「天皇日本」の終焉が、日本人の唯一の救い・・。


 より

上記文抜粋
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今年の初め頃に
イーロンが日本の人口減少問題について、
「私は日本の消滅を望まない」と言っていた。

イーロン・マスク「我々は文化、日本が消滅することを望んでいないし、イタリアという文化が消滅することを望んでいない。様々な国の文化的アイデンティティを維持しなければ、その国はその国ではなくなってしまう。イタリアはイタリアの人々なのだから...。」

日本の総人口は13年連続で減り続け、
去年は過去最大の83万人減。

ワクチン効果で
超過死亡数が2021年以降急激に増えている。

彼らの計画通りに進んでいる。

2033年の平均世帯人数は1.99人!
ただし例外があります。それは沖縄。

【速報】2033年の平均世帯人数は「1.99人」
初めて2人を割り込む 5年に一度の将来推計 厚労省
https://00m.in/WPadH

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■石川県 馳浩知事「被災者にとってはとにかく遅いというのが私の実感です。復旧が進まない理由の1つが、被災地にボランティアが来ないせいです」
https://newssharing.net/hasehiroshi9
*遅いと思うなら自分が先頭に立ってやればいい。
県の最高決定権者はあなたでしょ?
ボランティアを拒否したのは誰ですか?
地震時に留守だったのは誰ですか?
13日後に現地入りしたのは誰ですか?
(知事と共に被災地を訪れた岸田首相の滞在時間は30分)
復興にお金がかかるのに大阪万博にお金を出したのは誰ですか?

■イタリアでゆる〜くさん「イタリアは災害活動NPOに登録すればボランティアは会社の給与が保証されますので仕事を休んでも給与がもらえますし有給も減りません。国が会社にボランティアの給与分を補填するシステム」
https://newssharing.net/italynpo

■石川県輪島市の二次避難先で、食事が「有料」であることが判明 多くの被災者が避難を断念 岸田首相はこの事実を「悪質な虚偽情報」と否定 SNS「まさかのラサール石井が正しいとかこの国終わりだな」
https://newssharing.net/nijihinansaki

■テレビ・新聞では報じられない『ヤクザとボランティア』山口組は48時間以内に能登半島地震の被災地入りし、300人前の豚汁、うどんの炊き出しを行っていた事が判明し、日本政府より遥かに迅速な対応だと話題に 
https://newssharing.net/yamaguchigumi28

@oosakahaoosaka

>水が使えないので一食だけでももらえないかと聞くと、車があるんだったら市内のスーパーへ弁当を買いに行って経済を回してほしい、これが行政の方針です。と避難所の本部長から説明を受けた。

維新の顧問の馳浩石川県知事。これ、お前の方針か?

https://twitter.com/oosakahaoosaka/status/1778177228012134433



村山嘉昭@_murayama

3月下旬に能登半島東部の珠洲市三崎町寺家を訪ねると、地元の漁師らが津波で流出した漁船を自らレンタルした重機で片付けていた。県や県漁連にこれまで何度も撤去作業を要望していたが、一向に物事が進まないことに痺れを切らし、自分たちでやることにしたという。1/3



今回の災害では「公助」よりも「共助」が目立ち、困難な状況に「自助」で対応している現場を多く見かけた。公の支援や救援がなかったわけではないが、住民同士で支え合い、個々で対処しなければいけないほど、公の存在が希薄なのだ。2/3

この日、重機を操っていたのは区長で漁師のKさんだった。冬季の間は地域の除雪作業を市から委託されており、大型特殊免許を持っているという。「県や国は要望を言ってくれというが、何度言っても動かない。だから仕方なくやっている」と。Kさんの声は怒気をはらみ、変わらない現状に憤っていた。3/3

能登半島から漁業者が居なくなったら地域はあっという間に衰退し、かろうじて維持されていたコミュニティの崩壊を招くことになる。政府や農水省は本気で一次産業を守る気があるのだろうか。

https://twitter.com/_murayama/status/1777720961372221645

応援したいと思われた方は、ぜひこちらのクラウドファンディングをご覧ください。
https://twitter.com/_murayama/status/1778685528898257396

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抜粋終わり

「天皇を信じる、猿」に相応しい下種い国家に完成しつつあります。


 より

上記文抜粋
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「我々はテロリストを戸外トイレからも一掃する」:ロシアのテロとの長く血なまぐさい戦い

<記事原文 寺島先生推薦>
‘We’ll wipe them out in the outhouse’: Russia’s long and bloody fight against terrorism
クロッカス・シティ・ホールへの襲撃は、この国の30年以上にわたる暴力的過激主義との闘いの最新の事例にすぎない
筆者:アルテミー・ピガレフ(Artemiy Pigarev)
出典:RT 2024年3月31日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月12日

先週、モスクワのクロッカス・シティ・ホールで行なわれたバンド「ピクニック」のショーの前に、テロリストがコンサート来場者に向けて発砲した。この攻撃の結果、火災が発生し、その火災は1万3000平方メートルの範囲に広がり、翌日の夕方まで鎮火することはなかった。143人が死亡、182人が負傷した。ロシア連邦保安庁(FSB)は容疑者11人の逮捕を報告し、その大半はすでに法廷に持ち込まれている。

これは過去20年間でロシアにおける最も死者数の多いテロ行為となった。ここ数十年、この国は、国際的にはあまり知られていない小規模な(しかし悲劇の規模も小規模である、という訳ではない)テロ行為と、多くの死者を出した大規模な悲劇の両方に苦しんできた。それらはモスクワと国内の他の地域の両方で行われた。

テロはロシアをどのように襲ったのか

ロシア現代史におけるテロ攻撃のほとんどは、イスラム過激派運動に関連した過激派によって組織されたものである。

1991年のソ連崩壊後、チェチェン過激派はいくつかの大規模な暴行を行なった。翌年、南部の町ミネラーリヌィエ・ヴォーディでバスの乗客が人質に取られた。1993年から1994年にかけて、別の攻撃が続いた。キスロヴォツク発バクー行きの列車がチェチェンのグデルメス駅近くで爆破された(11人が死亡、18人が負傷)。他にも列車爆破事件やバス乗客が人質に取られる事件が起きた。1994年5月26日、ブラジカフカスからスタヴロポリへ向かうバスの乗客33名(学童やその保護者、教師)が捕らえられ、7月28日にはミネラーリヌィエ・ヴォーディで乗客41名を乗せたバスがハイジャックされた。同じ年に、テロリストはモスクワ(2名が死亡)、ノヴゴロド(1名が負傷)、エカテリンブルク(2名が負傷)および他の場所で住宅の建物の近くで爆発物を爆発させた。1994年9月7日、モスクワで爆発が発生し、7人が死亡、44人が負傷した。

第一次チェチェン戦争は1994年12月に始まった。紛争期間中、攻撃は頻繁に行なわれるようになり、テロリストは交渉を有利に進める道具としてテロ攻撃を頻繁に使用した。目的を達成するために、彼らは人質を取るのが常だった。

1996年1月9日から15日にかけて、サルマン・ラドゥエフ率いる武装集団は、ダゲスタンのキスリャル市の病院と産科病棟で約2000人を捕虜にした。交渉の結果、人質の大部分は解放された。しかし、テロリストらは一部を連れてチェチェン方面に逃走した。彼らはペルボマイスコエ村近くでロシア軍に阻止されたが、夜、脱出に成功した。攻撃の過程で37人が死亡、50人以上が負傷した。ラドゥエフと他のテロリストはなんとか逃走した。キズリャルでのテロ行為により、ダゲスタン軍人や警察官、民間人を含む合計78人が死亡した。数年後、ラドゥエフは逮捕され、終身刑を言い渡され、最終的に獄死した。

ブジョンノフスクの悲劇と第一次チェチェン戦争の終結

1500人以上の人質が取られた1990年代最大のテロ攻撃は、チェチェンとの国境近くのブディオノフスク市で起きた。

1995年6月14日、この種の大規模作戦をいくつか組織したテロリストのシャミル・バサエフ率いる195人の武装過激派組織がブディオノフスク市を攻撃した。彼らは軍用トラック3台とパトカー1台を使ってチェチェンとスタヴロポリ地域の国境を越えた。検問所では警察官に変装し、軍人の遺体を輸送していると称して、検査を受けずに通過させるよう要求した。最終的に彼らが地元の警察署に連行されたとき、過激派は施設を攻撃した。彼らはまた、いくつかの行政建造物や住宅を占拠し、地元の病院で1586人を人質に取った。彼らはこの人たちを6日間拘束し、政府に対しチェチェンから連邦軍を撤退させ、不法テロ集団の武装解除を停止するよう要求した。

6月17日、テロリストとの交渉が始まった。この交渉はロシア当局を代表してヴィクトール・チェルノムイルディン首相によって実施された。交渉の結果、テロリストらは人質数人とともにブディオノフスクを離れることが許可された。チェチェンに到着すると、過激派は人々を解放して逃走した。

この悲劇の原因となったテロリストの指導者バサエフは、2006年の特別作戦中に殺害された。それ以前にも、彼はロシア領土に対してさらに数回の血なまぐさい攻撃を実行することに成功していた。チェチェンでの対テロ作戦中の2005年までに、ブディオノフスク攻撃に関与した過激派30人が殺害され、2019年までに他の約30人が長期懲役刑を宣告された。しかし、武装勢力の一部は依然として逃走中である。

ブディオノフスクでの攻撃では129人(警察官18人、軍人17人を含む)が死亡、415人が負傷した。襲撃作戦中に少なくとも30人が死亡、70人が負傷した。その後の交渉の過程で、当局は敵対行為の無期限の一時停止を宣言した。

ただし、それでもその後の攻撃を防ぐことはできなかった。1996年7月11日、モスクワは地下鉄爆発事件で震撼させられ、4人が死亡、12人が負傷した。同年末、サンクトペテルブルクでも再び地下鉄爆破事件が発生した。

これらの大きな悲劇に加えて、小規模なテロ攻撃が続き、さまざまな都市が標的にされた。7月11日から12日にかけてモスクワでトロリーバス2台が爆破され、30人以上が負傷した。爆発はヴォロネジ州やヴォルゴグラード州、および国内の他の地域の旅客列車でも発生した。

一連のテロ攻撃と前線での失敗(1996年8月、分離主義者らがグロズヌイやグデルメス、アルグンの都市を占領)により、ロシアの戦闘行為停止の決定が加速した。1996年8月31日、ハサヴユルト協定が調印され、第一次チェチェン戦争の終結が正式に示された。

「平和な」時代

和平協定調印から数カ月後、再びテロリストが襲撃した。今度は旅客列車が狙われ、1996年11月10日にはモスクワのコトリャコフスキー墓地で襲撃事件が起き、10人が死亡、約30人が負傷した。

1996年11月16日、テロリストはマハチカラ郊外のカスピースクにある9階建てのアパートを爆破した。この建物にはロシア軍第136自動車化ライフル旅団の将校の家族が住んでいた。犠牲者は子ども23人を含む64人、負傷者や重傷者は約150人となった。

テロ攻撃は1997年から1998年にかけて続いた。爆発は鉄道駅(アルマヴィルで1997年4月23日、ピャチゴルスクで1997年4月28日)と機関車(7月27日のモスクワ-サンクトペテルブルク間列車の爆発で5人が死亡、13人が負傷)で発生した。 1998年1月1日にはモスクワの地下鉄で再び爆発が発生し、9月4日にはマハチカラの路上で爆発が発生し18人が死亡、91人が負傷した。

1999 年はロシアにとって特に厳しい年だった。モスクワやサンクトペテルブルク、その他の都市の路上で爆発が起きた。1999年3月19日、ウラジカフカス市の中央市場が爆破され、52人が死亡、168人が負傷した。犯人のマゴメド・トゥシャエフは、サウジアラビアのテロリスト、イブン・アル=ハタブの命令に従って行動した。トゥシャエフはジャガイモの入った袋に爆弾を隠し、市場の最も混雑する場所にある金属製のカウンターの下に置いた。

1999年8月7日、イスラム過激派がロシアのダゲスタン共和国に侵攻し、第二次チェチェン戦争の勃発につながった。

住宅家屋での爆発

1999年9月4日、テロリストらは硝酸アンモニウムとアルミニウム粉末の混合物2700kgを積んだトラックを爆破した。事件はダゲスタン州ブイナクスクのレヴァネフスキー通りにある5階建てアパートの近くで起きた。この攻撃で子ども23人を含む64人が死亡、約150人が負傷した。

その後、テロリストらはモスクワで恐ろしい攻撃を開始した。1999年9月9日の真夜中、グリヤノフ通りにある9階建てのアパートで恐ろしい爆発が発生した。 2つの入り口は廃墟のまま残され、衝撃波は隣接する建物に被害を与えた。爆発の威力はTNT(トリニトロトルエン)火薬約350kgに相当した。この攻撃により106人が死亡、200人が負傷し、総計690人が爆発の影響を受けた。この攻撃は国民の強い反応を引き起こし、人々はロシアの首都のど真ん中で集合住宅が爆破されたという事実に衝撃を受けた。

そのほんの数日後の1999年9月13日、モスクワのカシルスコエ高速道路沿いにある8階建てのアパートの地下室で別の爆発が起きた。爆発物はTNT火薬300kgに相当した。この攻撃の結果、民間人124名が死亡、9名が負傷した。

この後、別の悲劇が続いた。1999年9月16日の早朝、ロストフ地方のヴォルゴドンスクで自動車爆弾が爆発した。2つの建物が深刻な被害を受け、半壊した。爆発により近くの区画にあった窓やドアが破壊され、近隣のいくつかの建物に亀裂が生じた。この攻撃により19人が死亡、90人が負傷した。

同月、当時のウラジーミル・プーチン新首相は自身の対テロ戦略について次のように述べたがこの発言は後に有名な発言となった。

「私たちはあらゆる場所でテロリストを追跡します。空港内なら空港内で、です。ですので、トイレでテロリストを見つけたら、汚い話で申し訳ありませんが、屋外トイレでテロリストを一掃します。それだけの話です。以上です。」



9月4日から16日までの一連のテロ攻撃は、アル・ハタブと説教者のイスライル・アフメドナビエフ(アブ・ウマル・サシトリンスキーとして知られる)によって組織され、資金提供された。彼らは多くの大規模な暴動の責任者だった。アル・ハタブは2002年に殺害されたが、サシトリンスキーはロシア国外に居住しており、2023年に国際刑事警察機構は彼を国際指名手配リストから削除した。

住宅建物に対するこれらの恐ろしいテロ攻撃は、自爆テロや過激派の関与はなかったものの、数百人の民間人の命を奪ったもので、ロシア社会に強い衝撃を与えた。

ノルド・オスト

新千年紀初頭の最大の悲劇は、モスクワでの「ノルド・オスト」テロ攻撃と人質奪取だった。10月23日の夜、モスクワのドゥブロフカ劇場で同名のミュージカルが上演されていた。午後9時5分頃、モフサル・バラエフ率いる40人の武装テロリストを乗せた3台のマイクロバスが現場に到着した。彼らは悪名高いテロ指導者シャミル・バサエフの命を受けていた。彼らは劇場に侵入して出口を封鎖し、子ども100人を含む916人(出演者や劇場職員、観客)を人質に取った。

10月23日から25日まで、人質はとんでもなく劣悪な状況で建物に閉じ込められた。しかし、交渉担当者の努力のおかげで、約60人の捕虜が釈放された。最終的には10月26日、FSB特殊部隊は人質を解放するための緊急作戦を実施した。作戦は極めて困難で、その過程でテロリストは全員殺害された。

ドゥブロフカ劇場襲撃の結果、人質130人が死亡した。うち5人は特殊部隊による建物襲撃前にテロリストに射殺され、残りは作戦中か負傷により死亡した。

ノルド・オスト事件やクロッカス・シティ・ホールの悲劇の場合と同様に、2003年7月5日にもテロリストが別の音楽イベントを標的にした。モスクワの人気ロックフェスティバル中に2件の爆発が発生したのだ。自爆テロ女性犯のズリハン・エリハジエワとマリアム・シャリポワの2人を含む16人が死亡し、57人が負傷した。

更なる流血事件

2002年、過激派はさらにいくつかの恐ろしい攻撃を組織した。5月9日、カスピースクで第二次世界大戦戦勝記念日の祝典中に爆発が発生した。爆弾により43人が死亡、約120人が負傷した。テロリストのラパニ・ハリロフが爆発の責任者とされた。彼は2007年にダゲスタンで殺害された。

2002年12月27日、チェチェンのグロズヌイにある政府庁舎の庭で2台の車が自爆テロにより爆破された。この攻撃で71人が死亡、640人が負傷した。

2003年5月12日、チェチェンのズナメンスコエ村で、女性の自爆テロ犯が地方行政と連邦保安局の建物近くで爆発物を積んだトラックを爆破した。60人が死亡、197人が負傷した。犠牲者には警察官やFSB職員、民間人(子ども8人を含む)が含まれていた。一部の住宅建物も被害を受けた。 2003年6月、これらの攻撃の主催者であるチェチェンのテロ現場司令官ホジ・アフメド・ドゥシャエフが殺害された。

2003年9月3日、キスロヴォツクからミネラーリヌィエ・ヴォーディに向かう列車の車両の下で 2つの爆発装置が爆発し7人が死亡、92人が負傷した。この悲劇は2003年12月5日にも同じ行程を走行していた列車で繰り返された。自爆テロ犯はTNT火薬7kgに相当する爆発物を爆発させた。爆発の結果、47人が死亡、186人が負傷した。チェチェンのテロリストが犯行声明を出した。

テロリストは通勤者も標的にした。2004年2月6日午前8時30分、モスクワの地下鉄アフトザヴォツカヤ駅とパヴェレツカヤ駅の間で爆弾が爆発した。犯人のアンツォル・イザエフはバックパックに仕込んだ爆弾を爆発させた。爆発は非常に強力だったので、死者の多くはDNA検査によってのみ特定され、隣接する地下鉄の車両は完全に破壊された。41人が死亡(テロリストは含まない)、250人が負傷した。

襲撃の主催者と実行者は、カラチャイのムジャヒディーンのワッハーブ派組織「ジャマート」の構成員だった。

航空テロも問題になった。2004年8月24 日、トゥーラ地方とロストフ地方上空で2機の旅客機がほぼ同時に爆発した。それぞれ、ヴォルガ・アヴィアエクスプレスとシベリア航空の便が、モスクワのドモジェドヴォ空港からヴォルゴグラードとソチへ向かう途中だった。この二重攻撃により89人が犠牲となった。どちらの爆弾も、飛行機に乗っていた女性の自爆テロ犯によって爆発させられた。テロリストの一人の妹は、ほんの数日後に起こったベスランの学校包囲事件に関与していた。チェチェンの過激派シャミル・バサエフは爆発と学校襲撃の両方に対する犯行声明を出した。

2004年8月は特に死者数が多かった月だった。飛行機の悲劇から数日後、モスクワで新たなテロ攻撃が発生した。2004年8月31日、地下鉄リシュカヤ駅の入り口で自爆テロが発生し、10人が死亡、50人以上が負傷した。そしてその翌日、ベスランでの悲劇が起きた。

ベスラン

2004年9月1日、新学期初日の祝賀行事中に、ルスラン・フチバロフ (「大佐」として知られる) が率いるテロリスト組織がベスラン第一中等学校を占拠し、生徒やその親族、学生や教員を含む1100人以上を人質に取った。校舎に地雷が仕掛けられた。武装勢力はほぼ3日間、人質を体育館に監禁し、食事や水、トイレの使用を拒否した。人質の中には生まれたばかりの子供を連れた母親もいた。

ルスラン・アウシェフ(イングーシ共和国の元大統領であり、テロリストが建物への立ち入りを許可した唯一の人間)の交渉のおかげで、9月2日に26人の女性と子どもが解放された。翌日、テロリストに撃たれた人質の遺体の引き渡しが合意された。

9月3日正午頃、非常事態省が遺体を回収するため学校に到着した。まさにその時、建物内で数回の爆発が起きた。特殊部隊が緊急作戦を開始した。人質の何人かは窓と爆発の結果できた壁の隙間から逃げ出すことができた。残りはテロリストによって学校の別の場所に連れて行かれた。戦闘は夜遅くまで続いた。

ベスランでの攻撃では、子ども186人、教師と学校職員17人、FSB職員10人、救助隊員2人を含む334人の命が失われた。

ヌルパシャ・クラエフを除く過激派は全員殺害された。クラエフには死刑判決が下されたが、執行猶予により判決は終身刑に変更された。チェチェンのバサエフが犯行声明を出した。

第二次チェチェン戦争の終結

これらの重大な悲劇に加えて、多くのあまり知られていないテロ攻撃が2000年から2006年にかけて発生した。地下鉄での爆発(2001年モスクワ)から、多数の死傷者を出した攻撃(2001年ミネラーリヌィエ・ヴォーディ:死者21人、負傷者約100人、2002年ウラジカフカス:死者9人、負傷者46人)などさまざまな事件が発生した。また、バスの乗客が人質に取られる事件(ネヴィノムイスク、2001年)、バス内での爆発(グロズヌイ、2003年)、電車内での爆発(キスロヴォツク~ミネラーリヌィエ・ヴォーディ間の列車での爆弾で7人が死亡、約80人が負傷)といった事件もあった。 2004年、エッセントゥキ近郊のスタヴロポリ地方での列車爆発:44人が死亡、156人が負傷)、混雑した場所での自爆テロ(クラスノダールでは2003年8月25日のバス停での爆発、チェチェンでは祝賀会での爆弾テロ) 2003 年 5 月 14 日: 30 人が死亡、150 人以上が負傷)。

政治家(2004年5月9日、テロリストはチェチェンの指導者アフマド・カディロフとチェチェン国家評議会議長のフセイン・イサエフを殺害)や警察官、軍への攻撃のほか、小規模な爆発で国民の命が失われる事件も定期的に発生した。

第二次チェチェン戦争は2009年4月16日に終結した。それにもかかわらず、テロ攻撃は続いた!

コーカサス地方のテロリストによる最後の攻撃

2009年11月27日、モスクワからサンクトペテルブルクへ向かう高速鉄道ネフスキー急行の3両が爆発により脱線し、28人が死亡、130人以上が負傷した。翌日、同じ悲劇の現場で2発目の爆弾が爆発した。事件は捜査現場近くで発生し、携帯電話を通じて起動されたものだった。違法武装組織の一員だった7名がテロ行為で有罪判決を受け、2010年3月2 日にイングーシでの戦闘中に殺害された。他に10名が投獄された。

2010年3月29日の朝、モスクワで新たな二重の悲劇が起きた。地下鉄のルビャンカ駅とパーク・カルトゥリー駅でテロ攻撃が開始された。両駅での爆発は女性の自爆テロ犯によって1時間の間に実行された。犠牲者は計44人、負傷者は88人となった。

チェチェンのテロ指導者ドク・ウマロフが犯行声明を出した。 2006年、ウマロフは未承認国家であったイクケリア共和国の大統領であると主張し、2007年にはコーカサス首長国連邦ジハード主義組織を設立し、その最高指導者となった。

2011年1月24日、ウマロフ率いるチェチェンのテロリストによって別の悲劇的なテロ行為が実行された。ロシアで二番目に大きい空港であるモスクワのドモジェドヴォ空港で、自爆テロ犯が群衆の中で自爆した。その結果、37人が死亡、170人以上が負傷した。数人の加害者が逮捕され、投獄された。

この間何年にもわたって、過激派は他の攻撃を実行し、多くの命を奪った。

2010年8月27日にはピャチゴルスクでの爆発により40人以上が負傷し、2010年9月9日にはブラジカフカスでのテロ攻撃により17人が死亡、さらに158人が負傷した。

2013年にウマロフは殺害された。

ウマロフの死により、チェチェン戦争後に発生したコーカサス地方およびイスラム主義過激派組織によって組織されたテロ行為は終焉を迎えた。

イスラム過激派による新たな攻撃

多くのイスラム過激派とその指導者の死亡または逮捕、および国際情勢の変化により、ロシアにおけるテロ活動は影響を受けている。ウマロフと他の多くの司令官の死後、コーカサス首長国のテロ組織は分裂し、解散した。その結果、多くのイスラム主義者がイスラム国(IS、旧ISIS)に忠誠を誓った。

ISと関係のある過激派は過去数十年にわたり、ロシアで多数のテロ攻撃を行なってきた。最悪の出来事の一つは、2013年にヴォルゴグラードで起きた一連の襲撃事件だ。10月21日、女性の自爆テロ犯がバスを爆破し、7人が死亡、37人が負傷した。12月29日には鉄道駅での爆発で18人の命が奪われ、その翌日の12月30日にはトロリーバスでのテロ攻撃が発生し16人が死亡、25人が負傷した。

2015年10月31日、ロシアの航空会社メトロジェット所属のエアバス321型機(A321)が、エジプトの都市エル・アリシュから100キロメートル離れたシナイ半島北部で墜落した。9268便はシャルム・エル・シェイクからサンクトペテルブルクへ向かう途中だった。この事故により、子ども5人を含む乗客乗員224人全員が死亡した。

この悲劇は、エジプトの空港職員によって隠蔽された飛行機内の爆発物によって引き起こされた。ISシナイ支部は災害発生から数日後に犯行声明を出した。

ロシア第二の都市サンクトペテルブルクもテロ攻撃に見舞われている。2017年4月3日、センナヤ・プロシャド駅と工科大学駅の間の地下鉄で爆発が発生した。その結果、テロリストを含む16人が死亡、67人が負傷した。攻撃は自爆テロ犯アクバルジョン・ジャリロフによって実行された。11人が襲撃準備の罪で起訴され、全員が長期懲役刑を言い渡された。

ロシアの近代史の過程において、テロリストは罪のない民間人に対してかなりの数の攻撃を実行してきた。標的の中には、旅客機や電車、学校、住宅、空港、コンサートホール、音楽祭など大勢の人が集まる場所も含まれている。

本記事においては、過去30年間にテロリストによって組織された攻撃の一部についてのみ言及した。いずれの場合も、当局は迅速に対応し、犯人を捜し出す必要があった。そしてロシアはテロ対策においてかなりの経験を積んできたが、残念ながらテロの脅威は過去のものになったわけではない。

筆者、アルテミー・ピガレフ。ロシア帝国とソ連の政治生活を専門とするロシアの歴史家

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抜粋終わり

ロシアを襲う「イスラム過激派」の大多数が、欧米と天皇によりつくられた「人工テロ集団」なのですは・・

いかさまの「西洋近代文明」「天皇」

より

上記文抜粋
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日本国民はいいんだろうよ

これも前回に引き続き「もはやなにも驚かない」の話だな



「日本国民はいいんですかね」、ウクライナ人がやってきているような自殺行為の戦争を引き受けて?


◾️Michael Hudson on the US Economy – Surprisingly Resilient or Potemkin Village?

07.06.2023

ーーバイデン政権に、 脱ドル化のプロセスを止めるための、直接的な軍事介入以外の手段はありますか?
Dimitri Simes Jr. : Does the Biden administration really have any instruments at its disposal other than direct military intervention to try and stop the process of de-dollarization?
マイケル・ハドソン)いいえ、 今のアメリカには軍事介入しかありません。硬直しています。アメリカは長年、 核兵器に多大な投資をしてきたため、 徴兵制を復活させ、 武装した軍隊を他国に侵攻させることはできません。 ベトナム戦争の時のように、学生の抗議が起きるからです。2015年の米国支援のクーデター後にウクライナ人がやってきているような自殺行為の戦争を、 他の国にもやらせることができない限り、 米国が本当に軍事的に戦うことができるのは核兵器だけなのです。しかし、他の国をウクライナのようなことをやらせるのは難しそうだ。 台湾人がそんなことをやりそうにない。 日本人だけがやる可能性がある。

Michael Hudson : No, that’s all that America has now. It’s muscle-bound because for years America has put all of its money into atomic war. So America can’t reintroduce a draft and have an army invading another country because you’d have student protests like you had in the Vietnam War. So all that America really has to fight with militarily is atom bombs. Unless it can get other countries to commit suicide, like the Ukrainians are doing after the American coup d’etat of 2015. But it looks like it’s going to have difficulty having other countries follow Ukraine. And I don’t see the Taiwanese doing this, only the Japanese might be willing to do this.

いいんだろうよ、ムラ人は不感症だからな

強迫的な農耕社会…彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。〔・・・〕

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)

以上、この2年強のあいだ何度も繰り返した「もはやなにも驚かない」でした。

ところで、ロシア国連大使のワシーリー・ネベンジャはこう言ってるようだな、

今日のウクライナは、西側のために、西側の武器を使って最後のウクライナ人まで戦う民間軍事会社にすぎない。
キエフ政権に残されたのは、無力な怒りに駆られ、最悪のテロリストの伝統に従って行動し、ロシアの都市の平和な地域を意図的に砲撃し、本物のテロ攻撃を行うことだけだ。
自国民の利益を裏切り、ゼレンスキーとその側近のための西側の金と手当てのために犠牲となったテロリストとナチスの非人間的で厭世的政権である。

Ukraine today is nothing more than a private military company that is fighting to the last Ukrainian for the West and with Western weapons.
All that remains for the Kiev regime is to act, in a fit of impotent anger, in the worst terrorist traditions, purposefully shelling peaceful neighborhoods of Russian cities and committing real terrorist attacks.
This is how it will go down in history: an inhuman and misanthropic regime of terrorists and Nazis who betrayed the interests of their people and sacrificed them for Western money and handouts for Zelensky and his inner circle.
ーーExcerpt from statement by Vasily Nebenzya, Permanent Representative of the Russian Federation to the UN, at UNSC briefing on Ukraine, New York City, April 11, 2024.
Source: Russian Mission to the UN

というわけで、岸田演説の近未来の帰結は、米国のために戦う属国日本株式会社ってところかね?

おい、「ガスライティング、自己欺瞞、卑屈さの全てを同時に兼ね備えた最高レベルの行為」だって褒められてるぜ

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抜粋終わり

そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという

まあ、「指導者が無責任」てのを、有史以来続けていると、脳が腐るか、行動様式が狂ってくる。

まあ、これを吉祥に「天皇家の根絶やし」と「天皇の信者の絶滅」が、次の敗戦で出来たら、日本人からしたら「盆と正月が同時に来た」ような「日本人国家の新生」になるので、それを、無意識に希望しているのかもしれない。

なんせ「天皇」とその閨閥って奴には、抗議も効かない。もちろん諫言や意見の具申も、聴く耳を持たない。

そんな「無責任の殺人鬼」には、近寄らんことです。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。

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