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天皇と言う売国棄民魔人。


上記文抜粋・・・・・・・

日本人はなぜ「人権」をうまく理解できないのか、その歴史的理由

抵抗権を骨抜きにされた日本の「人権」


日本の「特殊な人権」

日本人に人権意識は根付いているようで、どうも違うと感じることがある。一方では社会の中に平等意識が強く、自由と平等が確保されているように見える。教育機関や社会でも性別やハンディキャップに関係なく均等な機会の確保が求められている。

他方で、民意を無視した政治があり、力によって一方的に現状が変更されても、国民は欧米のような抵抗運動を起こさない。2015年政府は集団的自衛権の行使をめぐる平和安全法制を、憲法審査会に招致した憲法学者が全員「違憲」としたにもかかわらず、国民の反対を押し切って成立させた。

国民は政府が強引なやり方を行使しても、一旦決められたら反対運動を起こさない。人権は守られているようでありながら、欧米とは意識が違っている。どこが違うのか、なぜ違うのかはっきりしない。これが日本の不思議だ。

実は、「人権」は万国共通の理念と思われがちだが、日本には欧米と異なる人権理念がある。明治の評論家山路愛山は、欧米とは異なる日本の人権があることを早くから指摘していた。経済学者の河上肇は日本の人権を天賦人権ではなく「国賦人権」だと言った。二人の言っていることは要するに、人権が国によって「恩寵」として与えられている、ということだ。

彼らが言うような人権の理念は今も生きている。その証拠が、2012年に自民党が発表した改憲草案だ。「現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されているものが散見されることから、こうした規定は改める必要がある」*1。改憲案が進めようとしているのは欧米の人権(天賦人権)から日本の人権へと戻すことだ。

日本人に人権意識が低いのは、欧米と異なる「日本の人権理念」がすでに根付いているからだ。それは国家の政策によって日本人の意識に浸透している。だから、こうした自民党の改憲草案によって自由を失いかけても違和感を感じない。憲法9条には敏感に反応するが、憲法97条の基本的人権の条文*2が全文削除される危機にはほとんど反応しないのだ。

では、いったいなぜ日本ではこうした人権理解が蔓延しているのか。歴史をさかのぼるとその理由が見えてくる。


・・・・・中略・・・・・・

幕末・明治の指導者の目論見

同様に警戒したのが欧米から入ってくる人権思想だ。江戸時代までは鎖国によって欧米思想の影響を防ぐことができたが、近代化を目指す明治政府は開国によってキリスト教と欧米思想に門戸を開かなければならなかった。その影響は民衆に新たな認識を与えた。

特に天皇神権によって国家再建を目指す明治政府にとって、「天皇も人なり」と君主を相対化する平等思想(自由民権運動)は脅威であった。そこで彼らは、欧米思想を骨抜きにするために、日本の伝統・文化・歴史を踏まえた特殊な人権理念を醸成していった。

幕末・明治の指導者は忠誠心を美徳とした。君主との主従関係を否定する存在を人より劣った「禽獣」と呼び、争いの絶えない欧米を野蛮で愚かだとした。彼らにとって人間らしいとは君主に忠誠を尽くす存在で、模範となるのは藩校で学んだ武士であった。したがって、主権在民を国是とする民主主義的な政治形態は認められず、欧米の影響を受けた民衆を「愚民」と評した。指導者たちが急務としたのは、文明開化の中でいかにして欧米思想の感染から民衆を防ぐかであった。

欧米列強国に脅威を感じた幕末の思想家たちは、海外からの攻撃に備えて日本が一つになる必要を訴えた。200を超える諸藩の中で人々は自分の藩主に忠誠を尽くすため、いざ外から攻められたとき日本全体が一つになる構造原理を持っていなかった。

そこで生まれたのが「一君万民」の統一理念だ。水戸藩の會澤正志斎や長州藩の吉田松陰は、一人の君主(天皇)のもとにすべての人が支える構造原理で国家再建を考えた。彼らの影響を受けた人々が明治維新を起こしていく。


明治政府が作った人権理念

明治維新を実現した政府は、一君万民の統一理念で旧体制の解体を急ぎ、身分制の廃止、版籍奉還、廃藩置県と王政復古の大改革を行った。

さらに新政権を安定させるため天皇の軍隊の創設を必要とした。明治維新は薩長の武士によって実現したが、彼らは天皇よりも自分たちの帰属する藩主に忠誠を尽くしていたため、新政府の勢力にならなかったのだ。そのため全国に兵士を募るも、旧藩主に忠誠心のある士族(旧武士)は集まらなかった。そこで1872(明治5)年、身分の区別に関わらず全国に兵を募る国民皆兵制を天皇勅令の形式で行なった(「徴兵の詔と告諭」)。ここに「人権」という言葉が登場するのだ。

太政維新、列藩版図を奉還し、……四民(漸ようや)く自由の権を得せしめんとす。是れ上下を平均し人権を斉一にする道にして、即ち兵農を合一にする基なり。是に於て、士は従前の士に非ず民は従前の民にあらず、均(ひと)しく皇国一般の民にして、国に報ずるの道も固(もと)より其別なかるべし。 (強調筆者)*3

大意は以下のようになる。「政権と諸藩の領土を天皇に返上したことで、四民はようやく自由を得たのである。自由とは、上下の区別がないことであり、これがすべての人に人権を与える道である。このことが兵士と農民が一つになれる基礎なのである。武士も民もこれまでの身分と異なり、万民が等しく皇国の民であり、国に仕える時にこれまでの身分の区別はないのである」。

重要なことは、ここでは身分の区別がないことが人権と呼ばれていることだ。それは天皇のおかげで確立し、徴兵を目的とする文脈で語られた。すなわち、日本においては、天皇の軍隊として戦うことで身分格差撤廃という人権が保障されたのだ。言い換えると、天皇への忠誠に身分の違いが無いという平等思想だ。日本の人権は一君万民の平等論として登場し、勅書の形式で民衆に訴えかけた。

見逃してならないことは、「平等」ではなく「平均」という用語が使われたことだ。言葉そのものが意味する通り、それは身分の平均と平準化を意味した。そこで謳われている自由は個を重んじる自由ではなく、階級からの自由であった。それは天皇において確保された道であり、天皇への忠誠において初めて保障されるので、たとえ自分の命を守るためであっても、天皇の名の下に発せられる命令に背き抵抗する自由は保障されない。もし抵抗する場合には人間と見なされない。

つまり、ここで言う平等や人権は、個人の自由なき平等であり、欧米の抵抗権に支えられた自由の理念と本質的に異なる「天皇型人権」とでも言えるものなのだ。

一君万民の平等論のテロリズム化

日本人に平等意識が高いけれども、人権意識が低いのは、日本の人権が抵抗権を骨抜きにした一君万民の平等思想だからだ。天皇を根拠とするこの平等思想は、弾圧された自由民権運動や部落解放運動の思想的受け皿となり、民衆に広がった。そして昭和維新の時代を迎えるのだ。

一君万民の平等思想は、経済不況により格差社会に不満を抱いた人々にテロリズム的行動を起こさせた。その発端は安田財閥の安田善次郎を暗殺した朝日平吾の事件だ。ウイルス感染の流行(スペイン風邪)と戦後恐慌(第一次世界大戦後)による不況の中で巨額な富を得ていた善次郎の暗殺は社会に衝撃を与えた。自害した朝日の遺書には天皇を根拠とする平等思想から「天誅」を加えたと綴ってある。

その直後、朝日の影響を受けた何者かによって原敬首相が暗殺される。二・二六事件を起こした青年将校も一君万民の平等思想から経済的利権を独占する支配階級に行動を起こした。当時、彼らに理解を示す庶民も多かった。

一君万民の統一理念は、平等思想と結びついたことによって、それを考えた人々が想像もしなかった方向へと向かった。天皇への熱狂的忠誠心を抱いた国民がそれを担うことによって、もはや製作者が操ることのできないほど力を発揮し、暴走したのである。

それは二・二六事件を起こした青年将校に現れており、一億総玉砕で太平洋戦争へ突き進んだ日本人の姿に現れている。君主に抗う抵抗権を認めない万民の平等意識は、忠誠理念と結びついているため、神的存在に支えられた正義の戦いをはじめるとき、国民全体をして自らへの歯止めを失う可能性が大きいことを歴史は物語る。


迫り来る人権の危機

多くの日本人は戦後平和憲法のもとで欧米の民主主義と人権が確立し、戦前の思想は無くなったと考えている。ところが、日本政府は精神的な領域での国体の継承を憲法制定の国会審議で確認していた。そのために憲法担当国務大臣に抜擢された金森徳次郎は、憲法が変わっても一君万民の国体の本質は変わらないと国体不変論を貫いた。「水は流れても川〔国体〕は流れない」という比喩を使い、形式的には欧米型をとりながら、精神的に戦前と戦後を継続させたのだ。これぞ和魂洋才である。

日本にはこの構造原理が潜在的に存在しており、今やその命を吹き返している。戦後75年を迎え、戦争体験者が少なくなってきた2020年、精神的な日本の人権を法制化する動きが加速している。自民党改憲草案の「人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます」*4という言葉にそれが現れている。

重要なことは、日本の人権思想は経済不況に陥ったとき、為政者であっても操作できない爆発的力を国民に発揮させる可能性があることだ。昭和維新期、一向に改善しない貧富の格差や経済的な不景気は、政府への不満を募らせた。その背後では維新の改革が不徹底であるとの認識があり、徹底的な平等の実現を叫ぶ声が爆発した。

最初の狼煙をあげた朝日平吾の背景にスペイン風邪による経済不況の影響があったことを鑑みるとき、現代のコロナ禍による経済不況がもたらす影響は決して小さいとは言えない。政府も国民も欧米型によってかけられた歯止めを外さないことを願うばかりだ。


・・・・・・・抜粋終わり

天皇には、日本国籍がなく、住民票もないので、海外に行くにもパスポートは発行されません(できません)。法律上は、日本人ではないのです。

 ですから、3億数千万円の収入(すべて税金からです)がありますが、所得税も住民税も健康保険料も払いません。住居は、天皇家の住まいである京都御所ではなく江戸城ですが、これにかかる費用はもちろん別途税金です。また、天皇家の人々をお世話する宮内庁という役所の予算は 180億円程度ですが、今年の代替わりの儀式にかかった160億円や葬儀にかかる費用(昭和天皇の場合は100億円程度)は、また別ですべて税金です。あちこちに土地や建物がありますが、それは明治政府の伊藤博文が国有地を天皇家の所有へと名義を書き替えたからで、天皇家とは無関係の財産です。
 このほか、何から何まで特別待遇ですが、自由はなく、人権は奪われています。衣食住の雑事も付き人が行い、天皇家に伝わる200以上の宗教儀式をするのが日課です。このような存在に、無条件に敬語を使い、頭を下げるのは、なぜなのか、答えられる人は誰もいないでしょう。天皇について問うこと、問いを発するという哲学の行為をするのは、タブーとされていて、テレビも新聞も当たり障りのない話しかしません。恐ろしいまでに不思議な国です。天皇陵だと宮内庁が主張する場所は、調査研究が禁止され、主権者のはずの国民は真実を確かめられません。それを平然と通すのですから呆れます。
 このように、日本では、疑いをもつこと、合理的に思考すること、理性(綜合的判断能力)を発揮することが悪いことのようにされてしまいます。



光武帝が


「この天の地の性質として、人であるから貴いのである。故に殺したのが奴隷でもその罪を減らすことはできない。(天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪。)」
という詔書を発行し、法律の改革を進めた。人が貴い存在であることは、天地、すなわちこの宇宙自体が持つ自然の性質、言うなれば重力のように誰にも変えられない天与のものとし、貴さの起源が人間存在にある以上、貴族も良民も奴婢も貴さは同じであり、同じ刑法が適用されるのだ、というのである。現代の人権天賦説に近いものと言えよう。


まあ、なんと「人権意識」が、2000年以上逆行するのが、帝政日本・天皇なのですは・・


いや「人倫・道理」も、天皇は日本人に許さないのですは。


大きなタブーがある国では、勢い、大元から考える、洗い直す、というほんとうに知的な作業を避けるようになります。そういう空気が蔓延してしまうので、理性(綜合的判断能力)が鈍麻し、表層的な知(受験知・単なる事実学)を貯めこむ人間ばかりとなります。まるでクイズの知の勝者が優秀と言わんばかりになります。日本の基準(=東大が優秀とする東大病)でいえば、記憶力の弱いエジソンは、馬鹿でしかなく、学校の勉強が嫌いで成績はせいぜい中くらい、高校は落第し中退したアインシュタインは、落ちこぼれに過ぎません。

てな現状。


さらに、一切「天皇はじめ、指導者は責任を取らん」という無責任の無政治社会・・



天皇を消し去るしか、日本人は、人間に市民に成れない。


このまま、ワクチン・天皇・放射能で死に絶えるだけである。



天皇の無い 青い空を取り戻す



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