正しい知見って大事よね・・
より
上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・・
正しい信仰の基準5
佐伯泉澄『真言宗の正しい信仰の仕方』(真言時事株式会社、1987年)47ページ〜49ページ
(6) なお、その信仰団体の、特に指導者の人たちの中で、セックス(性)がみだらであるというようなことでは、清らかな信仰というわけには、まいりません。
マァ以上のような、批判の基準というものがいるかと思うのでございます。
それからついででございますから申し上げますが、このごろ、血統の先祖、血のつながっている先祖を祀るのが正しい先祖の祀り方だといって、親類中の戒名を集めて、そして法名という自分の宗教のほうの名に新しく書き替えまして、沢山に集めるほどよい、とかいって、祀っておいでるおうちがあります。しかしこれは、私はあまり感心しないと思います。どうしてかといいますと、真言宗の方の先祖の祀り方は、霊統を祀ります。霊統というのは、おじいさん、おばあさん、おとうさん、おかあさん、そして子供夫婦、孫夫婦というふうに、そのおうちを守った人と、独身のうちに亡くなった人と、赤ちゃんのうちに亡くなった人とを、自分のうちの御先祖として、仏壇の中とお墓にお祀りするのでございます。霊統では、お嫁に行ったり、養子にいったりいたしましたら、いったそちらの方の家の御先祖として祀ってもらうのでございます。そこで、先の新興宗教では、既成仏教は、家の観念に囚われた先祖祀りであって、血統こそ本当の自分の先祖ではないか、という説で、血統を集めて祀る宗教があるのでございます。私はそれにつけて思うのですが、もしもそれが正しい自分の先祖であるのなら、お墓までそうでなければならない。ところがお墓のことは、なにもいわれません。ですからお墓にお参りしましたら、今まで通り霊統しかお墓には祀ってありません。そしたら霊統のお墓の方が本当の自分の御先祖なのか、仏壇の中に祀ってある血統の法名の方々が本当の自分の御先祖なのか、という問題が起きて参ります。もしも血統が正しい御先祖とすれば、お墓もそうして祀るべきものといわなければなりません。それがそうなっていないというのは、一貫性のない先祖祀りといわなければなりません。
真言宗の先祖祀りは、仏壇の中の戒名と、お墓とが一致している、矛盾のない先祖祀りでございます。親類中の者が一軒の家の中に住んでいるわけではないのですから、それぞれの家があり、そこにそれぞれの霊統ができるというのが、現在の私たちの生活に、一番ふさわしいと思うのでございます。勿論実家の御先祖様を拝んでおあげになるのは、いくらでも拝んでおあげになればおよろしいので、実家の方を向いて御法楽を捧げられたらおよろしいと思います。そこには御先祖様のより所であるお位牌とかお墓がありますから、霊は時間空間を問いませんから、拝んで差し上げたらおよろしいと思います。しかしその霊のより所となる戒名・法名を書いて、何々家という仏壇の中に入れて祀ることは、何々家の仏壇にふさわしい祀り方とはいえません。従って「自分の家の何々家という戸籍に入っている人以外の、他家の霊は一霊たりとも、自分の家の仏壇の中に入れていっしょにお祀りしないようにする。」というのが、正しい先祖祀りだと思うのでございます。
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり
これは「実際に住んでいる・住んでいた人・て基準に考える」
てことと思う。
あと
仏壇は、「寺院のミニチュア」って面がある。
ので、仏壇に実家の先祖の「霊位」を置くことなく、仏壇の「仏さま~如来・菩薩等々」に実家の先祖の供養を頼むのは、アウトではないと思う。
これがアウトなら「うちの檀家以外は拝むな」ってどこの寺院も言っているはずですしな。
その辺が、いい加減であったり、逆に排他的であったことが、また別の形でカルトの侵入を招くことになったの面もあると思う。
正しい知見が、誤った考えに対する特効薬で有るってことかも知れない。
そういう「正しい知見の伝播の途絶」も、明治以降のカルト跋扈の一因と思われる。
大正時代も一種の「国内での大移民時代」といわれ、そういう知見も無く都会に職を求めて出て、挙句に貧困になりカルトにはまる人が多く出て、それは、戦後も、解決されたわけでは無いから・・
まあ仮説めいた話です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?