心の問題っていうてもね。
「衣食足りて礼節を知る」というよりも、何でもかんでも「心の問題」で片付けてはならなし、「心の問題」を公の場で安易に喋っちゃならんと思います https://t.co/sQrlV8ZyLf
— 丹波 高山寺🍁祐弘 (@Tanba_Kosanji) August 19, 2023
なるほどね。
大事ですよね・・
なんでも「心の持ちよう・精神だ」ってのはおかしい。
『盂蘭盆経』は目連尊者が、『救抜焔口餓鬼陀羅尼経』では阿難尊者が釈尊に助けを求めます
— 丹波 高山寺🍁祐弘 (@Tanba_Kosanji) August 18, 2023
ではなぜこのお二人なのでしょうか
神通第一の目連尊者でも、自らの神通力では餓鬼となった母を救えず、多聞第一のとして、最も釈尊の教えを聞いていた阿難尊者なのに、来世は餓鬼道に堕ちると告げられる
— 丹波 高山寺🍁祐弘 (@Tanba_Kosanji) August 18, 2023
しかし目連尊者は、他の修行者を施すことで母親を救い、阿難尊者は陀羅尼の力の助けにより、餓鬼等を施したことで、餓鬼道に堕ちることから免れた
— 丹波 高山寺🍁祐弘 (@Tanba_Kosanji) August 18, 2023
さて、この意味するところは何なのでしょうかね
さて、「仏教に感心がある」としても、こんなパターンはありませんか
— 丹波 高山寺🍁祐弘 (@Tanba_Kosanji) August 18, 2023
霊能やら不思議な力やらを求めて、あちこちに出かけ「パワーをもらった」と宣う
または「仏教は合理的な哲学である」として、あちこち書籍を買い漁り、独学と耳学問で詳しくなったと宣う
そんな姿を踏まえた上で、目連尊者は他者に施すという「慈悲」を実践され、阿難尊者は「智慧」の言葉である、陀羅尼の力を信じられた
— 丹波 高山寺🍁祐弘 (@Tanba_Kosanji) August 18, 2023
さて、こう考えると神通第一目犍連尊者、多聞第一阿難陀尊者なのかが、導き出されるのではないでしょうかね
慈悲が無いと、仏教ではない。
ちょうど
「仁が無くて、何が礼だ。何が楽だ」
と孔子が言ったが、それだよね。
なんか私らは、肝心なことを忘れてしまいがちであると思えます。
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