べている。

一般には「自爆的体当たり」全体を「神風」と呼ぶことも多いが、厳密にいえば「神風特別攻撃隊」は大日本帝国海軍の爆装航空機による体当たり攻撃のことを指し、ほかには人間魚雷と呼ばれる、魚雷に操縦装置をつけた「回天」、自爆ロケット「桜花」、敵艦に体当たりするベニヤ製のモーターボート「震洋」、機雷が先に付いた棒を持った潜水兵「伏龍」などが計画され、「伏龍」を除く特別攻撃隊が実戦に投入されている。

発案者である大西自身が「統率の外道」と表現する特別攻撃隊、通称「特攻」はなぜ出てきたのであろうか。

そして、その「外道」の作戦であったはずの特攻がなぜ全軍で大々的に採用され、今日に至るまで人々の「感動コンテンツ」として、また戦争へのノスタルジーを呼び起こすものとして機能し続けているのであろうか。

特攻隊産みの親の大西瀧治郎海軍中将(軍令部次長)は次のような遺書を残して自決した(原文。句読点は適宜補った)。

特攻隊の英霊に申す。善く戦いたり。深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散花せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

次に一般青壮年に告ぐ。我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ。

諸士は国の宝なり。平時に処し猶お克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ。

大西の自決は腹を十文字に切ったあと、延命措置や介錯を拒否したもので、十数時間後に死去した。

その遺書を見てもわかるように、大西は明らかに天皇ではなく特攻隊とその遺族に謝すために過酷な自決方法を選んだのである。大西が特攻隊について非常に重い責任感を背負っていたことがわかる。

「特攻」と「コンコルドの誤謬」

大西はなぜあのような無謀な特攻を行わせたのだろうか。大西は特攻が「統率の外道」であることをしっかりと認識していた。今日、特攻の戦果や効果をうんぬんする無責任な言説がまかり通っているが、大西の言う通り特攻は「統率の外道」なのであり、このような「統率の外道」の作戦で有為な若者を多く死なせたことは今考えても無茶苦茶だが、大西自身も無茶苦茶だと考えていたのである。

そのような「統率の外道」をなぜ実行したか、ということについて大西の参謀長を務めていた小田原俊彦海軍大佐(戦死後一階級特進)が、教え子であった角田和男海軍少尉に特攻の趣意、大西中将の真意なるものを語っている。

一日も早く講和を結ばなければならぬ。(中略)動ける今のうちに講和しなければ大変なことになる。しかし、ガダルカナル以来、押され通しで、まだ一度も敵の反攻を食い止めたことがない。このまま講和したのでは、いかにも情けない。一度でよいから敵をこのレイテから追い落とし、それを機会に講和に入りたい。敵を追い落とせば、七分三分の講和ができるだろう。七、三とは敵に七分、味方に三分である。勝ってこの条件なのだ。残念ながら日本は、ここまで追い詰められているのだ。

(中略)特攻を行なってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない。このことは大西一人の判断で考え出したことではない。東京を出発するに際し、海軍大臣(秦野注・米内光政)と高松宮様(同・昭和天皇の弟宮)に状況を説明し、私の真意について内諾を得たものと考えている。

(中略)今、東京で講和のことなど口に出そうものなら、たちまち憲兵に捕まり、あるいは国賊として暗殺されてしまうだろう。死ぬことは恐れぬが、戦争の後始末は早くつけなければならぬ。

(中略)これは、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。ではなぜ見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。一つは、万世一系仁慈を以って国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば必ず戦争をやめろ、と仰せられるであろうこと、もう一つは、その結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとする時に、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという事実と、これをお聞きになって陛下自らの御心で戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するだろう、ということである。(神立尚紀『戦士の肖像』)

ここで重要なのは大西自身が早期講和論者であったこと、ただ即時講和論ではなく一撃講和論であったこと、天皇が特攻という無茶苦茶な作戦が行われていることを知れば戦争をやめろと言うことに期待していたこと、であろう。

周知のごとく、大西の考えた通りにはまったくいかなかった。一撃講和の可能性を目指した捷一号作戦は大失敗に終わり、日本は早期講和のタイミングを逸した。

「必ず戦争をやめろ」と言うだろうと期待した天皇は特攻ではやめようとは思わず、ドイツ降伏と沖縄陥落でようやく講和に舵を切り、原爆投下とソ連参戦という絶望的な状況に陥って初めて「戦争をやめろ」となったのである。

しかしまさに天皇が「戦争をやめろ」と決断した時、大西は講和に傾く政府に徹底抗戦派として頑強に抵抗した。なぜ大西は徹底抗戦派に「転向」したのだろうか。それとも大西の考えは実は一貫していたのだろうか。これを解く鍵の一つが「コンコルドの誤謬」である。

「コンコルドの誤謬」という言葉はかなり知られているであろう。私は特攻がここまで広がってしまったのにはこの「コンコルドの誤謬」があるのではないか、と考えている。そもそも日本が無謀なアジア・太平洋戦争に突入してしまったのも、この言葉で説明できる。

「コンコルドの誤謬」というのは、「埋没費用効果」とも呼ばれ、特に超音速旅客機のコンコルドにおける失敗例が有名になったことからこの名前がある。

コンコルドはフランスとイギリスの共同研究で開発が始まった超音速旅客機だが、開発途中で商業的に成立しないことが明らかとなった。しかし開発にかけたコストを惜しむあまりにコンコルド開発は継続され、予想通り商業的には失敗した。

このように投資し続けることで損失を出すことが明らかであるにもかかわらず、これまでかけた費用(埋没費用・サンクコスト)を惜しんで投資をやめられない状態を「コンコルドの誤謬」という。

公共事業がなかなか止まらないのもこれに起因する。「やめることは、一番簡単なこと、楽なことだ」と言う政治家が存在するが、まさにこれは「コンコルドの誤謬」に取り憑かれたがゆえの発言であり、このようなリーダーに率いられて泥沼に入り込むのは珍しいことではない。

犠牲者は常に若者だった

一撃講和はフィリピンで米軍に大打撃を与えることが前提であった。そのために特攻が行われた。今日、特攻についてはかなりの効果があったことがしきりに喧伝されている。特攻が百隻を超える艦船に損害を与え、戦場から離脱させる効果があったのは事実である。

その一方で一撃講和の望みを託したレイテ沖海戦は日本軍の完全なる敗戦に終わった。その意味では特攻隊では日本が救えないことも露呈したのである。

特攻に関する評価はなかなか難しいものがあるが、私は生出寿氏の次の評価がもっとも妥当だと考える。

特攻は最後の切り札であった。だが、「神風」と名づけた切り札の特攻によっても、戦局は好転しなかった。その結果、「特攻をやっても勝てない」という考えにゆきつき、それ以上の手もなく、ついに陸海軍も我を折り、降伏に踏み切らざるをえなくなった。(生出寿『特攻長官大西瀧治郎 負けて目ざめる道』)

大西はこのような「外道」な作戦を中央(特に天皇)が聞いたら、さすがに戦争をやめてくれるだろうと考えて特攻を計画した。しかしこの作戦の有効性に気づいた中央はこれを拡大し、なんとか一撃講和に持ち込めないか、ということを考え始めた。

特攻が意外と効果があったことが日本の判断を狂わせたのである。しかし、ここでは常に若者が犠牲となって、上の者は安全圏から命令するだけであった。

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抜粋終わり

そもそも、天皇家が、絶対に責任を取らない。

ので、誰も「辞めようとしない」かったのだ。


>道徳的勇気の欠如だ

道徳的勇気など、天皇には無い。そんなのがあれば、天皇が存在できない。

卑屈と卑怯で、天皇の主成分。


天皇とエリートのメンツで、日本人が無駄死にさせられ、多くのアジアの同胞が天皇軍と米英に殺された。

なら、

天皇家を殺しつくすのが、最良の戦後処理と謝罪と日本の復興の覇権策である。

無責任の天皇は、人類の恥で、日本人の仇敵。



上記文抜粋
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そして、それは明治帝政下にあって、国防の義務を負いながら一切果たすことができないまま、国土を灰燼に帰した昭和帝が、そのまま責任を取らずに帝位を保ち続けたことの延長上に存在する。
仮に憲法を改正して、国民に国防の義務を課そうとした場合、「俺らに義務を課す前にまず天皇に責任を取らせてからにしろ!」とならざるを得ないからだ。

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抜粋終わり

生きた「人間の屑」の標本が、天皇。


上記文抜粋
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公家・武将の北畠家ファミリー物語 後醍醐天皇に対する批判とは!

後醍醐天皇に対する代表的批判は、北畠親房が「神皇正統記」で建武の親政について、天皇の補佐官の任用・臣下に対する賞罰は公平を期し、天皇による独断・独裁は認められないと指摘したこと。

他にも、後醍醐天皇の側近として仕えた、「三房」のもう一人、吉田定房が武力討幕に反対して、「元弘の変」における天皇の挙兵計画を鎌倉幕府に密告したこと、更に「三房」のもう一人・万里小路宣房に至っては、息子が後醍醐天皇へ向けた諌言が受け入れられず、天皇と袂を分けたこと等が挙げられる。
要するに天皇の個性的な考え方・やり方についていけなかったと云える。

その中で、特に後醍醐天皇が目指した「理想の世」として、10世紀の「延喜・天暦へ還れ」という、公家社会の再現は、中国・宋朝時代の専制的な皇帝権力による政治体制をイメージしたものであった点が挙げられる。

そして足利尊氏との戦いの中で、兵力の大差からまともな合戦は無理な状況下でも、再三の死出の道を強要した傲慢な決断、更に天皇自らを頂点とした「親政の公家社会」実現のためには、民衆の動向・武士の趨勢には無頓着であったことも挙げられる。
天皇の側近による宮中・都の秩序の乱れや、地方武士が恩恵にありつけず冷遇されたことなど、親政に対する不満を募らせていたことも、親政崩壊の要因であったと云える。

国の現状を憂いていた為政者でもある、北畠顕家が戦死する1週間前に、陣中から後醍醐天皇に宛てた「諫奏文」では、現状に対する厳しい批判が込められていると共に、親政の今後に対する意見具申を意図していた。
その内容を要約すると、戦いで疲弊した民の租税を減らし倹約すること、爵位の授与や側近の人材登用には慎重であること、公家・僧侶への褒美は働きに応じて与えることなど。
更に臨時の行幸・酒宴は控えることや法令に尊厳を持たせ朝令暮改は慎むこと、そして公家・官女・僧侶などが政治に介入し政務を害しているが、益のないものは退けること等々を指摘していた。

近世においても、後醍醐天皇を不徳の君主であるとする評価が定着し、例えば徳川光圀公による「大日本史」の中で、天皇を不徳とする認識が見られ、江戸時代の新井白石は、歴代天皇の失徳が武家政権成立を許したとする歴史観を述べている。

一方徳川幕府の武家社会から維新によって、明治政府を樹立した明治天皇にとって、後醍醐天皇による建武の中興は、天皇中心の社会へ復帰させることが目的であったことから、建武中興に尽力した南朝側の皇族・武将は明治になって、各地に官幣社として祀られた。

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抜粋終わり

>更に天皇自らを頂点とした「親政の公家社会」実現のためには、民衆の動向・武士の趨勢には無頓着であったことも挙げられる。

こういうことは、そもそも「建武の中興」の元祖の光武帝も、復興のモデルにした北宋の開祖の趙匡胤も、しなかった。


晩年の劉秀はますます自分に厳しく、周囲の人はみな痛々しいものを触れるように見ていたようである。
 史書の記録は、建武二十年(西暦44年)以降、すなわち劉秀の晩年の統治について記述が短い。というのも平和で事件が何もなく過ぎ去っていたからである。民衆は平和を謳歌できるようになり、のんびりと落ち着いて暮らせるようになった。ところが民衆が休み、のびやかになるのにまるで反比例するように皇帝は忙しく働くようになった。
 劉秀は以前にも増して政務に熱心になり、さまざまな努力を続けるが、その姿は多くの人に悲愴であり、悲しげに映っていた。人々はこの劉秀の行動を不思議に思い、また何とか劉秀を元気づけようといろいろなことを考えていたようである。
 それが皇太子の休むように勧めた諫言であり、あるいは民衆たちが伝えた奇跡の瑞兆であった。奇跡はほとんどが劉秀の指示により記録から抹消されたため、残ったものは少ないが、実際に報告された数は相当な数に及んだようである。これらは民衆が平和な時代を喜び、それを皇帝に伝えようとした気持ちの表れのようだ。

それまでも家臣からしばしば封禅の儀式をすることを勧められていたが、自分にその資格はないとずっと断っていた。さらに執拗に封禅を勧められた劉秀は逆に怒り出し、民衆は恨みに満ちている、天を騙せというかと叱咤し、もし私の政治を褒め称えたりするものがいれば、刑罰として髭を剃らせ地方に送って屯田の労役をさせると言い出したのである。
 注意すべきことは、劉秀は民衆から送られる大量の上書を読んでいたことである。どんなに平和な時代でも、不幸な境遇の人間がいるのはどうにもならない。特に問題として王莽の時代に河筋が変わった黄河の修復が経済的理由で延期されたままになっており、流域の民衆は今も避難生活を強いられていた。劉秀は、万人が楽しむまで自分が楽しむことはできないと感じていたようである。


だがこれは劉秀の本心であった。劉秀は前半生の戦場で死闘の中に生き、後半生を朝早くから夜まで周囲の人が心配するほど政務に努めて、国家の復興のために尽くした。その結果、統一時の人口は千五百万人程度だったのが、晩年には二千五百万人にまで到達するという驚異的な回復を見せた。
 ところがこれは劉秀にとって満足できるものではなく、喜ぶに値しなかった。劉秀は前漢の末年に生まれ、青春時代を王莽の新王朝の都長安で過ごした。新王朝は混乱と腐敗の王朝ではあったが、まだ大混乱の直前であり、総人口は六千万人近く、危ういながらも繁栄を誇っていた。
 これに対して劉秀が天下を統一し戦乱を終わらせ、その後に平和な時代が続いても、劉秀の死の直前に記録された人口は二千五百万に過ぎない。まだ半分の三千万にも届いていなかった。どれほど劉秀が努力しても、世界は自分の青春時代の繁栄した時代に遙かに及ばなかったのである。
 その両方の時代を生きた劉秀は、違いをはっきりと感じることができた。劉秀は自らの無力感を感じざるを得なかったのである。
 人々の役に立てなかったという最期の感嘆は、今なお世界は劉秀の理想からはほど遠く満足できるものではなかったことを示している。

またおそらくこの厳しさは、次代の皇帝である息子への遺言でもあったのであろう。俺程度では駄目だ。お前は真の平和を築かねばならぬのだ、と。
 それは全国民に向けた遺言とは別の、次代皇帝、息子の明帝個人に向けた遺言からもわかる。明帝は即位のときの詔で次のように述べている。
「聖なる父皇帝は、天下のことを判断するときは何度も何度も繰り返し考えて、名も無き庶民を最優先にするようにしなさい、という戒めの言葉を残された(聖恩遺戒,顧重天下,以元元為首)。」
 ここには劉秀という男が、その死の最後の瞬間まで人々にできることをし尽くそうとし、自分に成し遂げられなかったことを、息子が受け継いで実現してくれることを願う気持ちが見て取れる。


後醍醐天皇のような「無徳の暴君」を「英雄」とするのが、明治帝政なのだから、

その国家が、日本人を殺しまくるのは、必然なのである。

なんかね・・・・・・・・

>そして公家・官女・僧侶などが政治に介入し政務を害しているが、益のないものは退けること等々を指摘していた。

まあ、宦官の政治介入みたいなもの。あと、この様相は、ちょうど「統一教会&日本会議と神社本庁」~CIAと韓国諜報機関の工作員の走狗になっている自民党政権{天皇政権}とおなじ。

やはり、天皇の根絶やしだけが、日本の存続を保証するよな。

天皇家を殺しつくして 日本人救助

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

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