「完全な自立」を叫ぶリベラルや日本保守を信じてはいけない理由もわかる。



上記文抜粋
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「自立」を見直すこれと同様の試みは、障がい運動では「自立生活運動」などを通じて自覚的に行われてきました。自分の生活を支えるだけの収入を得ることが困難であったり、日常生活に介助が必要であったりする障がい者は、しばしば、社会なり医療従事者なり家族なりに「依存」した存在とみなされましたが、これは、例えば本人の望まない形での病院や施設への収容を正当化するなど、障がい者自身の意思と自己決定を軽視することに繋がります。自立生活運動は、そのような発想に対し、経済的な扶助を受けるか否か日常生活で介助を必要とするか否かにかかわらず、障がい者自身が自分の生活のあり方を選択し決定することこそを、「自立」としたのです。


・・・・・・中略・・・・

このようにきわめて偏った、しかも一面的なかたちで「自立」と「依存」が振り分けられていく社会において、「自立」していない人とみなされ得る人たち──障がいや病気を持つ人、生活保護を受けている人など──による権利の主張は、強い風当たりを受けます。私はこんなに必死で「自立」しているのに、あの人たちはそういう私に依存していて、その癖さらに権利まで主張するのか、許せない、という形で、より「自立」していないとみなされる人々をたたいていく。そんなたたき合いにつながるような「自立」の強迫には救いがない、と思います。

フェミニズムが女性の自立を求めなくてはならなかった理由は、すでに見た通りです。けれども、特定の自立を支える依存を黙認し、別の自立を支える依存を「迷惑」とみなす振り分け方を前提としたまま「自立」だけを追求するとしたら、それは、社会にすでに存在するさまざまな不平等や格差を温存したまま自己責任を問うことにほかなりません。必要なのは、「他人に迷惑をかけない」ことでも、おそらく必ずしも「自力でがんばる」ことですらもないような「自立」を考えること、あるいは何なら「自立」しなくても生きていける社会を考えること、ではないでしょうか。


・・・・・・中略・・・・

これはとりわけ自分が「自立」していることを疑ったこともないタイプの男性には難しいでしょうし、そうでなくても、「他人に迷惑をかけない」ように努めてきた人には、他人の助けを借りる必要が大きくなることは、とても辛いことかもしれません。けれど、成人家族全員がそれぞれ経済的に自立し、家事も分担してこなす、というあり方だけが、理想なのでしょうか。むしろその逆の方向、つまり、自分ができないことはできないと認め、互いにサポートの必要があれば依頼し、サポートできるところでは提供する、そのようなあり方に向けても、私たちは力を尽くすべきではないでしょうか。

1980年代から続く長野県の「ピンピンコロリ運動」は、ぴんぴん生きて、寝付くことなく、家族に面倒をかけずに、ころりと死ぬことを目指す、とされています。高齢になっても健康で「迷惑をかけずに」生を終えたいという希望を否定するわけではありませんが、ともするとその希望は強迫的な「自立」志向、そしてそれと裏表にある、「自立」の減少や欠落への強い忌避感に、繋がります。「自立」を強迫的に追求する社会とは、老いや病を拒絶し否認し、老いたり病んだりした人々の生きる場所を奪うような社会になりかねないのです。


・・・・・・中略・・・・・・・・・

ただ、そうなったら私たちは互いにケアやサポートをしあうような親密な関係を作らなくなるかというと、必ずしもそうではないかもしれない、と思います。その関係性は、現在私たちが馴染んでいる、血縁をベースとした親族関係の基本ユニットとしての「家族」とは、大きく違うかもしれません。けれども、身近にいて心の安定や精神的サポートを提供し合う人々、生活を支えるお金を稼ぐことや家事労働を担うことに限定されない形で私たちが「依存」し私たちに「依存」する人々を、少なくとも私たちの一部は、必要とし続けるのではないでしょうか。

「○家の娘から△家の嫁になる」という規定ルートから逃れるために、女性たちは「自立」を求めてきました。その重要性は今も失われていません。けれども同時に、「依存」か「自立」かという二者択一が、それ自体、偽の選択であることも、私たちは常に思い出しておく必要があります。「自立」の要請を、どうやって自己責任論に回収させないでおくか。「自立」しなくても一人の人間としての権利と尊厳をもって生きていける社会をどう作るのか。他者に依存し同時に依存される適切な形とはどのようなもので、それを私たちはどうやって身につけられるのか。フェミニズムは、「自立」の先に向けて、あるいは「自立」の再構築に向けて、考えていかなくてはならないのです。


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抜粋終わり


「自立」を連呼することで、障碍者を「押し入れ」にぶち込むことができる、

ちょうど、往古の特に西欧とその文化圏で、女性が「男の所有物」にされたのと同じことを、

今のフェミや似非「自立主義者」が、行っているのだ。


さて・・・・自立どころか、天皇や外資に依存するしか能の無い「天皇教徒」に、この言説の一部でも理解できるのだろうかね・・

天皇の無い 蒼い空を取り戻す




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