天皇家に日本国内にいじめられるので、日本人は、外国で現地人をイジメていた。それは今も続く。


より


上記文抜粋
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日本軍の残虐行為を必死で止めようとした従軍記者もいたらしい


南京攻略戦の過程で展開された日本軍による凄まじい暴虐に、従軍記者たちはどう向き合ったのか。

その場ではほとんど何もできず、戦後になってから当時目撃した内容を語りだしたり、「(虐殺の写真を)撮っていたら恐らくこっちも殺されていたよ」と言い訳するくらいがせいぜいだったようだが、中には体を張って虐殺を止めようとした勇気ある記者もいたようだ。

陸軍の嘱託カメラマンとして、杭州湾から上陸して南京を目指した第10軍(柳川平助兵団)に従軍した河野公輝氏が次のように語っている。[1]

杭州湾から南京まで三〇〇キロの虐殺(柳川兵団)
(略)
「川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山まで道端に延々とそういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられていて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコ丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。『チンポコ三万本』と俺たちはいっていたが、三〇〇〇人以上はいたろうな。遠くロングに引いてみると、残虐というより壮観だった。
 読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしょうがないのだが、飛び出してやめさせようとするものもいた。普通の百姓だからといってね。しかし兵隊はそんなのにかまわずぶっ殺していった。俺か? 俺は残虐な写真ばかり撮っていたので病膏肓に入っていた。(略)
 蘇州の略奪はすさまじかった。中国人の金持は日本とはケタがちがうからね。あのころでも何万円とするミンクのコートなどが倉の中にぎっしりつまっているのがあった。寒かったから、俺も一枚チョーダイしたよ。兵隊たちは、捕虜にしこたまかつがせて持っていった。(略)
 蘇州の女というのがまたきれいでね。美人の産地だからね。兵隊は手当たりしだい強姦していた。犯ったあと必ず殺していたな」

この「読売のカメラマン」氏や飛び出して虐殺をやめさせようとした記者が誰だったのか、彼らがその後どうなったのか分からないのが残念だ。

ちなみに、柳川兵団は南京攻略後の徐州作戦でも残虐行為を繰り返している。同じく河野公輝氏の証言。[2]

「そこ(注:蒙城)は城壁と堀があって堅固な陣地だった。占領まで二日ほどかかった。三〇〇〇人ほどを捕虜にしたが、南京と同じように片っぽしから殺していった。徐州へ進撃しなければならないので捕虜を保護するわけにいかないんだね。子供連れの兵隊もいたがかまわず殺した。子供は殺される親父をじっとみていたね。そしてその子供も殺されてしまった」

柳川兵団の主力は第6師団だったが、師団長の谷寿夫は戦後、南京軍事法廷で死刑判決を受け、銃殺されている。谷は、南京大虐殺は他の師団がやったことだと裁判で弁明したが、彼にも重大な責任があったことは明白だろう。

[1] 森山康平 『証言・南京事件と三光作戦』 河出文庫 2007年 P.56-57
[2] 同 P.59

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・・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


より

上記文抜粋
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中国で「海外旅行みたいな」楽しい戦争をしてきたという兵たちの実態

小林よしのりは『戦争論』の中で1回だけ、自分で戦争体験者の親戚から聞き取ったという話を書いている。

この親戚氏は、戦争はまるで海外旅行のようだったと言い、多少の戦闘は経験したものの、あとは中国で美味いものばかり食っていたと、楽しげに語っている。[1]

「終戦前は 朝はブタ汁 晩はブタの煮付け 野菜の煮付けとか 食べとった」
「食糧は豊富にあった」
「さとうきび畑に入って ナマのさとうきび食べたらうまかった」
「ほし柿も よく食べとった」
…と食い物の話ばっかりする
(略)
「米をたくさん炊きすぎて 余ったのをおにぎりにして中国人にやると かわりにマントウをくれる」
「なしを5~6個くれることもある」
(略)
終戦後7カ月過ぎて 4月1日に長崎に着き 家に帰って来た時…
背中に上等の毛布をいっぱいしょって なんと丸々太って帰ってきたので 奥さんがびっくりしたらしい


まるで中国の人々となごやかに交流しながら食糧や物資を手に入れていたかのようだが、兵隊の給料でそんなことは不可能だろう。

では、彼らはどうやってそんな豊かな生活をしていたのか。

たとえば南京攻略戦に従軍した兵士たちの日記にはこんなことが書かれている。[1]

黒須忠信(上等兵・仮名)日記:

[11月22日](略)陳家鎮に午后五時到着、米味噌醤油等の取集めで多忙な位である、或は濡もち米を徴発或る者は小豆をもって来て戦地にてぼた餅を作っておいしく食べる事が出来た、味は此の上もなし、後に入浴をする事が出来て漸ようやく我にかへる、戦争も今日の様では実に面白いものである、(略)
[11月25日](略)午后四時祝塘郷に着して宿営す、(略)我等五分隊二十四名は宿舎に着く毎ごと大きな豚二頭位宛あて殺して食って居る、実に戦争なんて面白い、酒の好きなもの思ふ存分濁酒も呑む事が出来る、漸く秋の天候も此の頃は恵まれて一天の雲もなく晴れ渡り我等の心持も明朗となった。(P.346)

宮本省吾(少尉・仮名)日記:

[12月12日] 本日は出発を見合せ滞在と決定す、早朝より徴発に出掛ける、前日と違ひすばらしい獲物あり、そうめん、あづき、酒、砂糖、鶏、豚、皿、ランプ、炭あらゆる物あり正月盆同時に来た様にて兵隊は嬉しくて堪らず、晩にはぼた餅の御馳走にて陣中しかも第一線と思はれぬ朗らかさである。(P.133)
[12月24日] 滁県にて守備の説も当らず午前八時出発、滁県を後に全椒県に向ふ、風は肌に寒く行軍には良い日和である、途中雞にわとりの徴発物あり夜はしばらくぶりで雞汁を馳走になる(略)
[12月25日] 兵は馬並に野菜、豚の徴発に出掛ける、種々の御馳走を作る。(P.135)

陸軍の嘱託カメラマンとして第10軍に従軍した河野公輝氏は次のように語っている。[3]

 蘇州の略奪はすさまじかった。(略)そういう金持の家では、柱をトントンたたいてみる。柱をくりぬいて銀貨がぎっしりつめてある。そいつを持ち出す。銀貨だけでなく壁の中には財宝も隠してある。もちろんそういうのもいただくわけだ。(略)

こちらは当時日本軍が占領した上海市内で警備に従事していた坂田甚蔵氏の話。[4]

「街頭に警備で立って、通りかかる支那人を呼びとめては体をさぐり、時計やドンペイ(一円銀貨)をいただいちゃう。一日歩哨に立ってドンペイ二、三枚もいただいちゃえば、その晩は支那料理の豪勢なテーブルが囲めた

何事にも例外というのはあるので、小林の親戚氏個人の場合が実際にどうだったのかはわからない。

だが、一般的に日本軍がやっていたのは、こうした行為である。

中国で日本軍が「蝗軍」(イナゴの大群のように、通り過ぎたあとには何も残らない)と呼ばれていたのにはそれなりの理由があるのだ。

[1] 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 幻冬舎 1998年 P.273-275
[2] 小野賢二・藤原彰・本多勝一編 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 大月書店 1996年
[3] 森山康平 『証言・南京事件と三光作戦』 河出文庫 2007年 P.57
[4] 同 P.65

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・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


そもそも、日本人は、天皇家と天皇財閥にイビられている。

上記文抜粋
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「社会契約によって成立する近代国家では国が守ってくれないならば、国民が納税などの義務を果たす必要はなくなる。自己責任論は、権力者の責任をあいまいにする」

・・・・・・・中略・・・・・・

「従来の仕組みが壊れかけ、かつ、政府がたくさん金を使えない。明治と似たような状況」と松沢さん。平等主義的な分厚い中間層は衰え、誰もが貧困に陥るリスクが高まるなか「働かないで金をもらっている」との理屈で生活保護受給者など、より弱い者をたたく。松沢さんは「他人のことを考える余裕がなく、誰かを助けていると自分が損する、と思い込む。連帯の基盤がなくなり、社会の分断が進んでいる」と危惧する。

・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

上記文抜粋
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しかし「努力すれば必ず成功する」

という保証はどこにもない。

むしろ成功より失敗する方が多い。


通俗道徳の思想からすると

「成功したのは正しく努力した人、

失敗(困難)は努力しなかったダメな人」

とすべて自分の責任となる。

これが「通俗道徳のわな」。


人々は「どんな手段を使っても、他人を蹴落として

でも成功せねばならない」となっていった。

「立身出世」と「都市下民層」・・・

明治は、過酷な競争社会であった。

・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


より


上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・・・

「通俗道徳」は近年日本でも言われる「自己責任論」につながります。「コツコツ勉強して頑張って働けば必ずや成功する。お前が不幸なのは努力を怠ったからだ」という考え方は一面その通りかもしれませんが、病気や事故、親の離婚などなど、本人の与り知らぬ不幸もあります。

通俗道徳=自己責任論の拡がりは権力者にとって都合がよいのです。

・・・・・・・中略・・・・・

明治7年の「恤救(じゅっきゅう)規則」には「人民相互の情誼によるべし」(つまり共助すべし)とあり、公助を得られるのは、①障害者、②70歳以上の高齢者、③病人、④13歳以下の児童のうち、働くことができず、極めて貧しく、独り身(一切身寄りがない)である場合に限られていました。どのくらい対象者がいたでしょうか。貧民窟という社会の最下層にいるのに、日雇い労働者や車夫、屑拾い、大道芸人などのワーキングプアは切り捨てられたのです。

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抜粋終わり

国内で、天皇家とその財閥に虐待されている日本人は、外国で、現地人に憂さ晴らしをするようになったのである。

そもそも

のだ。


の地獄が、日本列島なのだから。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す。









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