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「空気を読む」で、ワクチンを打ち放射能汚染食品を食べて死んでいく・・・そりゃ障害だは。


より

上記文抜粋
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「空気を読めない」発達障害もつらいが、じつは「空気を読んでしまう」定型発達もしんどさを抱えていた…!

愛知医科大学医学部教授で精神科医の兼本浩祐による『普通という異常 健常発達という病』 (講談社現代新書)は、ASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠陥多動性障害)のような発達障害が時に病として扱われるのであれば、そうではないいわゆる定型発達のほうもまた同様なのではないか、という視点に立ち、どちらにもあるそれぞれのしんどさについて考察を進めていく。双方のつらさの背景について、兼本氏に訊いた。

空気が読めない人たちと、空気を読みすぎたがゆえに外に放り出されたときに剥落してしまう人たち

――『普通という異常』は、どういう人に読んでほしいと思って書かれたのでしょうか。

兼本 読者を特に設定したわけではないですが、大きく言えばふたつのイメージがありました。

一つめは、外来にお母さんの付き添いで時々来ているAちゃんという何となくADHD的な印象のある女の子です。彼女は僕の患者さんではないのですが、女の子だと小学校5,6年生で始まる、いじわるを小出しにしてジャブを撃ち合いながら互いに距離を取り合うようなコミュニケーションがありますよね。それに馴染めずに集団から弾かれていた。空気を読む、つまり集団の中のメジアン(中央値)を常に意識しながら、そこから排除されないように気を遣い、「いいね」をもらえるように振る舞うのが定型発達的な行動ですが、そういうことが不得手な人たちを攻撃するのは「それはないんじゃないの」といった、ごく普通のちょっとした義憤めいたものを感じたわけです。ですから、Aちゃん的な存在を応援したいという気持ちから本を書き始めました。

しかし、考えていくうちに、ガチガチの定型発達の人は、それはそれでしんどいこともあるよな、とも思うようになった。もう一方のプロトタイプとして念頭にあったのは、団塊世代の大量退職を背景に作られたドラマ『熟年離婚』の主人公・豊原幸太郎的な存在です。彼は言ってみれば昭和的な価値観に染まりきった定型発達の人です。家族のために一生懸命働いてきたんだけれども、定年退職したら奥さんに三行半を突きつけられる。家事もひとりでできないから子どもに依存するものの、仕事一筋で子育てもしてこなかったから、子どもとも折り合いが悪かったりする。今では性別役割分業を前提とした「誰が食わしてやってるんだ」みたいなフレーズは禁句になっています。

けれども、かつては昭和の大きな物語の中では、「お父さんありがとう」と家族はいわずもがなでそれをみんな認めていた。そういう発言が今の文脈の中で肯定されないのは当然なのですが、昭和のおじさん(今ではおじいさん)はその価値観にぴったりくっついて生きてきたから、ちょっとやっぱりだめだというだけではなくて、社会的な産物というところもあるし、悲しいところもありますよね。

定型発達とは、極論をしてしまうと集団の中央値に合わせて空気を読み、他者から「いいね」と評価されることをよすがに生きていく人たちです。ですから時には世界のほうが激しく変動してしまったことで、置いてけぼりになってしまうこともある。本当は時代によっても集団によっても中央値は異なるんだけれども、あまりにもひとつの会社、ひとつの時代の価値観にぴったりくっついて生きてきて、その時代の最中であれば模範中の模範であっても、世界の側から引き剥がされてしまった定型発達の人もいるだろう、と。

このふたつのタイプの人を想定しながら、どうしてそのつらさが起こるのか、定型発達とそうでない人はどういうことが違うのかを考えていました。

他人の目を気にしない存在に対して生じる攻撃と、他者の目を気にして生きてしまうしんどさと

――「いいね」という他者からの評価に依存するのが定型発達の宿命であるかのように『普通という異常』には書かれていたと思うのですが、ADHDの人は「いいね」依存しづらいのでしょうか。定型発達は長期志向かつ他人からの評価を気にする傾向がある一方で、ADHDは目先のことに反応しやすく、自分優先ですよね。とするとADHDこそゲーム的に「いいね」獲得にハマりそうな気もしますが。

兼本 大前提として、誰もが褒められたい気持ちはあります。それから定型発達と発達障害はAかBかと二分されるものではなく、大抵の場合はある部分が一定程度は定型発達的で、また別の部分ではASDやADHD的な傾向を有しているという程度の問題だと思ってください。

それを断った上で言えば、「いいね」をもらうには、他人から評価されなければいけません。言いかえれば、それは他人の欲望に左右されているということです。

一方で、他人の目線を気にしないADHDの人は「目先のことに関心を向けがち」と言っても、それは自分個人の興味ですよね。他人によく見られるかどうかではないんですね。

――10歳ごろから女子はわざと同じ集団の女子に対して意地悪なコミュニケーションをしながら、互いの距離感を測るような付き合い方をするようになっていくけれども、発達障害の人はそれに乗れずに排除されがちで、場合によっては病んでしまう、とのことでしたが、他人の目線を気にしないのに病むとはどういうことでしょうか。

兼本 空気の読み合いに乗ってこないやつ、乗れないやつと何となく雰囲気をかもしだしていることと、明確な攻撃対象へと転じて行動化されることとは話は別です。突然押されるといった物理的な暴力や、ノートに悪口を書かれたり面と向かってひどいことを言われたりといった言葉の暴力は目線のレベルの問題ではありません。その空間で普通に過ごすことが困難になるような不便を強いられる、社会的なダメージに関しても同様です。ひどい目に遭えば、誰でも傷付きます。

――定型発達は所属している集団の中央値を読んで行動するので時代によって価値観の変遷が激しく、よしとされる振る舞いも大きく変わるという話でしたが、発達障害のほうは時代の価値観の影響を受けづらいのでしょうか。

兼本 時代の影響を受けない人はいません。ASD的な心性やADHD的心性を多めに持つ人であっても、その時代、その社会の中で折り合いが付く仕事や生き方を見つけていかなければなりません。ただしASD的心性やADHD的心性を多めに持つ人は時代の流行の方を向き、評価されようという志向性は相対的に薄い。だからたとえば木造家具を作る職人になったとして、時代が要請する家具にたまたま合えば爆発的にウケるし、そうでなければ売れないでしょう。しかし、本人としてはたとえ売れなくても、満足のいく作品を作れれば幸せになるポテンシャルは比較的高いのかもしれません。

「あざとかわいい」は定型発達ならではの遊び

――テレビ朝日の『あざとくて何が悪いの?』という番組を引き合いに、計算高さとかわいさを両立させる「あざとかわいい」なるものをつかまえるには、世間の中央値との距離感を捉える「忖度脳」が必要だと書かれていたのがおもしろかったです。

兼本 どう振る舞えば他者からどう見られるのか、ものすごい速さで頭を回転させてつかまえないとできないのが「あざとかわいい」です。どこまでは単に「あざとい」と否定的に捉えられるのか、どこまでは許容される演出なのか、定義がないわけです。そこが誰でも簡単に言語化可能なものであったなら、番組が成り立たない。それを探りながら「ここだ! これがあざとかわいいギリギリだ」と照準が合ったときには、快感がある。あざとかわいさを捉える能力は、もちろん才能だと思います。

標準を意識しながら絶妙なズラしを入れるという意味では、ほかにはファッションリーダーもそういうなのかもしれないですね。流行がめまぐるしく変化するなかで「世間のど真ん中はこういうもので、これはダサい/ダサくない」という線引きが見える人たち。「これは○○だから良い」と定義できないような流動的なものを捉え、「平均」を見切るセンスは、ある程度以上定型発達的でないと不可能だと思います。平均とべったりくっついてしまっては決してファッションリーダーにはなれないのでしょうが、平均から離れすぎた服装や振る舞いは、一般人から不評になるわけですから。

こうした集団の中央値を探るゲームは、元気なときには楽しめる人もいるに違いないともちろん思います。でも人間は常に元気なわけではありません。今のように社会の変化の速度が早く、多様な集団が存在する時代には、中央値をきちんと認知することそのものの難易度が格段にあがっていますから、そこから振り落とされるような感覚を味わったり、空気を読もうとするあまり疲れ果ててしまう定型発達の人も増えているかもしれません。それはそれでテンションが落ちた時には当然しんどいわけです。

――最後に、子どもの発達に悩む保護者に向けて一言いただけますか

兼本 上から目線で子育てについて蘊蓄をいうのはとても無理ですが、「偏っていていいんだ」という谷川俊太郎さんが内田也哉子さんに語った言葉がいろいろな意味で助けになるのかなと思います。とても単純な話なのですが、定型発達、非定型発達の混合の比率がどのようであったとしても、親も子も誰もが正確には世間の中央値にいないことは間違いなく、正しい子育てなんかは一つもないんだ、ただ大事にしようと思い、大事にするにはどうすればいいのかを試行錯誤しながらその時その場の状況の中で考え続けること以外にできることはないんだというような意味だったと思います。正しい幸せの形が一つだけあって、そこに子供をもっていくのがただ一つの正解だと遮二無二がんばるのも、時には間違ってはいないこともあるのでしょうけれど、たいていはそんなことはないのかもと、あまりたいへんな時には肩の力を一度抜いてみることも役に立つのかもとも思います。

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抜粋終わり

定型発達とは、極論をしてしまうと集団の中央値に合わせて空気を読み、他者から「いいね」と評価されることをよすがに生きていく人たちです。ですから時には世界のほうが激しく変動してしまったことで、置いてけぼりになってしまうこともある。本当は時代によっても集団によっても中央値は異なるんだけれども、あまりにもひとつの会社、ひとつの時代の価値観にぴったりくっついて生きてきて、その時代の最中であれば模範中の模範であっても、世界の側から引き剥がされてしまった定型発達の人もいるだろう、と。

考えりゃ、当たり前の事なんだけどね・・・

模範は、所詮のその時代の「模範」であって、万古不易ではない。

時代の流れなど、「風の前の塵」のようなもの・・・・所詮は諸行無常。

で、その「空気だけを読んで従って生きてる」から、殺人ワクチンを自ら進んで打ちまくって死んでいく。

これって十分に障害だよね。

なんせ「自分の軸」が無いのだよ・・・・だから世間・時代の流れに金魚の糞のようについていくしかない。

これはまさに「天皇」的処世術。


天皇ような強大な権力・資力を持っていると、それも可能だが、庶民は「風が変わる」と簡単に吹っ飛ばされて死ぬ。今回のワクチンや福一放射能汚染での頓死続出のようにね。

まあ、多くの神職も、神道から「天皇真理教」や「統一教会神道派」に、多くの坊主も「天皇真理教」や「統一教会仏教派」に隠れ改宗しているので、日本人はもう無理です、天皇家絶滅する以外は。

チベットダライラマ体制は、高僧集団・チベット貴族の腐敗堕落で、ダライラマ暗殺を繰り返し挙句に滅亡した。

なら、天皇皇族から腐っている日本国が滅亡するのは、必至なのである。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように

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