天皇{制}に関する、二三。
おもしろそうな、天皇に関するツイートでした。
https://note.com/taisinzin/n/ncde03cfddbbe
にて
頼朝が、朝廷・公家をみなごろしにするなりして、簒奪できるほどの権限が、征夷大将軍にあるって書いたら、その当人が、当方のを見てか{自意識過剰だね}、気がついてか、論考を加えてた。
ただ私は
のが、ある程度の事実と思う。
行政機構や、礼法などの文化的モノの建設って実は結構大変。
前漢の劉邦には、蕭何
とか、
張良とか、
知識人・賢者が沢山いて、その法制や、礼制をつくった。
彼らは、ただの実務だけでなく、それの根拠の「論理・哲学」も知っていたし、それを実践もしていた。
礼制に関したら、叔孫通
法制に関したら、蕭何だけでなく、張蒼とか、
いたし。
また、後漢でも、第一光武帝の劉秀自身がそこそこの知識人でもあるし、
一級の知識人もかき集めて居たし。なんせ「仕官しなくてもいいから、暇つぶしに遊びに来てくれ」って、こりゃ、趣味かよ!
曹操の「人材オタク」は、まあ言うまでもなく。
酒見賢一の「周公旦」って小説で、「礼法を作るのは、国家を作るような大事業」てことのセリフが書かれている。
なぜに、日本では、天皇をつぶせなかったのか。
て言われると、一つは、
革命出来るほど、社会学的レベルが高くなかった=社会学的知見が低い。ってことで、それも質量ともに。
「天皇など、司祭して、伊勢にいればいい」といったのが、江戸初期の最大の知識人の一人の、南光坊天海。
でも、1600年代になるまで、その意図すら起きないほど、武家は、その統治機能と機構を持つことも作ることもできなかった。
知見の低さと、それを行える人材の少なさが、あったとみていい。
あと、海外との違いは・・・
陳輿道の
このような遺言の内容が、切実に必要とされることや、それを実践するようなことが、天皇はじめ日本には、一度も無かった。
前の敗戦でも、天皇家による領土と国民の切り売りで、敗北後を切り抜けているのだし。
また朝鮮半島での鄭道伝のような
このような政治家が、宰相也帝王として君臨したわけでもなかったのが、天皇統治だった。
なんせ「民は草」なのが、天皇とその徒党の本音ですからな。
あと、そもそも「天皇」は、革命されるほどの権限をもったのが、明治帝政以降だけだし。
ただ、天皇統治の下の日本人は、いつも「天皇とその国家」がウザい存在だったのは、明白。
それを誤魔化し、たぶらかして、生き延びてきた。
法華経の信仰が盛んになった一因は、「王難」ようするに、天皇や役所の悪政や冤罪から逃れるためってのが多かったのだよね。
あとインフラ工事も、国家なり役所がするのでなく、高野聖とか坊さんばっかりだったのが、江戸時代以前。
そんな社会で、革命は愚か、まっとうな「住民の統治」などできるはずもなかったのだよね。
これも「天皇ってのが、基本責任取らない」って思想・システムだし、まあ、責任取らんためには、「権限も無く統治もしない」ってのが、ある程度正しい選択だったわけで。
で、平田神道~復古神道で、勘違いして「やっぱ政権を天皇が握らんといかんよ」と思って、クーデターを起こしたのが、明治維新とか言う詐欺。
将軍が取ってくれていた「失政の責任」を、全部天皇が背負う羽目になったので、日本人相手を騙すのに「無答責」っての発見し採用したけど。
そんなの意味ね~は。だよね。
「天皇機関説」ってあるけど、機関がミスると、まあその機関の解体等の罰も取られるって、想定もできないのが、「天皇信者・天皇」って病気の患者の知的退行の症状だよね。
て暇つぶしを書いてみました。
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