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お湯は止まれど心は温か

12月中頃、自宅で、トラブルが起きた。お湯が出なくなったのだ。

それに気がついたのは、朝、顔を洗う時で、いつもは暖かい水で顔を洗うのだが、冷たい水で洗顔した。12月も半ばを過ぎ、冷蔵庫内よりも冷たい水が肌の表面を凍らせるようだった。とはいえ、暖かい水で洗顔をするという贅沢なことをし始めたのはこの冬からであり、冷たい水には慣れていたため、特別苦しいとは感じない。そして、朝で急いでいたため、お湯が出ないこともあまり気にかけていなかった。というわけで、そのまま家を出た。

帰ってきても、風呂に入るまではお湯は使わない。お湯はガスを使う給湯器から供給されるが、ガスは使えたため料理はできた。給湯器に異常があるのだろう。お湯が出ないことを忘れて過ごした。

夜になると、高校時代の友人から連絡がきた。今夜、ゲームができるかということだった。僕はたまに高校時代の友人とオンラインでゲームをする。大学での交友関係が狭い身としては、貴重な人間関係である。東京に住む友人とも簡単に通話をしながら同じゲームができるというのは、いい世の中だと思う。ただ、こんな世の中でなければ大学でもう少しは友人がいたのではないかとも思う。

ゲームの誘いに快諾し、それが終わったのは、日付が変わった2時である。ゲームが終わる時間としては、特別遅くも早くもない、いつも通りな時間だ。そこから、風呂に入って寝ようと思った。しかし、この時ようやくお湯が出ないことを思い出した。

しまった、と思った。だが、個人的にはお湯が出なくてもあまり問題は大きくない。せいぜい、風呂に入れないというくらいである。近年、若者の間で風呂なし物件が人気だという話を聞くほどであるから、お湯を使わない人もいるのではないか。その若者たちは風呂に入らないのではなく、銭湯に行くという。僕も、お湯が出ないことをわかっていれば銭湯に行っただろうし、その前にしかるべきところに連絡を入れて対応をお願いしただろう。

ここで問題になるのは、僕は足が冷たいと眠れないということである。椅子に座ってゲームをしていたため、足は保冷剤のごとく冷え切っていた。すぐに眠れないことに少しだけ絶望したが、それ以上に興奮していた。

なぜなら、この問題をいかにして解決してやろうか、という奮い立つ気持ちの方が大きかったからだ。足をいかにして温めるか。ピンチをチャンスに、という発想が身についているわけではないが、この単純にして困難な課題に知恵を絞ることにワクワクしていた。足は冷たかったが、心は熱くなっていたともいえる。さらに、この後書いていくような解決策をとることも、非日常的で楽しいことだった。

こんなことからも、自分が普段いかにつまらない生活をしているのかがわかる。たいていの人であれば、人間関係であるとか、仕事であるとかで頭を使うため、こんなつまらないことに、いきり立ったりはしないのではないか。

対して僕はリアルでの人間関係をあまり持っていないし、学生であるから多少頭は使うが、クリエイティブな課題解決をすることはほぼない。脳のリソースが余りまくっているのかもしれない。

足を温めるための単純な方法は、布団に入ってうずくまることである。やがて体が温まっていき、それが足にも伝わっていく。いずれ寝ることができるが、時間がかかる、強行突破である。

または、温かいスープかお茶なんかを飲めばよい。胃から温めることで体の芯を温め、足をぬくませようという算段だ。

それか、カイロを使うという手もある。しかし、この時家にはカイロがなかったため断念した。ガスは使えるのだからお湯を沸かして湯たんぽを作るというのも良いアイデアだと思うが、あいにく湯たんぽもない。床暖房もある部屋なのだが、給湯器からのお湯を使って温めているためこれも使えない。これまでどれだけお湯に頼ってきたかがわかる。

ここで、僕の頭は何も生み出さなくなってしまった。普段からクリエイティブなことをしていないためか、張り切った割にごく平凡なことしか思いつかなかった。

だが、僕は明らかに夜を楽しんでいた。結局とった方法は、温かいお茶を飲みながら布団に入り、足が温まるのを待ちながら本を読むということだった。ごり押しであるが、なんとも優雅な時間の過ごし方である。

夜更かしをするのは普段あまり褒められたことではないから、するときは少し罪悪感を感じている。だが、この夜は違う。仕方がなく夜更かししているのだ。誰にも責められることなく、といっていつもは夜更かししていると誰かが責め立ててくるというわけではないが、悠々と好きに起きていられる。こういう気持ちの違いが、夜を何倍も楽しくした。こうして時間をつぶし、足が少し温かくなってきたところで、眠気が限界になり、眠った。

これが、ある金曜日のことである。

翌日、お湯はまだ出ない。放置していただけだから、出るようになる方がおかしい。土曜日である。たいていの会社は土日が休みであるということを忘れていたわけではないのだが、昨日も夜遅くにお湯が出ないことを思い出したわけで、二日間はお湯が出ないことを覚悟した。銭湯にいけば良いし、夜は昨日と同じように合法的に夜更かしできる。

だが、不動産の管理会社を甘くみていた。

24時間体制で、管理会社のサポートセンターが電話対応していたのだ。昨日気づいていれば、と一瞬思ったが、気づいてしまっては楽しい夜がなかったわけで、さらに、合法的に夜更かししたという意識がある以上、24時間対応という事実はなんとなく都合が悪かったため、すぐにその後悔を頭から消し去った。

さっそく電話してみると、録音された音声が話しかけてきた。どうやら、電話が大変混みあっているというやつで、順番待ちすることになった。

給湯器や、それをオン・オフするパネルのようなものをいじりながら待つと、7分ほど経って女性のかわいらしい声が、サポートセンターであることと自身の名前を告げ、その後すぐに待たせたことを丁寧に謝罪してきた。サポートセンターにわざわざ電話するような人はおおよそ部屋の設備の何かに不調があり、多少はいらだっているだろう。さらに、電話がなかなか通じないということになると、怒ってしまう人がいるのもわかる。最初に丁寧に謝ってきたのは、そういう人たちに少しでも落ち着いてもらうためなのだろうか、イライラをぶつけられることもあるのだろうか、と、コールセンターのスタッフに同情してしまう。

「昨日からお湯が出なくて、給湯器が何かおかしいのではないかと思っているのですが」

給湯器に、壊れている、と言わずに、何かおかしい、と表現したのは、給湯器を作った人に対する敬意である。おかしいのは自分かもしれない、自分が何かミスをしているのかもしれない、という意識は常に持っておきたいのである。

そして何点か、確認された。パネルのエラーコードは、543と出ていたため、それも伝えた。ネットで調べたところ、543のエラーコードは給湯器の故障と出たが、そんなネット知識はうかつにひけらかさない。相手の方がよく知っていて当然だからだ。

「ブレーカーの入り切りはお試しいただきましたか?これで直ることもございますので、一度お試しください」

電話の相手は、こう提案してきた。たしかに、盲点ではあった。ブレーカーを一度切ることで、再起動のようなことができ、直るかもしれない。ただ、電話をかけ、給湯器の故障を多少は疑った身として、これで直ってしまったら少々恥ずかしく面目ないので、こんなことで直らないでくれ、という気持ちもある。

「ブレーカーを落としていただいてから、3~5分程度空けて、上げなおしていただくと直ることがあります。これで直らなかった場合、業者の方を手配させていただきますので、一度お試しいただいてよろしいですか?」

もちろん、試してよろしくないはずがない。すでに、僕の手はブレーカーにかかっていた。

「ブレーカーを落とされましたら、こちらで時間を計らせていただくので、言っていただけますか?」

「あ、はい、今、落としました」

「承知いたしました。では、ここから時間を計らせていただきます」

コールセンターでのアルバイトは高時給ということでバイトを紹介するサイトに出ていたりする上、声が若い人のそれであったから、今日出てくれたこの人もアルバイトなのかな、と一瞬思った。が、コールセンターに対応する声としては理想的なかわいらしさであるし、対応は板についている。配慮の行き届いた丁寧さは、プロのそれであると思った。

ブレーカーを落とすと、換気扇やその他の電化製品の音は時が止まったかのように消え去り、部屋にはこれまでにないほどの静寂が訪れた。日光が入りにくい薄暗い室内で、冷たい手をさすった。

ブレーカーを落としている数分間で、再び確認事項を手際よく済ませていった。メーカーや型番などを確認しながら、僕は、程よい高さで、かつ柔らかい声を聴きながら、この人がいくつなのだろうかと考えた。第一印象は、20歳だ。しかし、40歳くらいであってもプロであればこれくらい若さのある声を出してくるかもしれない。同時に、僕の声を聞いて、何歳だと思われているのだろうか、とも思った。

「そろそろ3分経ちましたので、ブレーカーを上げていただいてよろしいですか?」

僕はブレーカーを上げ、早速お湯を出そうとしてみた。通常、最初は水が流れてくるため、流しながら待った。床暖房もオンにした。数十秒待ったが、お湯は出なかった。

「どうでしょうか。出ましたか?」

「いやー、出ないですね」
僕は言った。

「床暖房の方はどうですか?」

「うーん、ついてなさそうですね」

このとき、給湯器のパネルで、スイッチをオンにすることを忘れていたため、慌ててオンにした。オンにしないとお湯が出ない。たまにこれを忘れ、風呂の中で寒い思いをする。ボタンを押したときに出たピッ!という高い音を、スマホのマイクは逃さず拾っただろう。申し訳ない限りである。

とはいえ、お湯はなかなか出てこない。もう一度パネルを、ピッピッといじった。オンにしていなかったことを、パネルを操作して試行錯誤していたという風に、うまくごまかせていたら良いのだが。実際、この時は試行錯誤していた。

「どうですかねぇ。出ないようでしたら故障もあり得ますので」

「そうですねぇ」

それなりの時間、話をしているため、二人の語尾は多少フランクになっていた。

さらに少しだけ水を流しながら待つと、冷たい手の表面にしびれるような感覚があった。

「あぁ、出てきました!」僕は思いのほか、無邪気な声を出した。

「出てきましたか!よかったです」

電話の向こう側の女性は、その声のトーンに自然と合わせてきたような、いかにも、にこやかに対応しているということが眼前に浮かぶような、微笑みの混じった声で、喜びへの共感を表してきた。僕は、お湯が出てきたことよりも、電話の向こうの女性と少しだけ親密になれたような気がしたことに、うれしくなっていた。あくまで、相手は仕事でやっているのだが。

「床暖房の方はいかがですか?」

「うーん、わからないですね。温かくはない感じです」

「そうですか。床暖房って温かくなっているのがわかりにくいですよね」

相手も少しだけ気を許したのか、電話の向こうの人が誰であれ、その人と少しでも親しくなれたような感覚は誰にとってもうれしいことなのか、事務的ではない、少々世間話のようなことを言ってきた。

しかし、所詮は電話の上でのみの、それも一方では仕事上のコミュニケーションである。別れはすぐにやってくる。結局床暖房のぬくもりはわからなかったが、

「では、床暖房も含め、また何か不具合がございましたらご連絡ください」ということで落ち着いた。

「すみません、ありがとうございました」

ブレーカーを一度落とすだけで解決してしまったため、申し訳なさと恥ずかしさを感じ、軽く謝った。

僕は、満足感をもって電話を切った。対応も満足で、お湯が、いとも簡単に出るようになったことも満足であったが、やはり何より、電話の向こうの人物と少しお近づきになれたような感覚に満足であった。

これは、相手が若い女性であったから、というわけではないと思う。いや、もちろん、かわいらしい女性に対応されることは好みではある。ただ、男性であっても、誰であろうと、丁寧に対応され、少し距離が近づいたような感じがするとやはりうれしい。にこやかに話すことは、電話上でも大切だと実感した。最近のオンライン上でも、にこやかさ、丁寧さは大事だ。

ただ、この電話を切った後、その女性は、順番待ちにいらだった次のお客の対応をするのだろうな、と思うと少し気が滅入った。彼女は慣れているから平気なのだろうか。それとも、案外いらだちながら電話を寄越してくるお客は少ないのかもしれない。そうであることを祈りつつ、陰ながら応援した。

そして夜、風呂に入った。二日ぶりの風呂だ。とはいえ、別にそこまでお湯のありがたみを感じたということはなかった。風呂を一日とばした、というくらいである。サポートセンターが土日に休みで、三日くらいお湯が出なければ、もう少しありがたみを実感したかもしれない。だから逆に、お湯が出なくてもそこまで問題はないのかな、と感じた。

お湯が出なくなることで、心は温まる、そんな経験をした。

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