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あかん、光武帝が偉すぎる!!


上記文抜粋・・・・・・・・・

科学(サイエンス)という権威を利用した強制的社会変容

アフターコロナの生活などという言葉が何の抵抗もなく語られ、コロナ風邪による「死の恐怖」を煽って精神的、社会的生活の在り方をかくも簡単に変革できるとは画策した人たちも想像しなかったかも知れません。

今ではほぼ武漢のウイルス研究施設で人工的に作られた事が解っている「新型コロナウイルス」の偶像を世界の人たちに植え付ける上でWHOや世界経済フォーラムの意向に沿う科学者達の見解が「科学的真実」として大いに利用されました。
宗教ではあるまいし、「権威」とされる人のご託宣がそのまま「科学的真実」ではないことは、普段理系の思考法に慣れて、サイエンスを理解している人たちには当たり前の事なのです。

ところが、「権威のことば」=「真実として信じて良い」と信じる人達には「サイエンスという権威」の威力は絶大だった。(★注、本来科学的真実は検証と反論が絶対必須条件だが今回は全部何もなし。今回の不思議な新コロ騒動に一番近いのは科学とは正反対の宗教の異端審問である)

私を含む多くの医師・科学者達が新型コロナ感染症騒動の始めから疑問の声を挙げた

〇 新型コロナ感染症はエボラ型の封じ込めが本当に必要か。(★注、コロナ封鎖で世界中の経済が世界大恐慌以来の危機的状況に陥っているなど弊害が大きすぎる)

〇 ロックダウンに感染予防の意義があるか、季節的な感染者数変化を反映しているだけではないのか。(★注、不安定なRNAが2週間で変異しているので、感染対策とは無関係に4カ月周期のゲノム変化で自然増減している疑い?)

〇 新しいワクチンは、副反応だけでなく、遺伝子や免疫機能への長期的影響はないのか。(★注、人類が経験したことが無いmRNAワクチン開発は早すぎるのですべてのエビデンスはこれからの課題。基本的に治験が何も無いので「将来は何も分からない」のである。ほぼ丁半ばくち)

〇 今回のワクチンでパンデミックが確実に収束するエビデンスはあるか(人類の歴史上ワクチンで収束した事は一度もないが)。(★注、同じRNAウイルスのインフルエンザワクチン接種は効果がきわめて限定的。HIVウイルスにいたっては30年経った今でもワクチンが作れない。今回の新コロだけワクチンが成功するなど悪い冗談かほぼ妄想の範囲である)

こうした疑義にビッグテックやメディアの取った対応は「議論の封じ込め」で、これは科学ではなく「原理主義的宗教の教義に対する対応」である。
現在、コロナ禍という文化大革命が行われていると断定できるが、コロナ狂騒曲に踊り続ける馬鹿馬鹿しさに世界中多くの人たちは既に気が付いています。阿波踊りは同じ阿呆ならば踊らなければ損ですが、コロナ踊りは醒めた目で「踊り狂っている人達を横目で観察する」のが良いでしょう。
(抜粋)

謎だらけの「コロナ禍」に一番似ているのは感染症(スペイン風邪)ではなく「文化大革命」

今回の不可解な新コロ(SARS-CoV-2)騒動は最初の段階から「謎」だらけで到底「感染症」の範疇には収まらない。ほぼ全ての大手マスコミや有識者が例に出す100年前の第一次世界大戦末期に起きた世界的なスペイン風邪の大流行(5000万人が死亡)よりも、半世紀前に中国で起きた「文化大革命」(数十万人から数百万人が死亡)とそっくりだとの「コロナ禍という文化大革命」 (rakitarouの気ままな日常)の指摘はまさに慧眼である。

両者の違いは極小さくて、半世紀前の「文化大革命」では毛沢東思想が、今回の新コロ騒動では科学(サイエンス)という善良な一般市民の信じる一番の「権威」を振りかざして人々に無理やり社会変革を強制していたのである。(★注、別々に生まれた一卵性双生児で見かけ上はまったく似ていないが同一のDNA「原理・原則」で動いていた)

半世紀に起きた中国の文化大革命が、名前とは正反対に「文化の破壊」だったことは間違いない(★注、日本国内でも150年前の王政復古で国学者や神官などが主導した「廃仏毀釈」、西南戦争直前に全国の城郭を打ち壊した「廃城令」、文明開化の名目で伝統的な文化遺産が破壊されたが規模や期間が天文学的に違っている)
その原因というか本質は中国共産党首席の毛沢東の権力闘争だったことも間違いない事実。しかも、これで中国共産党はほぼ完全に破壊されている。しかしですね。一番の疑問とは、一番最初の「そもそも文化大革命とは何だったのか」がサッパリ分からないこと。

文化大革命で中国の進歩を20年間遅らし中国人全員を不幸にした「結果」だけは明らかだが、

現在の中国人民元(紙幣)の肖像画は今も毛沢東だし、首都北京の天安門にも巨大な肖像画が掲げられているのですから大失敗だったことが誰の目にも明らかな文化大革命を否定しているようで、否定していないのですよ。半世紀も経ったのですから、もう善悪や正誤を確定する必要があるが中国は曖昧なまま。
文化大革命での一番劇的だった事件は国家主席の劉少奇の死亡ではなくて、毛沢東後継が決まっていた林彪国防相(副主席)の搭乗機がモンゴル国境付近でミサイルで撃墜され死亡したことでしょう。
高齢の毛沢東に謀反を図ったからとの公式声明は嘘くさい。少し待つだけで確実に林彪は次期首席なのですから信憑性は低い。
謀反は林彪の得にならないのですから、政権ナンバー2の明智光秀の謀反のような話。そもそも記事にもあるように誰の得にもならない国家的な未曾有の大災難(しかも明らかな人為的な災難)が文化大革命だったのですから謎がおお過ぎるのです。その意味では正体不明の奇妙奇天烈摩訶不思議な新コロ騒動とピッタリ一致します。(★注、「文化大革命」で死んだ劉少奇国家主席にしろ、徹底的に破壊しまくった紅衛兵にしろ同じで「文化大革命」が何を意味するか「今何が起きているのか」が最初から最後まで誰一人「サッパリ分からなかった」らしい)

ひょっとしたら耄碌が進行する居眠りバイデン第36代アメリカ大統領と同じで「文化大革命」の首謀者である中国共産党首席の毛沢東自身がボケていて「自分が何をしているのか」を理解していなかったのかも知れない。(★注、新コロと半世紀前の文化大革命の類似について50年前なら今でも多くの人々が経験・記憶したはずが、中国で誰一人気が付かないのは不思議。たぶん中国人は自国の大失敗を思い出したくないのであろう。勝海舟は氷川清話で当時の人々が25年前の江戸時代を丸ごと忘れていると嘆いているのですから2倍の50年前なら完璧に忘れて当然だったことになる)

早川由紀夫 @HayakawaYukio

河野大臣、いまNHKニュースに生出演して、ワクチンの弊害情報はすべてデマだと何度も繰り返してた。大臣がデマだと決めつけるのはよくない。多様な意見があるということだ。どの意見を信じるかはひとによる。それこそ宗教の域だ。認めないといけない。

・・・中略・・・

日本に蔓延る新興カルト宗教「科学教」の狂信者

たぶん「科学者は何でも知っている」し「絶対に間違わない」とか「立派な大人は嘘をつかない」し「悪いことは絶対しない」と信じている科学のイロハのイ、初歩の初歩も知らない、思いっきり甘やかされて育った純真な幼稚園児か小学生低学年レベルの超お坊ちゃま(河野太郎)が日本国のワクチン担当大臣をやっているということだろう。小学生でも高学年になれば少しは懐疑心が生まれるし、ましてや中学生以上なら全員が立派な大科学者が初歩的なミスで大失敗している科学の歴史を知っている。
それとも河野太郎は不気味な何かの破壊的カルト宗教(偽科学批判教の菊池誠教祖?)の熱心な狂信者なのだろうか。何れにしろ日本国の不幸であることは間違いない。(★注、もし科学が何でも完全に解っているなら教師は必要だが科学者は一人もいらない。丸々存在が無駄なのである)

10年前と同じ仕組みと同じ大失敗(少しも懲りない不思議)

10年前の3・11フクシマの未曾有の核事故発生で「地位や権威が高い著名な原子力学者」(実は極悪利権集団の原子力ムラの村民)が恥ずかしげもなく真っ赤な嘘を垂れ流す余りにも浅ましい姿を目撃したはずなのですが「喉元と過ぎれば熱さ忘れる」で今回の新コロ(SARS-CoV-2)騒動でも全く同じように感染症ムラの村民である尾身茂とか脇田隆字など「地位や権威が高い著名な感染症学者」の恥ずかしい真っ赤な嘘を垂れ流していたのである。(★注、「一字違いで、大違い」で、人々が「権威がある」学者だから信用出来そうだと思っていたら実は「利権がある」御用学者だったとの阿呆臭すぎる爆笑オチ。権威や地位が大事な宗教や伝統芸能とは違い、そもそも科学的正誤と「権威の有る無し」とは全く無関係だった)

冷戦崩壊と日本のバブル崩壊が同時に起きたのもファウチ(米軍)のアウトソーシング武漢細菌研究所新コロ漏洩も必然

超大国アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国だったのにバブル崩壊後30年間続いているデフレ経済で「ゆっくりと穏やかに死につつある」日本の不思議と、それとは対照的な倍々ゲームで躍進する(11年前の2010年から日本に代わって世界第二位の経済大国になった)中国とは別々の出来事ではなく、一つのコインの裏表の関係にある。
世界に衝撃を与えた冷戦崩壊(ソ連の崩壊)と同じ時期に日本ではバブルが崩壊したので勘違いしている人が多いが、別々の事柄ではなくて、すべては一体構造だったのである。

1972年のニクソン訪中以前に米中両国の軍が1950年開戦の朝鮮戦争で直接対決したので、敵同士だと思っているが、実はかなり複雑怪奇。
1975年のベトナム戦争敗北で面子を潰したアメリカに代わってベトナムに侵攻したのは中国ですよ。1979年のソ連軍のアフガン侵攻を理由に1980年のモスクワ五輪ボイコットしたのも中国で、アメリカ軍傭兵組織ISISイスラム国の主力も中国新疆ウイグル自治区のウイグル人イスラム過激派テロリスト。米中は軍事的に秘密同盟を結んでいると見るべきでしょう
話は逆さまでアメリカとしては1950年に朝鮮戦争が起きなければ上海マフィアの青幇(ちんぱん)と関係が深い腐敗した蔣介石政権を切り捨てる(大陸の毛沢東政権を承認する)心算だったのですから、朝鮮戦争とはまさにカミカゼ。台湾の国民党にとって救い神だった。(★注、そもそも第二次世界大戦で日本は敵国だったが米中は同盟国で、経済的に米中は大事な臓器を共有するシャム双生児と同じなのです)

原田曜平氏「大問題」父ワクチン接種後の副反応、厚労省にいまだ報告されず

6/22(火) 13:18 日刊スポーツ

マーケティングアナリストで信州大学特任教授の原田曜平氏(44)が、自身の父が新型コロナウイルスワクチン接種後に重篤な副反応により入院したことについて、病院側から厚生労働省への報告がされていないとし、事情説明を求めた。

原田氏は22日、ブログを更新。「ある心ある政治家の方が調べてくれた。昨晩現在、まだ父の副反応が厚労省に報告されていないことが判明。病院が報告をあげていないそうです。もうすぐ二ヶ月経っちゃう」と書き出し、「これは大問題だと思います。病院は公益性の高い組織です。ワクチン接種は国民行事であり、そこで出た副反応は公益情報。それをこれだけ遅れても出していない、下手すると未だに出す気がない、という状況は遅延では許されません」と訴えた。 続けて、「いまだにこの議員が病院に問い合わせても、個人情報を盾に情報を出さず、仕方なく厚労省経由で把握する、という極めて無駄なやりとりになってしまっている模様」と状況を説明。「ちなみに、この病院は都内の超有名病院」とし、「至急僕に連絡し、法令違反の事情説明と場合によっては取材を求めます。それがない場合、公益のため病院名を公表します。どうかご検討下さい。心からのお願いです」と呼びかけた。

原田氏は先月13日にツイッターで、80代の父がワクチン接種後、40度近い高熱が出て体の一部が腫れ上がるなどの症状に見舞われ、救急搬送されたことを報告。病名はワクチンの副反応による多形滲出(しんしゅつ)性紅斑と蜂窩(ほうか)織炎と診断され、現在も入院が続いている。

★注、原田氏がTwitterで発信を続けているので、この新コロワクチン接種での重篤な副反応についてインターネットではかなり有名だが今まで活字メディアでは報道されていなかった。その意味でたとえスポーツ紙とはいえ大事件である。

ワクチン「打たない」若者にじわり 副反応への不安、ネットで拡大
6/23(水) 6:50 河北新報

新型コロナウイルスワクチンの64歳以下への接種が東北でも本格化する中、若い世代で接種への忌避感が目立つ。ワクチンの効果や副反応に関するさまざまな情報が飛び交い、接種のメリットを疑問視しているためだ。専門家は科学的根拠のある情報の発信と受け止めを呼び掛ける。
(抜粋)

100%安全で100%確実に効くワクチンは何処にも無いのに

日本で累計で1万数千人の新コロ死者はほぼ全員が高齢者。10代の死者が一人もいない現状ではワクチン接種でのメリットよりデメリットが大きい若者世代に拒否感があるほうが当然なのです。免疫力が高い若者ではワクチンの副反応も比例して高いのである。

しかも河野太郎ワクチン担当大臣のように「副反応はデマだ」「科学的根拠が無い」と頭から否定している(一方的に製薬会社の利益を代表している)現状では余計に怖くて打てないのである。「副反応は全部気のせいだ」と言い切った子宮頸がんワクチンの伝道師村中璃子と同じで、副反応の科学的根拠を被害者個人に求めるなど言語道断。科学的根拠の証明云々の前にワクチン被害に苦しんでいる「疑いがある」全員の救済こそ、政府当局が最優先しないと今後も政府やワクチンの不信感はぬぐえない。


・・・・・・中略・・・・・・

関係した被害者も加害者も一人の例外もなく不幸にした奇妙奇天烈摩訶不思議な文化大革命 (宗純)
2021-06-23 16:39:36
短期的にはワクチンを製造した大手製薬会社が濡れ手に粟の大儲けが期待できるが、長期的に見れば全員を不幸にするでしょう。
しかも、インフルエンザとかエイズ(HIV)と同じでワクチン接種では到底終わらない。中国の文化大革命と同じで今後大騒動は10年は続きます。その意味では新コロは文化大革命にソックリですが、それ以上に、これは直接的に権力闘争であるばかりか、人類の既存の文化を根本的に破壊する愚行。まさに文字通りの「文化大革命」なのです。

世界最大の民主国家を自称するインドのインディラ・ガンジー首相当時、半世紀前の話ですが、

日本のような先進国ではないのに、一人っ子政策を強権で推し進めた中国では民主主義の基準から見れば驚くべき数々の人権侵害が行われていたのは事実なのですが、・・・
インドの建国の父と言われたガンジーの娘の国民会議派のインディラ・ガンジー首相の時代にインドは中国と同じで爆発する人口の抑制策をとったのですが、なんと、街行く男を無差別にトラックに詰め込んで強制断種を行ったので、人々の怒りを買い建国以来続いていたインド会議派の政府が崩壊する。このトンデモナイ話はマスコミは誰も敬遠して記事にしないが、たまたまヨーロッパアルプスに登山して日本帰国時にインドに滞在していた山友達が目撃しています。それで中国は人口抑制に成功したが、対照的にインドなどでは人口爆発が今も続いている。(ひょっとしたら新コロとは50年遅れの強制断種の続きなのかも知れません)

半世紀の時間の流れは恐ろしい。「民主主義」云々というが、ほぼ別世界なのですよ。まさに人権も何もあったもんじゃない。もちろんアメリカだって五十歩百歩、民主主義とは絵に描いた餅なのですから恐ろしい。50年前にアメリカ人はベトナムで現地人を殺しまくっていたし、その20年ほど前には朝鮮人を殺しまくる。その前はフィリピンで殺しまくり、その少し前はアメリカ本国でインデアンを殺しまくっていた。南北戦争で黒人を解放したなど悪質な戦争プロパガンダ。真っ赤な嘘なのです。

rakitarouのきままな日常 映画 グリーンブック感想のコメント欄に書いたが、
南北戦争の開戦は1861年4月でリンカーン大統領の奴隷解放宣言の1年近くも前。これは明らかな歴史の偽造。書き換え。いわゆる歴史修正主義の一種です。
当時南軍に負けていた北軍はリンカーンの奴隷解放宣言の2か月後にはホームステッド法で一人当たり65ヘクタールの公有地(元々インデアンの土地)を無償で与えると布告するが、戦争で勝つためにはなりふり構わない。
北軍勝利で南北戦争が終結したが、それから穀倉地帯の豊かな農地のオクラホマ州など中西部のインデアンの土地が取り上げられ不毛の砂漠に追いやられる。アメリカインデアンの組織的皆殺しが行われていたのが120年ほど前の明治時代。半世紀の東京オリンピック当時ですがアメリカ製のホームドラマとか西部劇が毎日毎日テレビで放送されていて日本でも大いに人気を博すが、インデアンは殺せば殺すほど正義だとか、あるいはガンマンによる決闘が盛んに描かれていたが、そこでは早く相手を殺した方が正義だとか、トンデモナク不可解な、正誤や善悪が狂気そのものの無茶苦茶な論理が恥ずかしげもなく堂々と主張していたのですから???
世の中は短時間で大きく変わっています。そして今回は新コロでもう一度ひっくり返す心算なのかもしれません。



・・・・・・・・抜粋終わり


原田さんを、出来る人は、応援してあげてくださいな。

私は、彼の公式ブログでコメントの非公開が可能ならするつもりでしたが、そうではないので、しませんけど。

まあそもそも「天皇」は万民を守る責務が無いって指摘してあげてくださいな。

そうそう「敗戦の責任」も国家とともども取らんかったので、帝政日本は、ワクチン禍の責任など、取るはずもない・とね。


>もちろんアメリカだって五十歩百歩、民主主義とは絵に描いた餅なのですから恐ろしい。50年前にアメリカ人はベトナムで現地人を殺しまくっていたし、その20年ほど前には朝鮮人を殺しまくる。その前はフィリピンで殺しまくり、その少し前はアメリカ本国でインデアンを殺しまくっていた。南北戦争で黒人を解放したなど悪質な戦争プロパガンダ。真っ赤な嘘なのです。


その通り。


>南北戦争の開戦は1861年4月でリンカーン大統領の奴隷解放宣言の1年近くも前。これは明らかな歴史の偽造。書き換え。いわゆる歴史修正主義の一種です。
>当時南軍に負けていた北軍はリンカーンの奴隷解放宣言の2か月後にはホームステッド法で一人当たり65ヘクタールの公有地(元々インデアンの土地)を無償で与えると布告するが、戦争で勝つためにはなりふり構わない。
北軍勝利で南北戦争が終結したが、それから穀倉地帯の豊かな農地のオクラホマ州など中西部のインデアンの土地が取り上げられ不毛の砂漠に追いやられる。

>アメリカインデアンの組織的皆殺しが行われていたのが120年ほど前の明治時代。半世紀の東京オリンピック当時ですがアメリカ製のホームドラマとか西部劇が毎日毎日テレビで放送されていて日本でも大いに人気を博すが、インデアンは殺せば殺すほど正義だとか、あるいはガンマンによる決闘が盛んに描かれていたが、そこでは早く相手を殺した方が正義だとか、トンデモナク不可解な、正誤や善悪が狂気そのものの無茶苦茶な論理が恥ずかしげもなく堂々と主張していたのですから???


そうだった。

厳密には知らなかったが、やはりそうか。


あかん、光武帝劉秀が偉すぎる!!あかん、あかんは。

西欧の自由と民主主義は、「羊頭狗肉」でもあった。


より

上記文抜粋・・・・・・

建武二年五月癸未(西暦26年6月25日)。嫁に出した娘、売られた子どもで親元に帰りたい者は、すべてその願い通りとし、それを拒否する者は法律によって処罰する。
 建武六年(西暦30年)十一月。王莽の時代の下級役人や民衆で罪に問われて奴婢となった者で、漢の時代の法律によるものでないものは免じて庶人とする。
 建武七年五月甲寅(西暦31年6月30日)。下級役人や民衆で飢饉や戦乱に遭ったもの、青州、徐州で賊によりさらわれて奴婢や妻とされた者、去りたい者も残りたい者、自由にすべてその願い通りとし、それを拒否する者には売人法を適用する。
 建武十二年三月癸酉(西暦36年4月23日)。隴や蜀でさらわれて奴婢とされた者で、自ら訴え出たもの、判決が出ていない者(及獄官未報)とすべて庶人とする。
 建武十三年十二月甲寅(西暦38年1月24日)。益州で建武八年以降にさらわれて奴婢となった者は庶人とする。また身を売って他人の妻となったもので去りたいものはすべてこれを聞き入れよ。敢えて引き留める者は、青州、徐州同様に略人法を適用する。
 建武十四年(西暦38年)十二月。益州、涼州で建武八年以降に申告した奴婢は、裁判なしで庶人とし、売った者は代金を返さなくてよいとした。奴婢の多くは、夫が妻子を売るケースが多いのだが、そのとき夫は代金を返さなくても妻子を取り戻せるということである。
 何度も出しているのは、効果がないからではなく、新しく敵地を平定するたびに解放令を出しているためである。あくまでもそのときの解放令であるから、自国領でしか無意味だからである。
 また文面に出てくる売人法と略人法は、劉秀の時代に創設された法律であるとされる。売人法は人を売ることの罪を決めた法律であり、略人法とは人をさらったときの罪を決めた法律である。
 この時代の民間の奴婢の多くは、貧乏であるために妻や子を売るケースと、戦争で女や子どもを略奪してそのまま妻や奴婢にするケースである。そこで劉秀は、人身売買についての「売人法」を制定し、人さらいについての「略人法」を制定した。二つの奴婢の成立状況を狙い打ちにした法律を制定したのである。
 さらに劉秀は歴史的にも驚くべき宣言を行う。
 
 建武十一年春二月己卯(西暦35年3月6日)
「この天の地の性質として、人であるから貴いのである。故に殺したのが奴隷でもその罪を減らすことはできない。(天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪。)」
 
 という詔書を発行し、法律の改革を進めた。人が貴い存在であることは、天地、すなわちこの宇宙自体が持つ自然の性質、言うなれば重力のように誰にも変えられない天与のものとし、貴さの起源が人間存在にある以上、貴族も良民も奴婢も貴さは同じであり、同じ刑法が適用されるのだ、というのである。現代の人権天賦説に近いものと言えよう。この言葉は中国における人権宣言として、アメリカの独立宣言にある「人はみな平等に造られている(All men are created equal.)」に相当するものとして注目されている。
 劉秀はこの年に、不平等だった法律を具体的に一つ一つ排除を進めている。春二月、
「あえて奴婢に焼き印したものは、法律の通りに処罰し、その焼き印された者を庶人となす」
 冬十月には、奴婢が弓を射て人を傷つけたときに死刑となる法律を削除した。
 「天地之性人為貴」という言葉自体は『孝経』からの引用であり、曽子の質問に孔子が答えた言葉である。こうした昔から知られた理想を示す言葉、悪く言えば建前だけの空言に、実のある改革を付け加えることで、実際に意味のあるものにしてしまうところに劉秀のすごさがある。聖典に根拠を置くことで誰にも反論できなくしてしまうのである。
 これら一連の詔書は多くの人を驚かせ、感嘆させた。代表的な人物が次の次の代の皇帝である章帝の時代に宰相になる若き俊才第五倫である。第五倫は詔書を読むたびに「この方こそ真に聖主である、何が何でもお会いしたいものだ」と嘆息した。この発言に同僚たちは失笑して、「君は上司の将軍すら説得できないくせに、万乗の陛下を動かせるわけがない」とバカにしたが、「いまだ私を知る者に会うことなく、行く道が違うからだ」と答えた。
 第五倫は、劉秀を志と理想を同じくする同志であると考えていたことがわかる。周囲に自らの理想を理解する者もなく孤高に生きていた第五倫は、何と遙か天上の同じ世界を夢見る同志を見つけたのである。
 奴婢の法的立場は大きく改善された。例を挙げよう。皇帝の側近である常侍の樊豊の妻が自分の家の婢を殺す事件が起こった。洛陽の県令祝良は遙か上の権力者である樊豊の妻を捕まえて死刑にしたのである。
 あるいは県令の子どもが奴と弩で遊んでいたところ、奴が誤って子どもを射て殺してしまう事件があったが、事故としてお咎めなしとされた。奴婢と良民の法律上の平等が守られていたのである。そのため奴婢に対する偏見も少なくなっていた。後漢の第六代皇帝安帝の母は婢であったほどである。
 劉秀は奴婢という制度をなくしたわけではない。しかし前漢の頃、奴婢は奴隷として市場で公然と競売にかけて売られていたが、どうやら後漢では人身売買は禁止されたようである。
 人身売買の禁止は既に王莽が一度挑戦し、混乱の中で挫折し、法令を撤回している。このときの王莽の人身売買禁止の詔から当時の状況が推察できる。王莽は、秦王朝は人間を牛馬と同じように平然と市場で売買する無道な政府であったと非難し、奴婢を私属と名称を変えて売買を禁止すると宣言しているのである。
 このことは秦では人身売買は完全に合法であったこと、前漢でも人身売買が行われていたこと、しかし秦を無道と非難し、前漢について述べないことから、前漢では人身売買は禁止されていたが、武帝以降の貧富の差の拡大と共に、法律が有名無実となり、半ば公然と売買されるようになったと考えられるのだ。
 劉秀はここで再度法律を引き締め、法律の厳密な運用を行った。
 その結果、後漢の奴婢は戦争捕虜や犯罪者として官奴婢になったものと、それが民間に下げ渡されたもののみとなったのである。奴婢の多くは功績を立てた家臣への賞与として、あるいは公官庁に働く役人のために支給されるものが多かったようだ。宮崎市定は奴婢は終身懲役刑であるとしているが、まさに正しい理解である。
 後漢王朝では奴婢の売買に関する記録が残っていない。後漢の戸籍には奴婢の値段が書かれるが、これはもちろん購入価格ではなく、資産税のための公定価格が記入されているに過ぎず、人身売買の存在を示すものではない。
 奴婢の人権を宣言した翌年、後漢の著名な学者鄭興が密かに奴婢を買ったことが発覚して処罰されたと記録される。朱暉伝には、南陽太守阮況が郡の役人である朱暉から婢を買おうとして拒絶される話がある。これらも公的に売買が禁止されていたとすれば理解しやすい。
 後漢では人身売買の代わりに庸という、賃金労働が広まっていた。貧しくなると身を売るのではなく、平民のまま他の家の労働をするようになったのである。より穏当な経済体制になっていたことがわかる。
 それでもなお困窮した者は、戸籍を捨てて流民になった。商人、手工業、芸人などで暮らすようになったのである。後漢は、前漢に比べても顕著に流民の記録が多い。ところがそれが赤眉の乱のような反乱に至るものは多くなかった。生産力が大幅に向上していた後漢では、農業をしなくてもある程度食べていくことができたとわかる。後漢の時代、朝廷からは数年の一度のペースで流民に対して戸籍登録と農地の提供を呼びかけているが、いっこうに流民は減る様子がなかった。郷里に帰らず今いる現地で良いとし、土地も用意すると譲歩しても、流民たちは農民に戻ろうとしなかった。彼らは農地を失ったというより積極的に農地を捨てた、農民でない新しい階層の人々とわかる。当時書かれた『潜夫論』にも農業より儲かるから農地を捨てる人が多かったことが書かれている。
 後漢では奴婢の売買は禁止されたし、また売買の必要性もなかったのである。
 
リンカーンの奴隷解放と劉秀の奴婢解放の違い
 劉秀の奴婢解放はしばしばアメリカ大統領リンカーンの奴隷解放と比較される。そして時代の古さから、劉秀の奴婢解放はリンカーンの奴隷解放と違い政治的なものとされる。しかし真相は真逆である。
 リンカーンの奴隷解放は明確な政治的な目的によるものである。リンカーン自身は確かに奴隷制反対の立場であったが、あくまでも国家の統一を優先し、南部が合衆国に戻るなら奴隷解放はしなくてもよいと考え、その意思を何度も南部に伝達していた。
 それが変更されたのは外交の問題である。南北戦争が長引くと、経済も人口も劣勢な南部が善戦していることに対して諸外国から同情が集まり始めていた。イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が介入する気勢を見せていたのである。
 それを封じるための政治戦略が奴隷解放であった。南北戦争を正義の戦争であると定義し、南部を奴隷制を持つ道義的に劣った存在とすることで、イギリス、フランスに南部を援助させないようにしたのである。これが功を奏し、イギリス、フランスともに南部を支持することなく、リンカーンは南北戦争を終結させることに成功したのである。



・・・・・・・抜粋終わり


上記文抜粋・・・・・・・

平等を目指す戦い・土地調査を始める
 だが真の平等はただ法律で規定し、それを強制するだけで達成されるものではない。奴婢の多くは経済的格差が生み出したものなのだ。社会学者ケビン・ベイルズは、人類の歴史で奴隷人口が一番多い時代は古代でも中世でもなく、すべての国で奴隷制が禁止されている現代であることを指摘している。人権の平等は、経済の平等の上にこそ実現する理想なのである。
 真に平等な社会を作るには、経済を平等に把握する必要がある。
 こうして始まったのが度田、建武十五年(西暦39年)の全国の土地人口調査である。劉秀は州や郡に命じて全国の田畑の面積、人口や戸数、年齢の調査をしたのだ。詔して、州郡の開墾された田畑と戸数と年齢を取り調べ、二千石の官吏で上官におもねるもの、民衆をしいたげているもの、あるいは不公平なものを調べた。
 だがここで劉秀の改革は重大局面を迎える。ここまで軍備、税制、法律などを大胆に改革を続けた劉秀であるが、強力な反動が来たのである。
 調べる主体である刺史や太守に不公平な者が多くおり、豪族を優遇し、弱いものから絞り取り、大衆は怨み道に怨嗟の声が広がった。刺史や太守の多くが巧みに文書を偽造し、事実を無視し、田を測るのを名目にして、人々を田の中に集めて、村落の家々まで測ったので、人々は役人を道を遮って泣いて懇願した。
 このとき各郡からそれぞれ使者が来て結果を上奏していた。陳留郡の官吏の牘の上に書き込みがあった。「潁川、弘農は問うべし、河南、南陽は問うべからず」とある。
 劉秀は官吏に意味を問い詰めたが、官吏は答えようとせず、長寿街でこれを拾ったと嘘をついた。劉秀は怒った。
 このとき後の明帝、年は十二歳の東海公の劉陽が、帷幄の後ろから言った。「官吏は郡の勅命により、農地を比較したいのです」
 陳留郡の使者は、自分たちの作為の数字を潁川郡、弘農郡と比較して妥当な数値に収まっているか確認するように指示されていたのである。劉秀は言う。
「それならば何ゆえ河南と南陽は問うてはならぬのか」
「河南は帝城であり、大臣が多くいます。南陽は帝の郷里であり、親戚がいます。邸宅や田畑が制度を越えていても基準を守らせることはできません」
 河南と南陽は問うなとは、この二つは例外地域で法外な数値を出しているに決まっているから、真似して数値を作ると痛い目に遭うから注意しろと指示されていたのだ。劉秀は虎賁将に官吏を詰問させると、官吏はついに真実を述べたが、劉陽の答えのとおりであった。これにより謁者を派遣し刺史や太守の罪を糾明した。
 この結果たくさんの地方官が事件に連座した。河南尹張伋や各郡の二千石級の大官が虚偽報告などで罪を問われ、十数人が下獄し処刑されて死んだ。
 他にも鮑永、李章、宋弘、王元といった重臣までが虚偽報告に連座しているが、最も大物は首相級というべき大司徒の欧陽歙である。
 欧陽歙は汝南で千余万を隠匿した罪で牢獄に収監された。当代最高クラスの学者としても知られる欧陽歙の投獄に、学生千人あまりが宮殿の門まで押しかけて罪の減免を訴えた。ある者は髭を剃ったりした。この時代、髭を剃るのは犯罪者への刑罰としてだけであり、当時としては過激な行為である。平原の礼震という者は自らが代わりに死ぬので欧陽歙を助けて欲しいと上書した。劉秀の旧知でもある汝南の高獲は、鉄の冠をかぶるなど罪人を格好をして減免を求めて門に現れた。
 これはおそらく世界初の学生デモである。劉秀のような評判のよい君主が学生デモの対象となったのは興味深い。このとき劉秀と高獲との会話が残っていることから、劉秀は学生たちと対話したようである。しかし結局、劉秀はこうした抗議に対して断固とした態度をとり続け、欧陽歙は獄中に死ぬことになる。


・・・・・・・抜粋終わり


上記文抜粋・・・・・・・・

劉秀の改革として、既に奴婢解放と人権の平等宣言、それと全国土地調査である度田について述べたが、劉秀の行った改革は非常に多い。
 
行政改革
 まずは行政改革である。
 中国は長い戦乱で大きく人口が減少し、極端に過疎化した地域がたくさんあった。そこで建武六年(西暦30年)に人口の減った地域の行政区分を格下げした。その結果、十の郡国と四百の県が廃止された。全体の三分の一に相当する県が廃止された。
 また役人の数が多すぎることを問題と考えた。そこで建武六年(西暦30年)、人員の徹底削減を行い、役人の数を十分の一まで減らしたのである。『通志』によると、前漢の哀帝の時代、丞相から佐史まで十三万二百八十五人だったが、後漢の官員は七千五百六十七人であるとされる。もちろんただこんなに減らしては業務が成り立たない。代わりに属吏と呼ばれる地元の人間、直接採用による下級官吏の人数を約五倍に増員した。これは現場重視の劉秀らしい考えである。
 劉秀は現場で働く人間こそ重要であると考えていた。そこで給与の改変を行う。建武二十六年(西暦50年)に、千石以上の給与を減らし六百石以下を増やした。高級官僚を減俸し下級吏員の増俸したわけである。
 劉秀の統治では衛颯、任光など循吏と呼ばれる地方官がたくさん活躍している。彼らの多くは発展の遅れた辺境の郡の太守となり、民衆を慈しみ、牛耕、養蚕、石臼の使用を指導し生産力を高め、学校を建てて学問を振興した。民衆から杜母と呼ばれ慈母のごとく慕われた杜詩を始め、劉秀の時代は歴史上最も循吏を多く輩出した時代であった。
 また董宣、樊曄など酷吏と呼ばれる人たちも活躍する。彼らは法律で厳格に悪事を取り締まり、いかなる大豪族であろうとも手加減しないことで知られた。酷吏は主に中原の経済の発展した地域で活躍した。劉秀の時代には、地方官による豪族の取り締まりと見られる記述が十七もあり、歴史上最も豪族に厳しい時代の一つであった。
 劉秀の政治思想は明確である。余っているところから削り不足するところに与える、これが劉秀の基本方針なのである。
 劉秀は民衆統治の現場を非常に重視した。劉秀は地方巡察に出ると、太守や県令などの大官でなく、まず地元の下級官吏と話して現場の確認から始めるのであった。
 民情を知るために歌の収集も始められた。これは前漢の時代から行われていたもので、民間の流行歌などを採取することで民心を知ろうとするものである。
 劉秀は地元と民衆の声に耳を傾けるため、皇帝への上書の方式を簡略化し、また上書に検閲を許さなかった。漢王朝では庶民はもちろん刑徒ですら皇帝に上書することが認められていたが、決まった書式の文書しか受け付けず、しかも地元の地方官に検閲され、皇帝に届くまで何ヶ月もかかり、都合の悪いものはいつの間にかもみ消されることが多かった。劉秀はこの悪習を一掃したのである。劉秀の信頼の厚い寇恂(二十八星宿の五位)ですら、河内太守時代に劉秀への上書を検閲したため、ただちに免職されてしまったほどである。
 皇帝への上書の問題は当時の地方官にとってきわめて深刻に受け止められた。多くの士大夫から、皇帝は民間の誹謗の上書を信じてすぐに地方官を解任してしまうとして、非難の声が挙がっていた。この時代の地方官は地元の豪族と結んで利得を得るものが多く、当時の士大夫たちはそれを当然の権利と考えていたため、癒着を一切許そうとしない劉秀との間に激しい対立が起こっていたのである。これに対して劉秀は一歩も引かず、太守や県令などの地方官をすべて自ら面接して任命し、徹底して癒着を断とうとする。
 こうした皇帝権力と地方豪族の対立は、既に述べた土地調査とその反乱という形で全面衝突となり、劉秀が勝利したことは既に述べた。
 この権力闘争は地方だけではない。劉秀の統治の前半期では、朝廷の大臣である韓歆は自決し、欧陽歙、戴涉なども罪を問われて獄死するなど、宰相が無事に職務を務めるケースが少なかった。この頃の劉秀は官僚が過ちを犯すと、ときには自ら棒で打ったとされる。しかしこうした対立も土地調査の後しばらくして終結し、大臣にも蔡茂、玉況、馮勤と言った清廉潔白を称えられた人物が登場する。劉秀の政治思想がついに浸透したのである。
 劉秀の皇帝権力の強化は徹底しており、中央の主要大臣である三公の権力を大きく削った。本来、大臣である三公、司空、司徒、太尉などが政策を作り皇帝が認可することが多かったのであるが、劉秀は皇帝の秘書である尚書と政策を相談して決めるようになり、三公は実行機関と位置づけられた。三公の影響力を減らしたのである。三公は地位が高く有力な豪族がなることが多いことを考えれば、これも豪族の力を減らすものと言える。
 劉秀は豪族だけでなく、親族の政治参加も嫌っていた。権力の私物化を避けるためである。そのため王族や諸侯を制御する法律として左官律と附益法を作り、特別に対処したのである。
 宦官に対する対策として内廷の宦官房にいた通常の官僚をなくし、内廷は宦官だけにした。秦の趙高のように宦官が政治と密着し、政治に口を挟むことを防いだのである。
 法律の運用も相当に慎重なものになった。
 州が毎年八月に郡国を巡回して囚人を再精査することを制度化したのである。
 また牢獄の使用について、八十歳以上と十歳以下は牢獄に入れてはいけないこととにした。
 これらの結果『漢書』で「刑罰の根本が正しくない」と劉秀を批判した班固ですら、「邑里には豪傑の任侠なし」と述べる状況となり、横暴な豪族もすっかり力を失った。それは数字にも現れた。犯罪数は前漢の時代の五分の一にまで減ったと記録されている。
 
経済政策と税制改革
 次はより民衆の生活に直結する経済政策や税制改革を見よう。
 まず建武十六年(西暦40年)に、馬援の提案により五銖銭を発行したこと。五銖銭は前漢の標準貨幣である。王莽の新の時代、王莽はさまざまな貨幣を発行して経済を混乱させていた。そこで民衆の最も信頼のある貨幣を再発行し、経済流通の回復をはかったのである。
 山林川沢の税金を廃止した。農業以外の狩猟や山菜とり漁業、林業などの税を廃止し、民衆がより自由に利用できるようにしたのである。もちろん自由と言っても、乱獲、乱伐を防ぐため利用期間などの決まりは定められていた。
 塩と鉄の専売を中止し、民間でも自由に作ってよいとした。この塩と鉄の専売は明帝の時代に一時的に復活したがすぐに廃止されている。塩と鉄を専売して政府の収入とするのは、漢の武帝に始まり清の時代まで続く中国の常識であるが、その数少ない例外の時代が後漢である。
 塩、鉄などの国家専売は、国家に大きな収入をもたらすものの、民衆には不便をもたらした。例えば鉄器を生産するとき市場を経ないため、民衆に必要なものでなく、やたら大きいものが作られてそれしか購入できなかったのである。というのも役人の成績は鉄の消費量で決まったため、大きいものを作って成績を高くしようとしたからである。これは旧ソ連の経済失敗と似ている。旧ソ連では車の生産成績を重量で量ったため、意味もなく重い車が大量生産されたのである。
 商業に従事し、役人との交渉経験の豊富な劉秀は、市場を経ない生産の非効率や役人の特性をよく知っており、自由経済を徹底して推進したのである。
 また困窮者への生活保障を始めた。第一回目は建武六年(西暦30年)で、高齢者や頼れる者のない者、身よりのない者や貧しくて自給できないものに穀物の現物支給を行ったのである。一人あたり五石、もしくは六石である。漢代の一石はおよそ三十一キログラム、一人が一年に消費する穀物は百五十キログラムと言われるので、五石や六石とはおよそ一年分の主食ということになる。
 この食糧保障は「法律の通りにせよ(如律)」とあり、劉秀が法律として定めたものであるとわかる。
 政府財政の問題もありしばらくは行われなかったが、第二回目は建武二十九年(西暦53年)で、ここからこの政策は定期的なものとなり、建武三十年(西暦54年)、建武三十一年(西暦55年)に同様の穀物の現物支給を行っている。そしてそのまま次の明帝、章帝に受け継がれ、後漢王朝の統制が失われるまで定期的に行われるようになった。後漢全体では、西暦30年、53年、54年、55年、60年、69年、74年、75年、75年、78年、79年、84年、91年、96年、100年、105年、114年、121年、122年、126年、129年、132年、137年、147年の合計二十四回行われている。
 貧困な民衆の救済の方策としては、疫病の流行時は官の医師が民間に派遣される制度が作られて実行するようになった。
 国家財政の仕組みも変更した。前漢の財政は帝室財政を担当する少府と、国家財政を担当する大司農の二つの財政があった。劉秀は少府の財政機能をすべて大司農へと移したのである。この影響で帝室の財政規模が非常に小さくなった。陰麗華が当初その地位にあった貴人の収入は、前漢ならば二千石に相当するはずであったのに、後漢では数十石に過ぎず、それ以下の後宮の職員は決まった給与すらなかったほどであった。
 さらに税の減税である。後漢王朝は建国期の戦乱の物資不足から十分の一税が施行されていた。それを建武六年(西暦30年)に三十分の一税に減税したのである。
 この三十分の一税は前漢時代の標準税率なので、劉秀はそれをもとに戻したということである。この三十分の一税とは収穫の三十分の一を国に収めるということだ。しかし日本人ならすぐになぜこんなに安いのか驚くはずだ。日本の江戸時代の税は五公五民と呼ばれ、二分の一税なのである。漢王朝の税はその十五分の一しかないのである。この謎は次の軍事改革の話で解説しよう。
 


・・・・・・・・抜粋終わり

>劉秀は地元と民衆の声に耳を傾けるため、皇帝への上書の方式を簡略化し、また上書に検閲を許さなかった


これも凄いは。


>また困窮者への生活保障を始めた。第一回目は建武六年(西暦30年)で、高齢者や頼れる者のない者、身よりのない者や貧しくて自給できないものに穀物の現物支給を行ったのである。一人あたり五石、もしくは六石である。漢代の一石はおよそ三十一キログラム、一人が一年に消費する穀物は百五十キログラムと言われるので、五石や六石とはおよそ一年分の主食ということになる。
> この食糧保障は「法律の通りにせよ(如律)」とあり、劉秀が法律として定めたものであるとわかる。
> 政府財政の問題もありしばらくは行われなかったが、第二回目は建武二十九年(西暦53年)で、ここからこの政策は定期的なものとなり、建武三十年(西暦54年)、建武三十一年(西暦55年)に同様の穀物の現物支給を行っている。そしてそのまま次の明帝、章帝に受け継がれ、後漢王朝の統制が失われるまで定期的に行われるようになった。後漢全体では、西暦30年、53年、54年、55年、60年、69年、74年、75年、75年、78年、79年、84年、91年、96年、100年、105年、114年、121年、122年、126年、129年、132年、137年、147年の合計二十四回行われている。


これも凄いは。



なんどもいうけど、光武帝偉すぎて あかんは!









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