私は「実験」も「理論」も信じるかどうかわからない。

より

上記文抜粋
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【BOOK】『医学と儒学: 近世東アジアの医の交流』

『医学と儒学: 近世東アジアの医の交流』
向清清
人文書院 (2023/5/31)

出版されたばかりの『医学と儒学』を読みました。
立命館大学の助教である向清清先生が博士論文『「復古」と医学――近世日本医学思想の研究』をベースに日本の古方派医学を論じられたもので、最新研究を概括できる名著だと思います。

江戸時代の東洋医学の歴史を学ぶには儒学、特に宋代の新儒学(宋代理学、朱子学)の知識が必須となります。

儒学は春秋戦国時代の孔子によって創られます。

春秋戦国時代を統一した秦によって焚書坑儒が起こり、弾圧されます。

秦の滅亡後に漢王朝では儒学が政府により採用されました。
しかし、後漢時代から三国志の乱世となり、仏教や道教が興隆します。

魏晋南北朝は儒・仏・道の三教が混淆し、隋唐時代は仏教の絶頂期となります。

宋代の新儒学は朱子学に代表されるように道教や仏教の禅の影響を受け、新儒学(朱子学)として元代(モンゴル帝国)の中国の支配イデオロギーとなります。

日本は鎌倉時代から室町時代には禅宗が興隆していました。

戦国時代の豊臣秀吉の朝鮮出兵の1592年に、李氏朝鮮の儒学者である姜沆は藤堂高虎の捕虜となり、姜沆により伝えられた李氏朝鮮の儒学者、李滉の朱子学と理気二元論が江戸時代の日本の学問の基礎となりました。

金元四大家「養陰派」朱丹渓の『格致余論』は、朱子学の「格物致知」からタイトルをとっています。

江戸時代初期の日本では、政府のイデオロギーである儒学思想は朱子学であり、医学は金元四大家の李朱医学(後世派医学)でした。

しかし、儒学の分野では、京都で伊藤仁斎の古学、荻生徂徠の古文辞学が生まれます。
朱子学(宋学)は本来の孔子の儒学ではなく、「論語を読むことで孔子にかえれ」というのが伊藤仁斎や荻生徂徠の思想でした。

伊藤仁斎の古学に影響を受けた後藤艮山が古方派医学をつくり、その弟子である香川修庵が儒医一本を唱え、陰陽五行説と経絡学説を否定します。

荻生徂徠に影響を受けた吉益東洞は「傷寒論にかえれ」と提唱し、『黄帝内経』と『傷寒論』は別系統の医学だとして、後世の改竄とみなした部分を改変していきます。

日本の伝統医学を学ぶには、この江戸時代の「古学」「古文辞学」と「古方」の関係の知識が不可欠であり、それらを見事に整理したのは、この『医学と儒学』の素晴らしいところです。これは日本伝統医学を学ぶ際の必読文献になると思います。

いっぽうでわたしが思ったのは、『医学と儒学』ではわずか1行程度しか触れられていない部分です。
江戸時代の新しい儒学思想である国学の本居宣長や平田篤胤が『傷寒論』を論じる医師であったことです。

特に医師であった平田篤胤は排他的な平田神道(復古神道)という新しい神道思想を創ります。オカルティストであった平田篤胤の平田神道の思想的潮流が、そのまま排他的な攘夷の思想、明治維新後の国家神道や廃仏毀釈へとつながっていきます。特に明治維新以降、現代までつながる日本のオカルティズムと心霊研究は江戸時代の平田篤胤にはじまります。昭和の軍人たちのオカルティズムと極右思想(そして代替医療)の結合は、平田篤胤のイデオロギーの影響なのです。

わたし自身、宋代儒学の研究からはじめて、江戸時代の古学と古方医学の関係を研究し、江戸時代の古方派医学の親試実験の思想こそが日本伝統医学の本質であり、素晴らしい部分と感じています。

しかし、一方で、親試実験の古方派医学が幕末になると国学や和方(皇方)のような観念的・排他的な方向性に堕し、明治維新の廃仏毀釈や昭和の軍人たちの代替医療オカルティズムへとつながる流れを研究した際には、合理性が極まって非合理性を産む皮肉にシミジミしました。

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抜粋終わり

草森紳一の「曹操の「孫子」理解と活用」に

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~吉田松陰が、曹操をよしとしたのは、自らの体験を語ることなく、しかし自らの体験から注釈している姿勢を見抜いたからだろう。といっても、あとで自分の体験を「孫子」に附会させたのでない。そういう傲慢は曹操にない。「孫子」の理解{知}が先にあって、それをいかに応用{行}したかが、曹操の注釈なのである。

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てある。


わたし自身、宋代儒学の研究からはじめて、江戸時代の古学と古方医学の関係を研究し、江戸時代の古方派医学の親試実験の思想こそが日本伝統医学の本質であり、素晴らしい部分と感じています。

しかし、一方で、親試実験の古方派医学が幕末になると国学や和方(皇方)のような観念的・排他的な方向性に堕し、明治維新の廃仏毀釈や昭和の軍人たちの代替医療オカルティズムへとつながる流れを研究した際には、合理性が極まって非合理性を産む皮肉にシミジミしました。

親試実験のこの思想が、段々とオカルト化していくのは、なんか当然に思うのだ。

伊藤仁斎の古学に影響を受けた後藤艮山が古方派医学をつくり、その弟子である香川修庵が儒医一本を唱え、陰陽五行説と経絡学説を否定します。

てのも、過去の「治験」を無視してるって面があるよね「陰陽五行説と経絡学説の否定」は。

そういう傲慢と「親試実験=ある種の成功体験への執着」は、根無し草になりやすく、行き付く先は「オカルトと狂気」っても、十分あり得る普通の結末だった。

 より

上記文抜粋
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No.69 吉益東洞と親試実験

2009-02-16 20:30:05 | 医学のはなし

実験の重要性を物理学の分野においてはじめて認めたのはガリレオ・ガリレイ(1564-1642年)でした。現代医学の分野においてはクロード・ベルナール(1813-1878年)が代表的です。また漢方などの伝統医学の分野では古方派医学の大家、吉益東洞(1702-1773年)の名があげられます。

古方派医学の特徴は後世方派医学が重要視した(自然や人間を同時に説明しようとする)陰陽論や五行論、運気論などの理論を捨てたことです。しかし吉益東洞の言葉をまとめた『医断』によると、「理」と呼ばれる何かしらの原理や法則の実在を否定していないことが分かります。

「蓋し理は本もと悪むものに非ざるなり、その鑿(コジツケ)を悪むのみ…理は定準無く、疾は定證有り、豈定準無きの理を以って定證有るの疾に臨む可からんや…理は黙して之を識る」(鶴冲元『医断』より)

というように吉益東洞は「理」の実在を認めていましたが、医療行為においては(後世方派の)理論を無視しました。その代わりに個人の経験に頼ることを重視しました。そして自ら新しい治療法を考え出し、それが正しいかどうか実際に病人で試すという方法を採りました。それは「親試実験」と呼ばれていますが、現在の「臨床試験」と呼ばれる人体実験と似ています。

ところで仮説演繹法と呼ばれるものがあります。それはまず個別的なデータから仮説を考え出します。その仮説にもとづいてある予測をたてます。そしてその予測が正しいかどうか観察や実験により検証するというものです。ガリレイであれ、ベルナールであれ実験する前には仮説をつくりました。そして吉益東洞の仮説は「万病一毒論」と呼ばれています。

「万病一毒、衆薬みな毒物、毒を以って毒を攻む、毒去りて体始めて佳なり、初め元気に損益なし、何ぞ補を云わんや」

と主張して毒薬(作用の強力な生薬)により治療するという「親試実験」をおこないました。その仮説と方法に反対する医師もいましたが「万病一毒論」は一世を風靡しました。後世方医学と比較してはるかに単純な理論と、またもう一つの「病人の生死は天命であり、医はそれを救うことはできない」(註1)という医師の責任回避可能な主張は、医師家業で生活する人々にとってどんなに魅力的だったことでしょうか。しかしその「親試実験」により命を失った人々や家族にとってはたいへんな悲劇です。

この「親試実験」をした時、その検証を行うのは何かというと、それは人の心です。そこには意識の指向性が働いています。つまり一つの学派を立てようとする人の心には、他の流派では治らなかったという事実へ、また自分の流派では治ったという事実へ意識が向けられてしまいます。この「捉われの心」は現在の医療界(現代医学や伝統医学に関らず)にも存在するようですので注意が必要です。

「万病一毒論」は吉益東洞の個人的な経験から生まれました。初めは実験だった吉益流の医術も臨床経験を積んでいくうちに洗練されて治癒する人が増えたことと思います。しかし次の世代には別の問題が生まれてきます。

それは流派や理論に対する信仰であり、先生や医学書の言葉を絶対的に捉える、いわゆるパリサイ人の出現です。パリサイ人とはマタイの福音書にある、聖書の言葉だけを守り自分が神様に一番近いと思っている人のことです。そこではイエス・キリストは言葉ではなく、ものごとの本質や真髄をつかむ大切さを説いています。(そういえば荘子も忘筌の喩えで同じことを言っていましたね)

古方派医学は理論的な朱子学にもとづいている後世方派医学への反動として生まれたと言われています。しかし直接的には古方派は後世方派の中にパリサイ人が増えてきたことにより生まれたのかもしれません。そして歴史はくり返されるようですね。

それはさて置き、古方派により、後世方派の理論とともにそれが生まれるもとになった数多くの経験が捨てられて、しかもそれが日本の医学の主流になってしまいました。この時代において、個人を越えた経験の集積と理論の形成、そして修正、という流れが途切れてしまったことは残念なことです。

それは明治時代に漢方や鍼灸医学がドイツ医学に取って代わられる一因になったかもしれません。なぜなら日本で主流の伝統医学の力が(確かに名医は存在しましたが、日本の全ての医師の能力や医療システムを考えたとき)ドイツ医学より高ければ、政府から伝統医学が存続を認められなくなる、ということはなかったでしょうから。

(註1)吉益東洞『医事惑問』、『医断』参照

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抜粋終わり

一方で、親試実験の古方派医学が幕末になると国学や和方(皇方)のような観念的・排他的な方向性に堕し、明治維新の廃仏毀釈や昭和の軍人たちの代替医療オカルティズムへとつながる流れを研究した際には、合理性が極まって非合理性を産む皮肉にシミジミしました。

てのは、まさに

古方派により、後世方派の理論とともにそれが生まれるもとになった数多くの経験が捨てられ

てことなんだよね。

なんというか「知に対する姿勢」ってのが、日本は長らく・今も「未熟」なのだろうね・・

正しい学説よりも、「病気が治って元気になる」が、患者が求める事。

それに答えられない医療・医師は、「勝てない将軍」と同じで、捨てても結構なのである。


わが君が(孔子の)これ(=意見)を採用し斉の民俗を変えたいとお考えになるのは、貧しい人々を優先して助ける(実利を旨とする斉国の)急務ではございません。

ふと思うに、儒学は、こういう「理屈を優先してしまう」傾向がある。

その弊害あまりなかったのは、実務家の子貢なり、孫弟子くらいの西門豹とかだろう。



天皇を、西門豹できなかった日本人が、医学理論や医学思想を西門豹出来る訳が無いよな・・・

やはり「天皇」は、日本人劣化装置だよね。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように


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