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「自己責任論」と「帝政日本」で、教学が破壊されていく。

上記文抜粋
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弘願助正説

愚聞のともにきくラジオ「領解を語ろう」3
https://www.youtube.com/live/k102i_jrjOc?feature=shared

岡林さんが言いたいことがようやくによくわかった。

まあ、対機説法とは違った、とにかく安心感を与えたいと思っての悪気の無い自分の主張の押し付け、それがきっと為になる、正しいとの正義感からの自分の主張の押し付け、そういうことに対しての懸念であるのだろう。

疑心あっても往生できるからと、とにかく安心して彌陀本願を頂きましょう的な、、

また、それが弥陀本願を頂く入口にもなればオッケー的な、、

言わば、弘願助正説みたいなものでしょうが、結局のところ、あれもこれもと類推、拡大解釈、援用して助正になるとしていけば、やがては人殺し、戦争も助正ということになるわけであります。

そうなれば、もうなんでもありになってしまうのであります。

つまり、戦時教学と同じ過ちに陥りかねないのであります。

このことは随分前に新しい領解文における拙考でも考察していますが、改めてそういう懸念についてのことであるのかと。

違っていたらすみません、、

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抜粋終わり


より

上記文抜粋
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新しい領解文・弘願助正説・疑心往生説の共通した問題点について

ああ、当時は信前、信後の報恩行の範疇として考えていたわけか、、

結局、弘願助正云々どころか、浄土真宗でもなく、仏教でもないものに転落したのが、新しい領解文の正体であり、ほどなくして石泉学派についても考える意味がなくなったとして言及しなくなった。

今回の疑心往生の問題は、簡単には、「みんな頑張れ」のような主張、言葉の暴力で相手を追い詰めること、傷つけることになりかねないということであるが、新しい領解文のあり方も似たようなものになっていると言えるだろう。更にそれを強制させるなど、論外でもあるわけだ。

「みんな頑張れ」という主張は、頑張れないものを排除した物言いであり、どうしても頑張れないものを追い込むことになる。下手したら自死へも向かいかねない。

「みんな救われる」、「みんな往生できる」というのも現実、救いようのない迷い苦しみにある者、どうしても往生できないと考えている者を度外視して、その迷い苦しみを無視しての物言いであり、更に相手を傷つけ、追い詰めかねないのである。

弘願助正説にも同じように報恩行を盾にしての暴力性、横暴性が控えてあるということである。

新しい領解文の強制もそのような暴力性、横暴性と似たようなものと言えるだろう。更に内容がお粗末くんならそれ以前の問題でもあるのだが、、

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去年の4月か・・もう一度考えてみるか・・

弘願助正論の補足として
2023年04月10日

しかし、この事態においても、速やかに取り下げ、謝罪と責任を取る姿勢が何も見られないとすれば・・考えられることは・・

もともとは善導大師の「五正行」(読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養)を、「称名」が「正定業」、それ以外が「助業」として、法然上人までは「五正行」は、「助業」も含めて、念仏往生へと向けた大切な実践として努められているものでありました。

しかし、親鸞聖人は、「称名」の「正定業」のみで往生できるとし、絶対他力の絶対信心を「称名」ただ一つに委ねるとされたのであります。むしろ、「称名」以外の「助業」は厳しく廃されたわけであります。

曇鸞、道綽、善導、法然と、それまでは「助業」も、信心決定・信心獲得の因縁となるべき善業であり、重要な実践として努められてきたわけです。

要は、自力修善、自力功徳、自力善根は、弘願念仏へと向かわしめる大切な因縁、方便とされていたのであります。(弘願助正・方便助正)

その「助業」の範囲もただ「称名」を除いた四行と限定するのではなく、異類の助業も方便として広く認めることになるのが善導大師となります。

石泉僧叡の「弘願助正論」は、五正行への先祖返りを主張したと言えるわけですが、しかし、親鸞聖人が厳しく廃した助業は当然に浄土真宗において認められるものではありません。

そこで、助業を、弘願他力の行い、他力報恩の行い、つまり、「報恩行」として、五正行や五念門のみならず、その一切の善行を「報恩行」として認めていこうとする主張を展開するのであります。

しかし、弘願他力の行い、他力報恩の行いと自らで思ってはいても、そうならないどうしょうもないのが凡夫なのであり、弘願他力の行い、他力報恩の行いも雑善、雑修雑行としか結局はならないのであります。

もちろん、信心決定・信心獲得後の「報恩行」としてはありうるとは言えるものの、まず、信心決定・信心獲得が簡単なものではないことと、その行いが、信後の報恩行か、信前の報恩行かの見分けも周りには誰もつけない、つけれないもので、例えば、これは「信後の報恩行だ」と自分で言ってしまえば、それがそうなってしまうというような不確実なもので、他に確かめようもなく、証明のしようもないのであります。

信心決定・信心獲得を、菩薩の第八地と同位として聖道門並みに境地の具体的証左が調うならば別となりますが、それができないというところに信前・信後の判断の難しさがあるのであります。

当然に、信後の報恩行と、浄土真宗の教えを聴いてからの念仏者としての生活のあり方としての報恩行とを混同してしまうと、更に大きな間違いに陥ってしまいかねないのであります。

しかし、まさか、今回のくだんのことを、信後の報恩行とか思っていての高慢、傲慢、無恥さで、その居直りであり、更にまさかのこれは善行のはず、きっと大丈夫、なんとかなるとか思っているとすれば、大変に恐ろしいことでありますが、ありえないことでもないのであります。

と同時に、いつ、差別や戦争も、今回の件と同じように「信後の報恩行だ」として、強制、協力するように言い出すかわからないのであります。

この事態において、速やかに取り下げ、謝罪と責任を取る姿勢が何も見られないとすれば、いずれそうなることも危惧しておかないといけないでしょう。対岸の火事では全くないのであります。

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抜粋終わり


まあ、対機説法とは違った、とにかく安心感を与えたいと思っての悪気の無い自分の主張の押し付け、それがきっと為になる、正しいとの正義感からの自分の主張の押し付け、そういうことに対しての懸念であるのだろう。

今回の疑心往生の問題は、簡単には、「みんな頑張れ」のような主張、言葉の暴力で相手を追い詰めること、傷つけることになりかねないということであるが、新しい領解文のあり方も似たようなものになっていると言えるだろう。更にそれを強制させるなど、論外でもあるわけだ。

「みんな頑張れ」という主張は、頑張れないものを排除した物言いであり、どうしても頑張れないものを追い込むことになる。下手したら自死へも向かいかねない。

「みんな頑張れ」は、確かに往々にして「出来ない人への強要」になる。それで現に、多くの日本人が自死しているのだ、今も。

これは、まさに浄土真宗でも仏教でもない、儒学でも無い。まさに「通俗道徳」であり「優生思想」なのである。

通俗道徳~自己責任論が、必要なのは「天皇制」

これで、指導者・天皇の責任を誤魔化せる~これが無いと天皇は存在できない。

でも、通俗道徳・自己責任論は、外法で、長期的には「社会を破綻させる」し、「倫理」を崩壊させる。

「獣の世」から「人間たちの社会」へ回帰!(2)

「みんな救われる」、「みんな往生できる」というのも現実、救いようのない迷い苦しみにある者、どうしても往生できないと考えている者を度外視して、その迷い苦しみを無視しての物言いであり、更に相手を傷つけ、追い詰めかねないのである。

自己責任論の影響だな。もっというと「通俗道徳」そのもので「他力本願を捨てている」=非真宗~阿弥陀さんすら信じてない~ですは・・・

まあ、「天皇を崇拝する」のは、「現実を認めない・受け入れない」ことそのものですからね。


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