見出し画像

Shiny,Glory,Sunny Days【ウマ娘 二次創作】

◯ ご注意 ◯
この作品は「ウマ娘 プリティーダービー」の設定をお借りした二次創作です。本家「ウマ娘」には一切関係ございません。また、この作品独自の設定も多々あります。ご了承のうえでお楽しみいただければと思います。

「お前、そろそろ潮時なんじゃねえか」

 久しぶりに顔を合わせた師匠から開口一番そう言われたとき、俺はとうとうこのときが来たかと思った。握ったこぶしに、ほんのわずか力が入った。
「……なにがですか」 
「なにがって、お前……」
 言葉を濁す師匠。思わず、申し訳ないという気持ちになる。
 そう、俺には師匠の言いたいことがわかっていた。わかっていてなお、「なにが」と聞かずにはいられなかった。ハイハイわかりました、と簡単に受け入れるわけにはいかなかったからだ。
 師匠は乱暴に頭をかくと、改めて俺に問いかけてきた。
「お前、ウマ娘のトレーナーになってからもう二十年近くになるよな。そのあいだ、担当の子にGⅠを何回勝たせた?」
 俺はその問いかけに、まともに答えることができない。握りしめた手にこもる力が、少しずつ強まっていく。
「何回だ」
「……一度もありません。2着が1回だけです」
 かすかに震える声で、そう答える。
「それ、もう10年も前だろ。そもそもだな、お前、ここ5年ぐらいで何人の子とトレーナー契約を結べたんだ。それでその子らを、もうGⅠじゃなくてもいい、いったいレースで何回勝たせてやれた?」
「……4人で、3勝です」
 4人で3勝。自分の口から出たその言葉に、軽くめまいを覚えた。4人で3勝。なんてことだ。自分の不甲斐なさを正面から指摘されるのは、正直こたえる。俺はつい下を向いてしまう。安物の靴が目に入る。
「おい」
「うわっ」
 下向きの俺の視界に、いきなり師匠が入り込んできた。驚きのあまりひっくり返りそうになってしまうのを、なんとかこらえる。
「俺はな、お前に才能がないとはちっとも思わん。お前の力量は、そのへんにいるトレーナーもどきのド素人どもなんぞより遥かに上だ」
「……口が悪いですよ師匠(センセイ)。彼らは立派なトレーナーです」
 俺なんかよりも、と口にしなかったのは、俺に残ったほんのわずかのプライドなのだろうか。
「事実を言って何が悪い。それに『センセイ』はやめろ。お前だって立派なセンセイだろうが。なにせ最優秀新人トレーナー様だしな」
「それこそ十年以上前のことですよ。今の俺は……」
「今の俺は、なんだ」
「……」
 今の俺は、なんなんだろう。俺は何を言っていいのか、何を言うべきかわからなくなり、黙り込んでしまう。そうだ、俺はいつでも、肝心な時に言うべきことを見つけられないのだ。そのせいで、いろいろと苦い思いをしてきたにもかかわらず、俺はこの悪癖をどうすることもできないでいた。

(ごめんなさい。トレーナーさんが何を考えているのか、わたしには全然わからないんです。そんな方と、これ以上一緒にやっていける自信が……わたしにはありません)
 脳裏に突然よみがえる情景。深い悲しみをたたえた瞳。何度も繰り返される「ごめんなさい」という言葉。優しい子だった。勝たせてやりたかった。だというのに、俺は。

「まったく……」
 あきれるような師匠の声に、俺の意識は引きずり戻される。
「無口で無愛想っつったって、限度ってものがあるだろうに」
「……」
「お前さんに人並みのコミュニケーション能力さえ備わっていれば、間違いなくモノになってたはずなのに。俺はつくづくそう思っちまうよ。ま、いいさ、ないものねだりしてもしょうがねえ。スプリンターが春の盾(天皇賞)目指すようなもんだ」
 それは、『無理だからあきらめろ』という意味だろうか……そんな疑問をいだいたが、やはり何も言わずに黙っていた。
「ま、お前の人生、決めるのはお前だ。これからどうするのか、どうしたいのか……納得いくまで、じっくり考えるこったな。おっと、もうこんな時間じゃねえか」
 師匠は年季の入ったジャケットを肩に引っ掛けると、俺を置いて部屋を出ていこうとする。
「なにしてる。お前も行くんだろ」
「……どこに?」
 慌てて尋ねた俺の顔を、師匠は心底あきれたように見返した。
「それを忘れちまうようじゃあ、トレーナーじゃねえよ。やっぱり潮時じゃねえのか」
 師匠はそう言い残して、頭をかきながら足早に部屋を出ていった。取り残された俺は、ほんの数秒考えこみ……自分がやらかしたことの重大さに気づいて、顔を青くする。
 そうだ。トレーナーなら忘れるはずもない。師匠とのやりとりに我を忘れていたなんて言い訳はきかない。俺は部屋を飛び出し、定年寸前とは思えぬほどの速度で歩く師匠に追いついた。
 師匠は歩みを止めることなく、俺のほうを見ることもなく、だがほんの少しだけ嬉しそうな声で「まだトレーナーだったか」とだけつぶやいた。俺はやはり何も言わず、師匠と並び歩いた。

 歩きながら俺は、さっきの師匠の言葉を思い返していた。これからどうするのか、どうしたいのか……。
 そんなもの決まっている。俺はトレーナーで有り続けたい。というより、他の道など考えられない。今さら違う生き方を選ぶくらいならば、最初からこの道を歩くことなどなかっただろう。
 だが。頭の中に涙を流すウマ娘の姿が浮かぶ。俺の意志はそうだ。だが、それでいいのか。これ以上俺がトレーナーを続けるならば、またあんな子が生まれるだけではないのか。頭の中でぐるぐると回り続ける疑問に、俺は答えを出すことができないでいた。

 屋外に出る。薄曇りの空の下、まだ少し寒さの残る中を俺と師匠は歩き続ける。無言で歩く俺たちを、陽気な声を上げる集団が追い抜いていった。話していた内容からして、俺達と目的地は同じらしい。
 広すぎる敷地をひたすら歩き続けると、やがて俺たちの前方から歓声のようなものが聞こえ始めた。
「おう、盛り上がってるな」
 師匠が笑う。俺はほんの少し体を震わし、唇をなめた。目に入るのは一面の緑。一周2000メートルと少しのトラックをいろどる、芝の鮮やかな緑色だ。
 これぞ「日本ウマ娘トレーニングセンター学園」、通称トレセン学園の誇る、本物さながらの練習用コース。そして今日、ここでウマ娘たちによる「選抜レース」が開催されるのである。
 選抜レース。デビュー前のウマ娘たちが行う模擬レースであり、スカウトの場である。ここで実力を示したウマ娘たちは、それぞれのトレーナーと専属契約を結び、夢の舞台「トゥインクル・シリーズ」での勝利を目指すこととなる。言わば、夢の舞台への第一歩というところだ。そういう大事な機会を、一瞬とはいえ忘れていたわけだ。トレーナー失格の烙印を押されるのも当然だ。
「さて、今年の子らはどうなんだろうな。走れそうな子はいるのかねえ。おい、お前なんか知ってるか」
 師匠がそう言って水を向けてくる。俺は苦笑いで応えた。そんなこと、師匠が知らないはずがない。要するにこれは、俺へのテストというわけだ。
「そうですね……たとえば」
 俺は前評判の高い子たちの名前をあげていく。彼女らはトレーニングの時点で非凡な走りを見せていた子であったり、名門が送り出した秘蔵っ子であったり、様々な理由で注目を浴びるにふさわしい子たちであった。
「なるほどね……で、お前さんのイチオシはどの子なんだ?」
 師匠の問いかけに俺が答えようとした、そのとき。

 上空に重くのしかかる厚い雲の切れ間から、ほんの一瞬、光が指した。一刹那だけ顔をのぞかせた太陽は、レース開始を待ちのぞむウマ娘たちを美しく照らし出し――ある一人のウマ娘の姿を、俺の目に焼き付けたのだった。

 そのウマ娘は、太陽の瞳を持っていた。美しさと力強さを秘めた、黄金の瞳を。
 小柄な子であった。身にまとう雰囲気に、なにか特別なものがあったわけでもない。どちらかといえば地味だと言えるようなウマ娘である。ただその瞳の輝きだけが、俺をどうしても惹きつけて放さなかったのだ。
 彼女は入念なストレッチを終えると、「よし」と小さくつぶやいてスタート地点へ向かった。どうやら、ちょうど選抜レースに出走するところだったらしい。持参したタブレットで、出走者の名簿を確認する。
 ゼッケン8番――。

「サニー……ブライアン……」

「へえ、聞いたことない子だな。その子がお前さんのイチオシってわけか」
「い、いえ。そういうわけでは」
 俺は慌てて否定する。イチオシどころか、今の今まで名前すら知らなかった子だ。
 サニーブライアンの各データを見てみた。トレーニング時のタイムは悪くない……が、決して突出していいというわけでもない。記載されている情報を隅から隅まで確かめてみたが、やはりどこまでいっても平凡なウマ娘としか言えなかった。
「おい、レースが始まっちまうぞ」
 師匠の言葉で我に返ると、俺はスタート地点に目を凝らした。スターティングゲートにおさまったサニーブライアンは、遠目には落ち着いて見える。
 心地よい音とともにゲートが開く。スタートだ。
 サニーブライアンのスタートは、正直あまり上手くはなかった。不器用なタイプなのだろうか。8人中、5番手ほどの位置につける。長いポニーテールを後方へとなびかせながら走る。美しく、かつ力強いフォーム。悪くない走りだ。
 いや、違う。
 確かに悪くはないが、どうも窮屈そうに走っているような感じを受ける。たぶん、位置取りが良くないのだ。あのフォーム、あの走りならば――。
 レースは終盤戦。ウマ娘たちが最終コーナーを曲がり、直線へと入ってくる。サニーブライアンは周りを囲まれ、身動きができない様子だ。ああ、やっぱり。彼女はおそらく、一瞬の切れ味で勝負するようなタイプではない。あんな後方からでは、決して先頭には届かないだろう。
 ウマ娘たちが最終直線を駆け抜けていく。サニーブライアンは他の子達に囲まれて懸命に、もがくように走っている。表情が歪む。
 だが、その目は、金色の瞳だけは、決して力を、光を失っていなかった。
 ああ、なんて目をして走るんだ。
 あの目の輝きは意志の表れだ。苦しい状況の中、決して勝ちを諦めない意志の炎だ。だがおそらく、今の走りでは勝てないだろう。なんだかひどくもどかしかった。誰かが、彼女にひとこと言ってあげるだけでいいのに。そうすれば彼女は――。
 誰かが?
 心臓が、ドクンとひとつ音を立てた。

 先頭の子がゴール板を駆け抜けた。続けて2着、3着の子たち。サニーブライアンは、結局6着でのゴールとなった。
「お前さんご贔屓の子は6着か。悪くない走りだが……」
 師匠はその先を言わなかったが、言いたいことはわかる。俺が気づいたことを、師匠が気づかないはずがない。
 そうだ。誰かが、誰かが彼女を導いてあげなければならない。では誰が、それをやる?
 俺は目をつぶり、ゆっくりと三つ数えた。脳裏に浮かんでくるのは、何人ものウマ娘の姿。俺が勝たせられなかった、泣かせてしまった子たちの姿だ。心音が高まる。
「おい、どうすんだ」
 俺は答えず、もういちど三つ数えた。自分の心に問いかける。
 お前は、どうしたいんだ?
 心音がおさまってくる。どうしたいか? そんなものは決まっている。
「……行ってきます」
 師匠の「そうか、がんばれよ」という声を背に受けながら、俺は駆け出した。サニーブライアンはレース終了後、こつぜんと姿を消していた。まずは彼女を探し出し、ひとこと伝えてあげなければ。
 その後は? 伝えてその後、俺はどうするんだ。
 その問いの答えは思いつかなかった。

 トレセン学園は広い。それはもう、半端なく広い。
 ここには、ウマ娘たちに必要な施設が全て揃っている。本番同様のレース場、各種練習施設、寮から食堂からライブ用のステージにいたるまで、必要なもの全てだ。反面、人探しをする場所としてはこれ以上難しいところもないだろう。まして探す手がかりもないと来ては。
 考えろ俺。なにかヒントはないか。

 あの目だ。俺になによりも強い印象を与えた金色の目。勝ちたい、誰よりも速く走りたいという意思を秘めた太陽の瞳。そんな思いを秘めたウマ娘が、模擬レースとはいえ全くいいところ無く負けてしまった。その場合どうするか。
 ひらめくものがあった。幸い、その場所はここから離れていない。俺は疲労を感じる足に鞭打って再び走り始めた。

 トレセン学園、中庭。ここにある学園名物が目的地だ。
 俺が中庭にたどり着いたとき、その学園名物――中が空洞になっている大きな切り株である。この切り株の穴は、日夜ウマ娘や学園職員たちが様々な思いを込めて喚き散らす、ある種のストレス解消スポットになっているのだ――の前には、切り株の穴の縁に手をかけている一人のウマ娘がいた。彼女だろうか。
「――悔しい!」
 ウマ娘が、穴に向かって叫んだ。
「また、また勝てなかった! あんなに練習したのにどうして、どうして勝てないの!」
 体操服姿。体格は同じくらい。だがポニーテールではない。彼女の後ろに立っているせいで、顔は見えなかった。頼む、こっちを向いてくれ。目だ。目を見れば、彼女かどうかすぐに分かる。
「?」
 俺の気配に気づいたのか、彼女がこちらを振り向いた
 ……嘘だろ。
 彼女の顔は長い前髪に覆われて、俺からは鼻と口元だけしか見えなかった。
「わわわ、いつの間に後ろにいたんですか!?」
 柔らかな声だ。レース場でたった一言しか聞けなかった声と同じかどうかは、正直わからない。
 俺は疲労と落胆で、膝に手を付き下を向いてしまう。
「えっと……具合が悪そうですけれど、大丈夫ですか? 誰か人を呼びましょうか?」
 彼女が駆け寄ってくる。必要ないと言おうとして、俺は顔を上げた。
 風が吹いた。彼女の髪を揺らす。
 金色の瞳――雲間から覗く太陽が、そこにはあった。
「きゃっ!?」
 俺は彼女の、サニーブライアンの両肩を掴んでいた。
「な、何をするんですか!?」
「……逃げるんだ」
「……え?」
 俺はサニーブライアンの瞳を覗き込みながら、頭の中で必死に言葉を探していた。
「い、言われなくても逃げます! だから離してください!」
「君のレースを見ていた」
「離して……え? わたしの……レースを?」
「ああ。あれじゃ勝てない」
 俺の言葉を聞いた途端、彼女の目が曇る。
「勝てない……やっぱりそうなんですね……やっぱりわたしなんかじゃ……」
「違う」
 違う、違うんだ。自分を卑下する必要なんてないんだ。
「君は勝てる」
「え……でも、さっきは『勝てない』って……」
「違う」
 サニーブライアンが首をひねる。頭の上にたくさんの疑問符が浮かび上がっているようだ。くそ、もどかしい。
「違う。『今のままじゃ』勝てないんだ」
「……どういうことですか」
「さっきのレース。君はスタートに失敗した」
「……その、とおりです」
「あそこから勝つためには、バ群を抜け出す圧倒的なパワーか、切れ味鋭い末脚が必要だ」
「そうですね……だけど」
「そのどちらも、君には備わってない」
 俺の言葉に、今度はサニーブライアンが下を向いてしまう。金の瞳が髪で隠れる。
「……そのとおりです。わたし、スタートが下手くそで、レースではどうしてもあんな位置取りになっちゃうんです。だからいつも、いつも勝てないんです……どうしても……勝てない……勝ちたいのに……」
 サニーブライアンの声が小さくなっていく。違う違う違う、違うんだ。
「勝てる!」
「ひゃあ!?」
 俺の出した大声に、彼女の体がビクリと震えた。ああまったく、何をやっているんだ俺は。
「勝つために、逃げるんだ」
「わわわ……え?」
「多少スタートに失敗しても構わないから、全速力でハナ(先頭)を奪うんだ」
「全速力で……ハナを……」
「そうだ」
 彼女が俺の目を見つめてくる。俺も彼女の目を見つめ返す。
「逃げの戦法なんて、今まで一度も試したことありません。本当に、本当にそれで、私は勝てるんですか」
「勝てる」
「どうして、そう言い切れるんですか」
「さっきのレース、君の走りを見てわかった」
「……なにがですか!?」
 くそ、本当にもどかしい。俺は自分のとぼしい会話能力を、限界まで振り絞ろうとする。
「確かに、君にはパワーも、切れる脚もない」
「……」
「だが、いい脚を長く使えるスタミナと根性がある」
 その言葉を聞いたとたん、彼女の目がパッと輝いた……ように見えた。
「本当……ですか?」
「本当だ。俺にはわかる。だから逃げるんだ」
 彼女に必死に訴える俺の頭の中で、もうひとりの俺がからかうような声をかけてくる。おいおい、さっきから偉そうにアドバイスなんぞしちゃあいるが、お前さん自分がどういうやつか忘れちまったのか? ついさっき、師匠になんて答えたんだったっけ? そんなやつが、トレーナー面してアドバイスとはねえ。
「逃げれば、わたしは勝てるんですか」
 俺は頭の中の声を振り払うと、力を込めてうなずいた。
「勝てる。信じてくれ」
 彼女は、俺から目をそらさない。まるでその金の瞳で、俺の心の中を透かしてみているようだった。
「……わかりました」
「え」
「あなたを信じます。次のレースでは、スタートから先頭に立ってみせます」
「そうか……」
 全身の力が抜けるのを感じた。半年分は一気に喋ってしまった気がする。俺はそこで初めて、彼女の肩を掴んだままだったことに気づいた。慌てて手を話す。
「アドバイスありがとうございました。ええと……それはそうと、どちらさまでしたでしょうか?」
「あ!」
 俺はポケットからヨレヨレの名刺を取り出し、彼女に差し出した。
「トレーナーさん……だったんですね」
「一応ね」
「そうか……トレーナーさんか……」
 まずい。胸の中に、危険信号が灯る。
「あの、もしよければ私とトレーナー契約を」
「すまない。それはできない」
 彼女のお願いをさえぎるように、俺は答えた。
「え……」
「本当にすまない。だがそれは、それだけはできないんだ」
「あの、どうして。どうしてですか」
 そうだ。どうして俺は断ったんだ。せっかく向こうからトレーナー契約を結びたいと言ってくれているのに。こんな機会、二度とないかもしれないjじゃないか。

 ――また、泣かせてしまうかもしれないな。
 もう一人の俺が、そう囁いてきた。

「俺は、トレーナー失格の男なんだ」
「トレーナー……失格……」
「そうだ。俺は、本当は君にアドバイスなんてするべきじゃなかった」
「そんな」
 俺は再び下を向いた。
「そうだ。俺は失格だ。失格なんだ」
 自分の担当を勝たせられないやつが、トレーナーなんて名乗ってはいけない。自分で言いながら情けなくなってくる。担当を勝たせられない、トレーナー失格の男。最低だ。ああ、俺はやはり、ここへ来るべきではなかったのかもしれない。
「……そんなことは、ないです」
「……え?」
 その言葉に、俺は顔を上げて、サニーブライアンの顔を見た。前髪の隙間から覗く金の瞳が、まっすぐ俺を見つめていた。俺は突然気づく。さっきから彼女は、一時も目をそらしはしなかったのだということに。
「そんなことはありません。くわしい事情は知りませんが、あなたは立派なトレーナーさんだと思います」
「どうして」
「理由ですか? 実はよくわかりません」
 にっこり笑いながら、彼女はそう言った。あぶなくギャグ漫画のようにずっこけるところだった。
「わかりませんが、これだけはわかります。私は次のレースで逃げて先頭に立ち、そして必ず勝ちます」
「それは」
「そうです。あなたのアドバイスのおかげで、私は初勝利を上げるのです」
 彼女の瞳が輝きを増していく。ちょうどそのとき、空を覆っていた雲が晴れ、陽の光が指してきたからだ……いや、本当に、本当にそれだけか?
「……なんで、そう言い切れるんだ」
「わたしが、あなたを信じたからです。必ず勝つと言ってくれた、あなたの言葉を」
 ――人生には、一生忘れられない瞬間というものが何度かあるものだ。その何度めかの瞬間が、まさにこのときだった。
「お願いします。私のトレーナーになってください。そして私を、あなたが必ず勝つと言ってくれたわたしを信じて、わたしを……勝たせてください」
 俺はそのとき、俺が他ならぬトレーナーであるということを改めて実感していた。そしてトレーナーであるならば、自分を信じると言ってくれる子になんと答えるべきか、そんなものは決まっているのだ。
「わかった。君と契約しよう。よろしく頼む……サニーブライアン」
「はい!」

 ◇

「よし……!」
 秋風の吹く東京レース場の片隅で、俺は人知れずガッツポーズをしていた。サニーブライアンがスタート直後に猛ダッシュ、果敢に先頭に立ってみせたからだ。
 長い髪をまとめたポニーテールを後方になびかせながら、サニ―ブライアンは走る走る走る。後続のウマ娘たちをぐんぐん引き離していく。
「さあ、ここからだぞ」
 俺は唇をなめた。

『逃げウマ娘には3パターンある』
『勝つために逃げる子と、勝ち負けに関係なく逃げる子だ』
『3番目? あまりにも速すぎて、逃げになってしまう子だ。要するに天才、または怪物だ』
『君は1番目だ。勝つために逃げるんだ』

 レースは中盤戦。先頭のままレースを進めるサニーブライアン。だが気持ちよく逃げる彼女のスピードが、徐々に落ち始めてくる。
無論、失速などではない。完璧に作戦どおりだ。

『まずは、何が何でも先頭に立つ』
『その後で、少しずつペースを落とせ』
『後ろの連中は、君がバテ始めていると思うだろう』
『だが実は、君は最後に備えてスタミナを温存しているというわけだ』
『そのとおり。君自身がペースを握り、レースを支配するんだ』

 最終コーナー。サニーブライアンは依然先頭のまま、最後の直線に入ろうとしている。

『最後の直線に入ったら、あとは全てを出し切れ。後ろを気にするな。そうすれば』

《残り200を切った! 先頭は依然サニーブライアン! サニーブライアンが粘る! 後ろの子たちは間に合うか!》

『――君は勝てる』

《サニーブライアン、今一着でゴール! スタートから先頭を譲らず、見事に逃げ切ってみせました! サニーブライアン、メイクデビュー(デビュー戦)、見事な勝利です!》

 レースを終え、戻ってきたサニーブライアンを出迎える。彼女は俺を見つけると、小走りで駆け寄ってきた。慌てるなと手で制す。
「わたし……わたし、勝ちました……」
「ああ」
「トレーナーさんの言うとおり、逃げて勝ちました!」
「お見事だった」
 彼女はポニーテールを解いていた。前髪がいつものように顔を覆い、印象的な目を隠してしまっている。やはり地味の一言だ。だが、そんな彼女は今日、見事にデビュー戦を勝利で飾ってみせたのだ。
 言わずもがな、勝負の世界は厳しいものだ。毎年、あまたのウマ娘たちがデビューし、夢に向かって走り出し……その多くが夢破れ、志半ばにして去っていく。それが彼女たちの、レースに臨むウマ娘たちの宿命だ。
 そんな世界の第一歩、夢の入り口の扉を、彼女は自らの手で開いてみせたわけだ。誇っていいことだと思う。
「本当に……本当に嬉しいです。トレーナーさんを信じてよかった」
「そうか」
「トレーナーさんにもほんの少しだけ、恩返しができました」
「それはいい。自分のことだけ考えろ」
「そうだ。トレーナーさん」
「どうした」
 サニーブライアンはしっぽをブンブン振りながら、俺に問いかけてきた。
「わたし、これからも勝ち続けたいです。そのためには、何かひとつ、目標となるレースがあったほうがいいと思うんです……トレーナーさん、私の目標、一体何がいいと思いますか?」
 目標。目標か。そういえば考えていなかった。なにせ、まず今日のレースを勝たせることで頭が一杯だったのだから。
「そうだな……」
 ハードルは高いほうがいい。だが高すぎても良くない。彼女に、サニーブライアンにふさわしい目標は……。

――そして2着には■■■■■■! 

 なぜだろう。俺の頭の中で、10年前のあるレースの映像が再生されはじめた。俺にとっては、決して忘れることのできない思い出のレースだ。そのとき感じた達成感と悔しさは、もしかしたら俺をこの道にしがみつかせた原因の一つだったのかもしれない、そういう一戦だ。

「日本……ダービー……」
「え?」
「ん?」
「トレーナーさん、いま、いま……『日本ダービー』って、言いましたか……?」
「あ、いや、その」
 つい口に出してしまっていたことに気づき、俺はひどく狼狽する。
「そうですか……目標は日本ダービー……ですか……」
 サニーブライアンは何やらブツブツとつぶやいている。まずい。いくらなんでもダービーはない。勘違いさせる前に否定しなければ。
「いや、ちが」
「……それはつまり、わたしならダービーに勝てる……と、トレーナーさんはそう信じてくれている、ということでしょうか?」

 そう来たか。

 サニーブライアンは、あの太陽の瞳で俺の顔をじっと見つめてくる。ああ、まずい、まずいぞ。
「君は、ダービーというレースがどういうものか知っているのか」
「もちろんです」
「なら、簡単に『勝てる』なんて言えないのはわかるはずだ」
 GⅠレース、東京優駿。またの名を日本ダービー。
 皐月賞、日本ダービー、菊花賞……いわゆる「クラシック三冠レース」の中でも、最も格式高い一戦であり、同世代に数千名いるウマ娘、その頂点を決める生涯一度の一大決戦である。まず、その舞台に立つだけでも至難の業。まして勝利するなど。
 目標はもっと現実的なものであるべきだ。なんとかして誤解を解かなければ。しかしどうすれば。そもそも、俺はよりによって、なぜダービーなどと口にしてしまったのか。

 まさか。
 俺は唐突に気づいた。気づいてしまった。
 俺は思ってしまっていたのだ。彼女なら、サニーブライアンならば、ウマ娘の頂点に――日本ダービーにたどり着くことができるかもしれない。そして10年前の無念と後悔を、この子なら晴らしてくれるかもしれないとも。 

 そうであるならば、今ここで俺が言うべき言葉は決まっている。

「だから簡単にではなく、本心から言う。君ならば勝てる、俺はそう信じている。日本ダービー……勝ちに行くぞ」
「はい……はい! 絶対勝ちます!」
「気合だけでは勝てない。明日からのトレーニング、厳しくいくからな」
「望むところです!」
 金の瞳が燃えあがるように輝く。それを見て俺は確信する。この子は勝つ。勝って勝って勝ちまくって、ウマ娘たちの頂点まで駆け上がる。
 やるぞ。サニーブライアンのためなら、なんだってやってやる。
「……それでですね。実はもうひとつ、トレーナーさんにお願いがあるんですが……」
 早速か。
「なんだ。俺にできることなら、なんだってやってやるぞ」
「本当ですか」
「二言はない」
「じゃあ、これからわたしのこと、『サニー』って呼んでください!」
 ……なんだって?

「……なぜだ」
 寒風吹きすさぶ中山レース場の片隅で、俺は人知れず頭を抱えていた。
 メイクデビューを見事な勝利で飾ったサニーブライアン、いやサニーではあったが、その後のレースではどうにも勝ちきれず2連敗。
《ファーストグローブ、今一着でゴールイン! 2着はフラッシーダッシュ!》
 そしてたった今、俺の目の前で3敗目が確定した。これで今年の出走予定は終了。4戦1勝の戦績で年を越すことになってしまった。
 もちろん、1勝もできずに引退してしまうウマ娘も少なくないトゥインクル・シリーズで、デビュー戦だけでも勝利を得たということ自体は決して悪いことではない。
 だがいかんせん、俺たちはウマ娘たちの頂点、日本ダービーでの勝利を目標としている身なのだ。こんなところで足踏みしている訳にはいかないというのに。

「ううう。また負けてしまいました……」
 サニーが重い足取りで戻ってきた。慰めなければ、とは思うものの、例のごとく何を言っていいかわからない俺は黙り込んでしまう。
「トレーナーさん、わたし、どうすればいいんでしょう」
 小さい声で問いかけてくるサニーは、なんだか真夏の陽炎のように頼りなかった。
「……トレーニングだ。それしかない。勝つまでやるんだ」
「……そうですね。わかりました。がんばってみます」
 肩を落とすサニー。ろくな言葉を思いつけず、根性論に逃げてしまった俺も、合わせて肩を落とす。
 いったい、どうすればいいんだ。

「明日の大晦日、いっしょに初日の出を見ませんか!」
「……なに?」
 打開策を何も思いつかないまま今年のトレーニング予定を終え、最悪の年越しを迎えようとしていたとき、サニーがいきなりそんな提案をしてきた。
「唐突だな」
「す、すみません」
「しかし、なんでいきなり初日の出なんだ」
「ええと……その、気分転換といいますか……このままだと、なんというか、心が重いまま新年を迎えてしまいそうで、そういうの、なんだかイヤだなって……」
 ごにょごにょと話すサニーの言葉を聞きながら、俺はまた自分を責めていた。サニーはサニーなりに悩み抜いた上での答えが「初日の出を見て気持ちを切り替える」ことなのだろう。
 本来ならば、そういう提案は俺のほうからするべきだったのに。自分の不甲斐なさに打ちのめされてしまう。
 だが俺は、無理やり気持ちを切り替えた。俺が今すべきことは自己嫌悪に陥ることではない。そんなことをしてもサニーは勝てない。彼女のために何でもすると誓ったが、その中に自分を責めることは入っていない。
「……名案だ。喜んでつきあうよ」
「やった! ありがとうございます!」
「しかし、初日の出といってもどこで見るつもりなんだ。まさか、今から山登りってわけでもないんだろう?」
 俺が問いかけると、サニーは得意げな笑みを口元に浮かべ、ある場所を指さした。
「……なるほど、校舎の屋上か」
 文武両道を掲げるトレセン学園には、座学のための校舎が存在している。数百人のウマ娘の受け入れが可能であるそれは、大きさ、高さともに、人の学校と同等以上の規模であった。確かに、その屋上ならば初日の出を迎えるには申し分ないだろう。
「立ち入る許可を取ってくるよ。当日は夜明け前に、早朝トレーニングの名目で外出許可を取るといい」
「わかりました!」
「今日のトレーニングはこれで終了だ。クールダウンを忘れずにな」
「はい! ありがとうございます!」
 軽い足取りで離れていくサニー。そんなに嬉しいのだろうか。

「ひゃー!? さ……寒い!」
「冬だからな」
 屋上に通じるドアを開けたとたんに叩きつけられる寒風に、サニーが悲鳴を上げていた。高所を吹く風は、地上のそれとはまた一味違う。
「うう、寒いのは、苦手、です」
「大丈夫か……ほら、飲むといい。熱いから気をつけろ」
 水筒に準備していたコーヒーをサニーに手渡す。サニーはすぐに口を付け……今まで見せたことのないような表情になった。
「ニ……ニガイノモ……ニガテデス……」
 しまった。ミルクも砂糖も自分で飲むときは使わないものだから、準備するのを完全に忘れていた。
「だ、大丈夫か……?」
「ダイジョブ……ダイジョブデスヨ……ヘーキヘーキ」
 なんだその話し方は。
「すまん……今度から気を付けるよ」
 なぜか学園の備品としてあったアウトドア用のヒーターのスイッチを入れ、その周りにこれまたアウトドアスタイルの椅子を備え付ける。ヒーターの温かさのおかげで、サニーの顔にも元気が戻ってきたように見えた。ちびちびとコーヒーを飲んでは「ニガ」と口に出すのを繰り返している。
 空の底が少しずつ赤み始めてきていた。夜明けまであと1時間ほどか。
 それにしても、初日の出、か。拝むのはいつ以来だろうか。子供のころ、親父に無理やり登らされた山の上から見たっきりか。登ってる最中はずいぶん親父を恨んだものだ。それも、昇る太陽を見たときに全部吹っ飛んでしまったが。
「……トレーナーさん、ありがとうございます」
「どうした急に」
 サニーがいきなり語りかけてきた。普段は見せない神妙な顔つきに、俺は少しだけ慌ててしまう。
「実はトレーナーさんにお願いするの、結構悩んだんです。何を言ってるんだ、そんなことしている暇があったらトレーニングしろ、ってバカにされるかもなんて思ってました」
「バカになんてしない」
「……そう、ですよね。トレーナーさんはそんなことを言う人じゃないと思います」
 そこまで話すと、サニーは急に黙り込んだ。静かなのは好きだが、過ぎると居心地を悪くする。かと言って、俺には場の空気を和らげるような、気の利いたことを言ってあげられる会話スキルは備わっていない。
 くそ、そんなこと言ってる場合か。俺は持てる会話力の全てを振り絞る。
「朝日、好きなのか。サニーだけに」
 ……出てきたのがこの言葉だったので、俺は腹でも切ろうかと思った。
「そうなんです!」
 だが、予想外にサニーが食いついてきた。
「わたし、小さい頃にお父さんに無理やり山へ連れて行かれたことがあるんですよ」
 なんだか、どこかで聞いた話だ。
「そのとき見た朝日が、本当にきれいで……すごく感動していたわたしに、お父さんが言ってくれたんです。サニー、お前もあの太陽みたいに、みんなを暖かく照らすような子になれるといいね、って」
 そう言うと、サニーは下を向いてしまう。垂れた前髪に瞳が隠される。
「そのときから、わたしの夢は『太陽みたいなウマ娘』になりました。でもどうすればなれるのか、さっぱりわからなかったんです。そんなとき、テレビでトゥィンクル・シリーズを……日本ダービーを見たんです」
 サニーはそこで話を一旦切ると、コーヒーに口をつけた。
「すごいレースでした。6バ身離して勝った1着の子も強かったし、2着の子も……確か、20番人気くらいで全然注目されていなかったのに、ものすごい粘りで……なんて名前の子だったかな……」
 待て。
 ちょっと待ってくれ。今、なんて言った?
「わたしはとても感動して……そのとき思ったんです。わたしもレースに出て、そして勝ちたい。勝って、みんなに感動を与えられるようなウマ娘になりたいって……それがわたしの目指す『太陽』だって思ったんです……トレーナーさん、どうしました?」
 目を閉じてうつむく俺を見て、サニーが心配そうに尋ねてくる。俺は深く息を吐くと、唇をなめた。
「サニー」
「はい?」
「そのダービー、見たのは十年前か」
「え? ええと……そうだと、思います」
 そうか。そうなのか。
「サニー。そのときの2着の子な……『ルナスワロー』って名前じゃなかったか?」
「あ! そうです、たしかそんな名前でした……あの、トレーナーさん、どうしてわかったんですか?」
 俺は天を仰ぐ。俺の耳に、懐かしい実況の声が聞こえてきた。

 ――そして2着にはルナスワロー!

「その子な、俺の担当ウマ娘だったんだ」
「え、本当ですか!」
「ああ、あのダービーは忘れられないレースだ。ルナスワローは本当に最高の走りをしてくれた」
 ルナスワローの顔を思い浮かべる。そういえば少しだけ、サニーに似ていたかもしれない。
「だけど届かなかった。彼女もそこで燃え尽きてしまったのか、結局そのあと一度も勝てなかった……」
 俺はもう一度うつむき、深く息を吐きだす。
「それから十年、俺は一度も担当の子をダービーに、いや、ダービーどころかGⅠに送り込むことさえできないままだ」
 握りしめたこぶしに、力が入っていくのがわかった。
「俺は……」

「じゃあ、十年越しのリベンジですね!」
 俺が顔を上げると、腕組みをしたサニーがふんぞり返るように立ち上がっていた。あまり迫力はなかったが。
「サニー」
「トレーナーさん! わたし、たった今決めました!」
「な、なにを」
「わたし、三冠ウマ娘になります!」

 ……は?

 脳がフリーズした俺に、サニーは勢いよく語りかけてくる。
「まずは皐月賞! そしてもちろんダービー! それから最後に菊花賞! 全部勝ちます! 勝って、十年分のトレーナーさんの思い、全て晴らして見せます! 決めました、わたし!」
「な、なんで」
「トレーナーさんが、わたしの道を照らしてくれたからです」
 風が吹く。サニーの前髪が揺れ、輝く金の瞳が表れた。そんな彼女の背後から、紅く燃える太陽が昇ろうとしていた。
「そのおかげでわたしは、今こうしてトゥインクル・シリーズで走れています。あのときトレーナーさんがわたしに声をかけてくれなければ、わたしは今頃、デビューさえしていなかったかもしれません。勝ちを夢見ることすらできなかったかもしれないんです」
 日が昇る。サニーの輪郭が紅く染まっていく。
「だからわたしは勝ちます……ダービー、必ず勝ってみせます。でもそれじゃあ足りません。わたしがトレーナーさんにもらったものには、全然足らないんです。だから」
 日が昇る。雄大な太陽を背に受けて立つサニー。サニーブライアン。
「わたしは、三冠ウマ娘になります」

 俺はまたまた息を深く吐いた。どうやら呼吸を忘れていたらしい。
「……なろうと思って、なれるもんじゃない」
「もちろんです! だからがんばります、限界まで、目一杯、力の限りがんばります! トレーナーさん、今年もご指導よろしくおねがいします!」
 逆光で陰となったサニーのシルエット。だが目が、金の瞳だけが、爛々と輝きを増していく。ああ、この子は本気だ。本気で三冠ウマ娘になるつもりなのだ。
 俺は立ち上がりながら、俺の中でこだまする声をひとつずつ消していく。「がんばったから勝てるってもんじゃない」「無理に決まっている」「あきらめろ」「笑わせるな」「お前にはできない」……全て消したところに残っていた言葉を、サニーに向けて投げかける。
「わかった。まずは皐月賞を目指すぞ。すこし無理をするが……ついてこれるな?」
「……望むところです!」
 夜の底に沈んでいた太陽が、遙か高みへと昇ろうとしていた。やるぞ、俺は彼女を、サニーを、あの高みまで押し上げてみせる。
 そのためなら、なんだってやってやる。俺は昇る太陽に向けて、改めてそう誓った。

 その日からのトレーニングは過酷を極めた。科学的に、効率的に、限界までサニーを追い込んでいく。並のウマ娘ならば確実に音を上げるであろうそれらを、サニーは文句の一つも言わずにこなしていく。この辺りのタフさも彼女の長所の一つなのだろう。俺は自分の心に浮かんでくる不安や恐れを一つずつ潰しながら、サニーを鍛え上げていった。
 もちろん、トゥインクル・シリーズは厳しいトレーニングを積んだから勝てる、というほど甘いものではない。
 年明け初戦、若竹賞は2着に敗退。次のジュニアカップでは見事勝利を飾るも、3戦目の弥生賞では3着に敗れてしまった。だが。
「トレーナーさん! 3着に入れました!」
「ああ。ぎりぎり間に合ったな」
 俺とサニーはハイタッチを交わす。GⅡレース弥生賞は、その副称を「皐月賞トライアル」という。このレースで3着までに入ったウマ娘は、皐月賞への優先出走権を得られるのだ。つまり、第一関門は突破できたということだ。あくまで第一関門だけではあるが、喜ばしいことには違いない。
「皐月賞に向けて、早速トレーニングだな。気持ちを切り替えていくぞ」
「はい、頑張ります! なんでも言ってください!」
 頼もしい返事だ。過酷なトレーニングをこなすことで、彼女にも手応えが生まれてきているのだろう。実際、負けたとは言えレース内容自体は決して悪いものではなかった。彼女は、確実に強くなっている。

「すまない。君も皐月賞に出走する予定なのだろうか」
「なんかヒンソーなヤツだなオイ」
「よせ、失礼だぞ」
 そんな俺たちに話しかけてくる声があった。声のほうを向くと、そこには二人のウマ娘がいた。長い髪に理知的な顔の子と、髪を逆立てたワイルドな雰囲気の子。まるっきり正反対の印象を与えてくる子たちだった。
「はい……あの、『君も』ということは、あなたがたもなんですか?」
「ああ、そうだ……自己紹介をさせてもらおう。私はグロスライトニング。こちらは従姉妹のグロスジャスティスだ。それと」
 突然、二人の後ろから小柄なウマ娘がピョコンと顔を出す。驚いた。小さすぎて、いるのに気が付かなかった。
「この子はソーヤジェントル。同じチームに所属している子だ」
「よ、よろし」
「あ、わたしサニーブライアンです! こっちはトレーナーさんです!」
「ひゃあっ!?」
 勢いよく頭を下げたサニー。それを見て、ソーヤジェントルと呼ばれた子が大袈裟なほど驚いた。
「テメエ! いきなり動くんじゃねえ! ソーヤがビックリしちまうだろうが!」
「ひ、ひい〜!?」
 グロスジャスティスの大声に、ソーヤジェントルは可哀想なほどおびえはじめた。どうやら、ずいぶんと気弱なウマ娘らしい。
「わ! 大丈夫ですか!?」
「叫ぶんじゃねえ! オイ大丈夫か?! 平気かソーヤ!?」
「あわ、あわわわわ……」
 ……なんだこれは。
「やめろジャスティス……すまない、騒がしくしてしまって」
「いや、わたしこそなんだかごめんなさい……」
 縮こまるサニーを見たグロスライトニングは少し微笑むと、サニーに向けて手を差し出した。
「良ければ握手をしてくれないか? お互いの健闘を祈ってということで」
「あ、はい! 喜んで」
 手を自分のユニフォームで拭いて、サニーはおずおずと握手をした。
 ん?
 握手したほんの一瞬だけ、二人の表情が変わった気がする。だがそれは本当に一瞬の出来事だったので、確かめることはできなかった。
「……なるほどね。ではご機嫌ようサニーブライアン。皐月賞、楽しみにしているよ」
「チッ。ソーヤをムダにビビらせやがって……お前のツラ、覚えておくから覚悟してやがれ。次のレースで叩き潰してやるからよ! ほらソーヤ、お前もいつまでも泣いてんじゃないっての」
「ううう……堪忍なジャスティスちゃん……せやけどジャスティスちゃん。次のレース言うてたけど、ジャスティスちゃん皐月賞には出走できないんやなかったっけ」
「う、うるせー! じゃあダービーだ! そこでぶっ潰す!」
「ひゃあ!?」
 騒がしい連中だ。おれは苦笑しながらサニーのほうを向き、そこで初めて彼女が神妙な表情を浮かべているのに気付く。彼女は、先程グロスライトニングと握手をした手をじっと眺めていた。
「どうした?」
「……なんだか、宣戦布告されてしまったみたいです」
「なんだと」
「さっきの握手なんですけどね。ほんの一瞬、ものすごい力で握られました。ちょっぴり痛かったです」
 サニーはそう言いながら、手をひらひらと振ってみせる。
「だ、大丈夫か!?」
「ええ、平気です」
 焦る俺とは対照的に、サニーはなんだかひどく落ち着いて見えた。いや、むしろ……。
「皐月賞、楽しみです」

「……」
「どうしたんだよライトニング。さっきから黙っちまって」
「いやな。さきほど握手したときに、ちょっといつものやつをしかけてみたんだ」
「げ。マジか。お前のあれ、メチャメチャヤベーんだよな。下手すると骨までイッちまう……ん? おい、ちょっとまてよ」
「気づいたかジャスティス。それなのに彼女はまったく平然としていただろう? なぜかというとだな」
「おい、お前それ……!」
「そうだ。まったく同じことをやり返されたんだ。一瞬でな。おかげで、手がまだ少々しびれているよ」
「あの野郎……」
「ふふ。皐月賞が楽しみだ」

 4月13日。皐月賞、当日。スタート15分前。俺は緊張のあまり震える手でタブレットをいじっていた。
「18人中11番人気、か」
 サニーはまったくと良いほど注目されていなかった。まあ当然だろう。これまで、さして目立った実績を上げてきたわけでもない。しかも逃げウマ娘には圧倒的に不利な8枠18番、大外(一番外側)からのスタートだ。

GⅠ 皐月賞 芝2000m 晴れ 良

1枠1番 ナイトユーハンドル(13番人気)
1枠2番 グロスライトニング(10番人気)
2枠3番 マウントアカフジ(12番人気)
2枠4番 エノシマカウント(15番人気)
3枠5番 サツマサバス(4番人気)
3枠6番 ソーヤジェントル(8番人気)
4枠7番 テイエムクインビー(18番人気)
4枠8番 メジロプライド(1番人気)
5枠9番 アオノリューオー(9番人気)
5枠10番 フリーストローム(2番人気)
6枠11番 ギガントホリデー(7番人気)
6枠12番 キタサンタカハタ(17番人気)
7枠13番 スピードロード(14番人気)
7枠14番 エアロベルセルク(5番人気)
7枠15番 トカチブライオン(3番人気)
8枠16番 シャドーイオン(16番人気)
8枠17番 テイエムダンシング(6番人気)
8枠18番 サニーブライアン(11番人気)

 コースのほうで歓声が上がる。どうやら、このレースの主役が姿を現したようだ。
 きらびやかな勝負服に身を包み、そのウマ娘は優雅そのものの足取りで歩んでいた。全身にまとう強者の風格は、6戦3勝、2着2回の圧倒的実績からくるものだろうか。それとも名門の名を背負うものとしての矜持か。
 1番人気、メジロプライド。
 メジロプライドは1人のウマ娘に近づき、その子と一言二言交わしていた。相手はフリーストロームか。弥生賞でサニーに完勝した、2番人気の子だ。二人は軽くあいさつを交わして離れる。実力者同士の交流に、場内が軽く湧き上がる。
 サニーブライアンは我関せずといった風に、黙々とウォームアップを続けていた。よし、落ち着いているように見える……大丈夫だ。絶対に勝てる、君なら勝てるぞサニー。勝てるはず。勝てるよな。大丈夫、落ち着け、落ち着いて走れば……。
「おいおい、お前のほうが落ち着かなくてどうすんだ」
「うわっ!?」
 突然の師匠の声に、飛び上がるほど驚かされてしまった。
「師匠、いつの間に……?」
「お前なあ……ただでさえ緊張しちまうGⅠの大舞台だぞ。トレーナーの俺たちがドンと構えてやらねえでどうするんだ」
「す、すみません」
「ま、とはいえ……」
 師匠はサニーを眺めると、ニヤリと笑う。
「嬢ちゃん、悪くねえ感じじゃねえか」
「そうですか。師匠にそう言ってもらえるのは、正直心強いです」
 俺の師匠は、ごまかしを言う男ではない。いいならいい、悪いなら悪い、その辺をシビアに評価した上で、思ったままを口に出す。
「とはいえ、まともにやったんじゃあ厳しいかもな。なんせ相手は粒ぞろい、おまけに不利な大外枠ときたもんだ。どうだ、嬢ちゃんになんか秘策のひとつでも授けてやったのか」
「秘策、ですか……いえ、ありません」
「へえ」
「レース前にサニーに伝えたのは三つだけです。『スタートしたら全力でハナを奪え。中盤ではペースを落とし、スタミナを温存しろ。最後の直線では後ろを気にせず、全ての力を出し切れ』」
 俺がそう言うと、師匠は吹き出してしまった。
「いいアドバイスじゃねえか! まさに『教科書どおり』ってやつだな!」
「ええ」
「つまり、お前さんはこう言いたいわけだ――嬢ちゃんは正攻法、小細工無用の真っ向勝負で他の子たちを打ち負かす、と」
「そのとおりです」
「そいつは『王者の走り』だな。真の実力がないとできない芸当だが……嬢ちゃんにできるのかね?」
 俺は師匠から、目をそらさずに言い放つ。
「できます。信じてますから」
「ふん」
 師匠は俺から目を離し、再びスタート直前のサニーを眺めた。
「なるほど、お前さんは嬢ちゃんの力を信じる、と。たぶん嬢ちゃんもお前さんを信じているんだろうな……とくりゃあ、足りないのはあと一つだけだな」
 ……え? 『足りないのはあと一つ』? 
「師匠、それはどういう」
「ほれ、ファンファーレだぞ」
 中山レース場に響き渡る、GⅠのファンファーレ。いよいよだ。俺は慌ててレースに意識を向ける。だが心の奥には、師匠の言葉が引っかかったままだった。
 『一つ足りない』? いったい、なんのことなんだ? 

 抜けるような青空、春の日差しの下、わたしはここに立っている。足元の芝の感触を、軽く確かめてみた。いつもと同じようで、やっぱり違うようで……よくわからなかったので、とりあえず気にしないようにする。
 スタート時刻が近づいてくる。
 わたしはトレーナーさんから教わったことを、一つづつ丁寧に思い出していく。
 本当にたくさんのことを教えてもらった。もがき苦しんでいたわたしを、見事に救ってくれた。そのおかげで、わたしは今こうやって夢の舞台に立てている。いくら感謝してもしきれないほどの恩をもらったと思う。本当に、なんてすごい人なんだろう。
 だけどそのトレーナーさんは、ずっとずっと苦しんでいるみたいだ。
 思えば出会ったときから、トレーナーさんの目にはなにか暗いものが浮かんでいた気がする。心の奥深くにこびりついた、シミのようななにか。
 だからわたしは、トレーナーさんの心を晴らしてあげたい、と思う。それはたくさんもらった恩を返すことにもなるし、わたしの夢――「みんなを照らす、太陽みたいなウマ娘」に近づくことにもつながるはずだ。
 だけど、それは言葉を重ねるだけではかなわないだろう。トレーナーさんが悔やんでいるのは、これまで担当してきた子たちを勝たせられなかったこと。だとしたら、晴らす方法はたった一つのシンプルな答え。
 ファンファーレが鳴り響く。すぐにゲート入り、出走の時間だ。
 そう。答えはたった一つ。それを今から勝ち取ってみせる。見ててくださいトレーナーさん。わたしは、やってやりますから!

《さあ、ゲートが開いて、スタートが切られました!》

 18人のウマ娘たちが、一斉に飛び出す。皐月賞が始まった。始まってしまった。
 サニーのスタート。わずかに体勢を崩したか。俺は息を呑む。だがサニーはすぐに立て直す。そのまま全速力。ハナを奪いにかかる。一番外から一番内へ。切れ込むように駆ける。

《さあ、先行争いは何が行くか! 外からやっぱりサニーブライアンが行った! サニーブライアン逃げ宣言、敢然と先頭に立ちました!》

 思い切った走りに、場内の観衆から歓声が上がる。

《その後ろにテイエムクインビー。外目をついて13番スピードロード! 1番人気メジロプライドは最後方! 最後方からレースを進めています!》

 そうだ、いいぞサニー。完璧だ――ちょっと待て。あれは。まずい!

 トレーナーさんの教えのとおり、私はハナを目指して駆ける駆ける駆ける。17人のライバルを全てかわし、先頭に躍り出る。よし、上手くいった。さあ次は――。
 そう考えた私の横を、疾風のように交わしていく一人のウマ娘。
 ――え?
 一瞬見えたその子は、確かテイエムクインビーって子だ。
 どうして。彼女は別に逃げウマ娘というわけじゃなかったはず。どうしよう。あっという間にハナを奪われてしまった。どうしよう。どうしよう。
 トレーナーさん、わたしどうしたらいいんですか! トレーナーさん!

「ああ……GⅠの空気に当てられて、掛かっちまったかな」
 師匠がポツリと呟く。俺は何も言えず、ただ青い顔をして立ち尽くすだけだった。
「こういう展開のとき、どうすりゃいいかは教えてやったのか。おい、どうなんだ」
 俺は答えられない。
「おい、どうなんだ」
「……一応、伝えてはいます。でも」
「でも、なんだ?」
 言葉が口から出てこなくなる。
「おい」
「……彼女は、とても素直でいい子なんです」
「急になんだ」
「だから、俺の教えを忠実に守ろうとする。彼女には、とにかくハナを奪いに行けと繰り返し伝えました。トレーニングもその作戦を踏まえて組み立てました」
 レースはそろそろ中間地点、よどみなく進んでいる。
「だから、彼女の頭と体には先頭に立って逃げ粘る、そういう走りが刷り込まれているはずなんです」
 俺は下を向く。自分の声がだんだん小さくなっていくのがわかる。
「確かに、ハナを奪えなかった場合のことも教えてはいます。だが一応伝えたという程度でしかない……彼女は、決して器用なタイプじゃない。GⅠの大舞台で、身につけた走りを急に変えることなんて――」
「この、嘘つき野郎が!」
 師匠の突然の大声に、俺は顔を上げて師匠を見た。
「お前さん、レース前に偉そうに言ったじゃねえか。嬢ちゃんを信じてる、ってな。なのに何だお前の今のザマは。それのどこが信じてるツラなんだよ」
 師匠にそう指摘され、俺はこの場から逃げ出したくなるような衝動に駆られてしまう。
「……そう、ですね。師匠の言うとおりです。俺は」
「うるさい、黙って自分の担当の走りを見届けろ。最後まで全力で応援してやれ。それが本当のトレーナーってもんだ。だいたいだな……」
 師匠はそう言って、ニヤリと笑う。
「ほら、ちゃんと見てやれよ。嬢ちゃん、全然勝ちを諦めちゃいねえじゃねえか」
 俺は息を呑み、慌ててサニーに目をやった。俺達のいるスタンドからちょうど正反対の位置、向こう正面を駆けていくウマ娘たち。先頭は変わらずテイエムクインビー、そして2番手の位置につけるのは――。
「……サニー!」

《今1200mを通過、1分13秒の平均ペース!》

 レースは中盤戦。わたしは、トレーナーさんの言葉を思い出していた。

 ――勝つために逃げるんだ。

 そうだ。わたしが逃げるのは、レースを支配するため、勝つためだ。逃げること自体が目的じゃないんだ。
 よくみなさいサニー。わたしの前を走るあの子は、勝つために逃げているわけじゃない。ウマ娘の本能――『誰よりも速く、だれよりも前へ』――を抑えきれずに、つい「逃げてしまった」んだ。だからきっと、最後まで持たない。だったら今、あの子を無理に交わす必要なんてない。
 このレース、ペースを握っているのは、支配しているのはわたしだ。さあ、トレーナーさんに教わったとおりに走ろう。2番手でいい。この位置で走り、徐々にペースを抑えスタミナを温存する。
 ほら、先頭の子が下がってきた。限界が来たんだ。

《さあ、先頭はまたサニーブライアンに変わっている! その後ろに13番のスピードロード! さあ、外の方からは5番の、サツマサバスも上がってきた! そして、そしてメジロプライドも外目をついた! フリーストロームも来ている!》

 最終コーナーが迫ってくる。スタミナも十分。

《さあ、最終コーナーを曲がって、最後の直線に入る! 先頭はまだサニーブライアン!》

 ここから私がやるべきことは、たった一つ。わたしは一瞬だけ目をつぶる。暗闇の中に、トレーナーさんの顔が浮かぶ。その瞬間、わたしの中でスイッチが入る。
「後ろを気にせず――」
 目を開ける。直線の彼方、ゴール地点が見える。
 右足、思い切り踏み込んで。
「――全てを出し切れ!」
 駆ける!

《サニーブライアン先頭! まだ3バ身のリードがある!》

 大観衆の歓声に、中山レース場が揺れていた。サニーは先頭で最終直線に突入、スパートをかけた。それを追う他の子たちも、続々と直線に入ってくる。最後の勝負。ここまで脚をためていた後続の子たちが、その末脚を解き放っていく。大地が弾み、地鳴りのような足音が響く。サニーに続々と襲いかかる、恐るべきライバルたち。
 ――だがサニーには届かない。サニーはスピードを保ったまま、先頭で走り続ける。
 残り200m。
 サニーのスピードがわずかに衰え始めた。さすがに限界か。がんばれ、がんばれサニー! お前なら勝てる! 勝てるんだ!
 残り100m。
 サニーはまだ先頭――だが彼女に迫りくる影が。

《サニーブライアンまだ先頭! マウントアカフジも来た! 外からメジロプライドも迫ってくる! 間を割ってアオノリューオー! そして!》

「……グロスライトニング!」

 グロスライトニング、あのときの子だ。桁外れのスピード――まさに稲妻だ。集団の真ん中から、ものすごい脚で差を詰めてくる。リードがどんどんなくなっていく。そんな、嘘だろ。
「サニー!」
 俺は力の限り叫ぶ。今の俺にはそれしか、声援を送ることしかできない。してやれない。だったらやるしかない。目を背けるな。信じろ。サニーの力を信じ切れ。
 残り、50m。グロスライトニングが、サニーに並びかける。
「サニー! 勝て、サニー!」

 ゴール前の景色が、スローモーションと化した。
 あとほんの数歩で、ゴールを駆け抜けるはずなのに。
 その数歩が、時間にして数秒の距離が、まるで永遠のように感じられて。
 サニーが逃げる。
 グロスライトニングが迫る。
 まだか。まだなのか。
 中山の直線が、こんなに長いはずもないのに。

まだか。

はやく。

お願いだ。

――終わってくれ!



《――先頭はなんとサニーブライアン、逃げ切ったあ! そして2着にグロスライトニング!》

 ゴール板を駆け抜けた瞬間、全ての力を出し切ったわたしは危うく転びそうになってしまう。なんとか踏みとどまったわたしの横を、他のウマ娘たちが追い抜いていく。

 わたしは……勝てたのかな。ゴール前はただ、無我夢中で。トレーナーさんに言われたとおり、全部を出し切って。それで、結局――。
「おめでとう」
 不意に、だれかに声をかけられた。
「正直、勝てると思ったんだがな。私もまだまだ甘いということか」
「サニーはん、強かったわあ。完敗や」
「……ライトニングさん。ソーヤさん」
「ん? どうした。なんだその顔は」
「いや……その……」
 わたしは、おそるおそる疑問をぶつけてみた。
「わたし、勝ったんでしょうか」
 ライトニングさんたちは一瞬ポカンとすると、小さく笑い始めた。
「ふふふ……よりによって、そんなことを我々に尋ねるのか」
「ううう……スミマセン」
「実感がわかない、というところか。ならば、あれを見るがいい」
 ライトニングさんが指をさす。その先にあるのは、着順を示す電光掲示板。そこには、「1着 18番」の表示が灯っていた。18番……じゅう、はちばん!
「ご覧のとおり、君の勝ちだな」
「あ、ありがとう、ございます!」
 私は勢いよく両手を突き上げた。手の先には、空があった。その遙か高み、輝く太陽があった。
「改めておめでとう、サニーブライアン。だが、次はこうはいかない。これから一月半で、私もソーヤもさらに強くなってみせよう。それに」
 そう言うと、ライトニングさんは観客席に目を向けた。そこには、獣のような顔でわたしをにらみつけてくる、一人のウマ娘。
「ジャスティスさん……!」
「ダービー、楽しみにしているぞ」
「……はい!」

皐月賞(GⅠ) 結果
1着 サニーブライアン 2:02.0
2着 グロスライトニング クビ差
3着 マウントアカフジ 3/4バ身差
4着 メジロプライド クビ差 
5着 アオノリューオー 3/4バ身差

 サニーは勝った。11番人気の低評価を覆す、劇的な勝利だった。
「お見事、強い走りだったな」
 師匠がしみじみと語りだす。だがそのときの俺はといえば、師匠には悪いながら話の半分も頭に入ってきていなかった。
「予想外の事態にも、きちんと対応してみせるとは恐れ入った。器用じゃないが賢い子ってところか。1の言葉から10を引き出せるタイプなんだろうな。おまえさんが担当するのにふさわしい子じゃねえか」
 手が、足が震え始めた。
「ひとまずおめでとう、だ。これでお前さんも、栄えあるGⅠトレーナーの仲間入りだな」
 肩を叩かれた瞬間、全身から力が抜け、その場にへたり込んでしまう。
「なんだなんだおい。情けねえなあ」
 苦笑する師匠の手を借りて立ち上がる。なんだか、まるで現実感がない。体が空に浮かんでいるようだった。
「ま、わからんでもない。俺も初めてGⅠトレーナーなんて呼ばれたときは、舞い上がっちまうような気分になったからな……けどよ!」
 師匠は俺の背中を思い切り叩いた。おもわず飛び上がる。
「こんなところでふにゃふにゃしてる場合かよ。コレで終わりってわけじゃないんだろ。さっさと気持ちを切り替えろ」
 そうだ。師匠の言うとおりだ。この勝利は始まりでしかない。俺とサニーの目標は、あくまでも「三冠ウマ娘」なのだから。
「……サニーを出迎えてきます」
「おう、そうしてやれ」
 俺は走り出した。走っている途中で、急に何かがこみ上げてくる。俺は密かに、本当に密かに、小さなガッツポーズをした。


「やりました。わたしやりました、トレーナーさん!」
 俺の元に戻ってきたサニーは、そう言いながら瞳を輝かせた。金色の輝き、まさしく太陽の光だ。
「ああ、やったな。完璧な走りだった」
 俺は心から称賛する。彼女は本当に素晴らしいウマ娘だ。俺の言葉を聞いて、サニーは満面の笑みを浮かべた。いい表情だ。俺は彼女と出会えたことを何かに感謝したくなった。

「『みんなを照らすウマ娘』、その夢に一歩近づいたな」

 だが。
「……」
「……?」
 俺がそういった瞬間、サニーは急に真顔になり、俺の顔を、目をじっと見つめてきた。なんだ、急にどうしたんだ。困惑のせいで何も言えずにいると、サニーがぽつりとつぶやいた。
「そうでしょうか」
「……え?」
 本当にどうしたんだ。
「トレーナーさんにそう言ってもらえるの、本当にうれしいです。でも」
「でも?」
 サニーは俺をまっすぐに見つめていた。俺は少々の気恥ずかしさから目をそらそうと――。

 だめだ、それだけはダメだ。いま目をそらすことだけは、絶対にダメだ。
 俺はなぜだかそう思って、サニーの瞳を正面から見つめ返した。

「わたし、思うんです。今日わたしが勝てたのは、間違いなくトレーナーさんのおかげです。トレーナーさんがわたしの力を信じて、私が勝つためのやり方を授けてくれたからこそです」
「光栄だ。だが勝てたのは君の力だよ」
「ありがとうございます。トレーナーさんがそうやってわたしを信じてくれたから、わたしもトレーナーさんの言葉を信じてがんばることができました。今、わたしは間違いなく強いウマ娘になれたと思っています」
 サニーがつむいでいく言葉から、彼女の真剣さが伝わってくる。俺はそれを、正面から受け止めてやらなくてはならない……なぜだかそんな気持ちになっていた。
「トレーナーさん。一つ聞いてもいいですか」
「……なんだ」
「トレーナーさんは、今もわたしを信じてくれていますか」
「なぜ、そんなことを聞くんだ」
「答えてください」
 いつになく、強い口調で俺を問い詰めてくるサニー。不安なのだろうか。俺は彼女にそんな気持ちを抱かせてしまっていたことに、ひどく申し訳なさを感じていた。
「もちろん、信じている。君と出会ってから、君を信じなかったことなんて一度もないよ」
「……ありがとうございます。あの、もう一つだけ聞いていいですか」
「ああ、いいとも」

「トレーナーさんは、自分自身を信じていますか」

 俺は、絶句した。
 その問いには、答えられない、と思った。

「……わたしの夢は、『みんなを照らす、太陽みたいなウマ娘』です」
 サニーが俺の目を、まっすぐに見る。俺の心の奥底、そこに巣食うものまで見通すかのように。
「わたしの走りで、みんなを明るく照らしたい。見る人に夢と希望を与えられるような、そんな走りがしたい――わたしは、そう思ってがんばって、だからこうして、GⅠを勝てました」
 サニーが笑う。太陽などとは程遠い、さみし気な笑みで。
「でも、一番近くにいてくれる人の心を、照らすことができていません。皐月賞で勝てば、もしかしたら……なんて思ってましたけど、まだまだダメでした。だからわたしは――」
 サニーはそこで言葉を切った。
 静かな重い時間が流れた。そんなに長い時間ではなかったはずだが、俺は窒息しそうな気分になってしまっていた。
「ごめんなさい!」
 サニーが勢いよくアタマを下げた。
「せっかく勝てたのに、なんだか変な空気にしてしまいました。ええと、その、ダービーも、一生懸命がんばります! 絶対勝って、トレーナーさんに『あの子は俺が勝たせた』って言ってもらいたいですから! だから、これからもご指導、よろしくお願いします!」

 そう言って走り去っていくサニーの背中を見ながら、俺は、俺は。

 俺は泣いていた。なんの涙かはわからなかった。ただ、俺の中で荒れ狂う何かが、目を通してあふれ、こぼれ落ちている、そんな感覚だった。
 涙は次から次に、止まらない。そして俺は。

 そのとき俺は気づいた。師匠の言っていた『一つだけ足りないもの』の正体に。俺はサニーを信じている。サニーも俺を信じてくれている。そして今日の勝利で、サニーは自分の強さを確信できたのだろう。
 あと一つ足りないのは、俺が俺を信じることだ。
 自分の指導法が、やり方が間違っていないと、俺がお前を勝たせてやると、胸を張ってそう言える強さだ。
 俺が、何ごとにもぶれない強さを示さなければ、サニーは安心して一世一代の大勝負に望むことなどできない。だから、だから俺は。

 俺の中にある何かのスイッチが、バチンと音を立てて入ったような気がした。心の奥底で眠らせていた、何かのスイッチが。

「おう、戻ってきたか」
 師匠はそういうなり、俺の顔をまじまじと見つめてきた。
「……どうしました?」
「いや、あのな」
 師匠は頭をボリボリとかいた。
「何があったかしらねえが、お前さん、えらくいい顔になったじゃねえか。なんというか、あれだな」
 師匠が笑う。「にやり」という音が聞こえてきそうな笑い方だった。
「勝負師の顔、ってやつだよそりゃ」
「そうかも知れません。次のレースこそが正念場ですからね。だけど勝たせてみせますよ」
 俺も笑いながら答えた。たぶん、師匠と同じたぐいの笑い方だったんじゃないだろうか。
「あの子は、俺が勝たせます」

 翌日。学園内やネットは、サニーの話題でもちきりだった。それはそうだろう。事前の人気から見ても、ほとんどの人間がサニーが勝つなんて思っていなかったに違いないのだから。
 しばらくはサニーに好意的な論調が多かったと思う。風向きが変わり始めたのは、一週間ほどたってからのことだ。

「サニーブライアンが勝てたのは、有力メンバーが後方で牽制しあい、仕掛けるのが遅れたからだ」「展開が彼女に味方しただけのことに過ぎない」「2000mの皐月賞では逃げ切れたが、ダービーの直線は逃げ切れずに沈んでしまうだろう」

「皐月賞での勝ちは、フロック(まぐれ)にすぎない」

 フロック。いつしかサニーの勝利はそんな言葉で言い表されるようになった。彼女の勝利は実力などではない。ただのまぐれ、だそうだ。
 俺はデカデカとそうかいてある雑誌を、くずかごに放り込む。フロックねえ。いつからトゥインクル・シリーズは、運だけで勝てるようなぬるいレースに成り下がったのやら。
 俺はトレーナー室に備え付けられたテレビのスイッチを入れた。ちょうどダービーの特集番組が始まる時間だったからだ。
 番組は出走メンバーのインタビューから始まった。次々と紹介されていくライバルたち。グロスライトニング、グロスジャスティス、ソーヤジェントル、メジロプライド、フリーストローム……。
 サニーのインタビューも流れたが、ごくごく短時間。皐月賞ウマ娘とは思えないほどの扱いの軽さだった。やはりフロック扱いか。俺は鼻で笑い飛ばして、テレビの電源を切ろうと――。

 そのときテレビで流れたレース映像に、俺の全身は総毛立った。

 それは、あるウマ娘のデビュー戦だった。スタートから先頭に立ったそのウマ娘は、そこから一度も先頭をゆずること無く最終コーナーへ。直線に入った途端スパートを掛け、後続の子たちをぐんぐん引き離していく。余裕すら感じさせる走りでゴール。7バ身差の圧勝劇だ。

 そのウマ娘の名は、サイレンススズカ。

 遅れてきた大物と名高い彼女は、ダービートライアルであるプリンシパルステークスを勝利し、ダービーへの出走を決めていた。
 サニーと同じ逃げウマ娘。だがさっきの走りを見る限り、秘めた実力はサニー以上かもしれない。たぶん、彼女は『3番目』。天才、または怪物のウマ娘だ。
 もし、ダービーで二人一緒に逃げたとしたら……お互い先頭を譲らずに潰しあい、その結果、双方スタミナ切れで共倒れがいいところ。しかしサイレンススズカに先頭をゆずったとして、後ろを走るサニーが逃げる彼女をとらえられるかどうか……おそらくは難しい。
 勝つためには、サイレンススズカを好きに逃してはならない。しかしどうすれば。

 そうやって俺が頭を抱えていたとき、激しい音を立ててトレーナー室のドアが開かれた。驚く俺のほうへ駆け寄ってくる、一人のウマ娘。俺にちかづくと襟元を掴み、ぐっと持ち上げる。
「オイ! オメー、サニーブライアンのトレーナーだろ! ちょっと来い!」
「君は、確かグロスジャスティスだな? どうした一体」
「うるせー、いいから来い! サニーブライアンの野郎が大変なんだよ!」
 ……サニーが、なんだって!?

 俺が保健室に駆け込んだとき、サニーはひじに絆創膏をはられているところだった。妙にファンシーな模様の絆創膏だった。
「これで、よしっと。気をつけなさいよ」
「はい、すみませんでした……あ、トレーナーさん。それにジャスティスさんも」
 サニーは俺たちを見つけると、嬉しそうに耳を動かした。
「……あれ? どうしたんですふたりとも。そんなに怖い顔して」
 俺はジャスティスを見た。ジャスティスも俺を見る。しばらく見つめ合った後、二人同時に息を吐いた。
「えっと……本当にどうしたんですか」
「い、いやな。お前が他のウマ娘に暴力を振るわれたって聞いたから、慌てて飛んできたんだが……」
 サニーは少しだけキョトンとすると、やがてクスクス笑いはじめた。
「暴力だなんて、そんな大げさですよ。ちょっと突き飛ばされて転んじゃっただけです。ケガだってほら、ひじを少し擦りむいただけですし」
 俺はもう一度ジャスティスを見た。ジャスティスはきまり悪そうな表情で俺から目をそらす。
「慌てて確かめもせずに知らせに来たのは悪かったよ……いや、でも仕方ねえだろ! 実際、けっこうな騒ぎになってたんだからよ!」
「いや、大したことがないなら良かった。知らせてくれてありがとう」
「わたしのこと心配してくれたんですね、ありがとうございます!」
「は……ハー!? べ、別に心配なんかしてねえし! アタシはほら、そう、あれだ、オメ―に完璧な状態でダービーに出てもらわなきゃ困るわけよ! そうじゃなきゃ、アタシが勝ったときに、ケチがついちまうかもしれねえし!」
 すごいな。なにかのお手本のようだ。
「……チッ。あーあ、慌てて損したぜ。オイ! くれぐれもケガで出走取消なんて、ツマンネーことにならねーようにな!」
 言い捨てながら保健室を出ていくグロスジャスティスを見送ると、俺とサニーは顔を合わせて笑いあった。
 だが、笑いごとにできないこともある。
「サニー、暴力を振るわれたというのは本当なんだな」
「はい、でもさっきも言いましたけど、ちょっと突き飛ばされただけですから」 
「どうしてそんなことに」
「……バカに、されたからです。だからちょっとムキになってしまって。相手と言い争いになっちゃいました。で、そのときに」
 俺は息をつき、天を仰いだ。
「君の勝ちを、フロック呼ばわりされていることか? まったく、そんなこと気にしなくていい。周囲の評価なんて、レースの結果で覆してやればいい。何度でもな」
「違うんです。バカにされたのはトレーナーさんです」
「……なに?」
 サニーは下を向き、ヒザの上で手を握りしめる。
「その子は言いました。あなたのトレーナーは、今年ようやく2勝目をあげた弱小トレーナーにすぎない。そんな人のもとでダービーなんて勝てるわけがない……って」
 サニーが顔を上げる。金色の瞳いっぱいに涙をあふれさせて、俺の顔を正面から見つめてくる。
「わたしは自分を信じています。だから周りからいくらバカにされたって構いません。ダービーだって、絶対に勝ってみせます。だけどトレーナーさんをバカにされるのは我慢できない……わたしのトレーナーさんは……こんなに……こんなにすごい人なのに……」
 そのあとは言葉にならないようだった。サニーは何かをこらえるように、ぐっと歯を食いしばっていた。まるで幼い子どものような顔だった。
「そうか」
 俺はそっと彼女の頭に手をやった。髪に触れた途端、サニーの体がびくりと震える。
 おれはゆっくりと、サニーの頭をなでてやる。
「ありがとうなサニー。だけど心配はいらない。俺は全く気にしていない。その子の言ってることは間違いじゃない。たしかに俺は今年2勝しかさせていない、ただの弱小トレーナーだ」
「そんな!」
「だがそのうちの一つは皐月賞、三冠レースの一角だ。忘れたのかサニー。君があげた勝ち星だぞ」
「あ……」
 俺はサニーの頭から手を離すと、精一杯の笑顔をしてみせた。
「俺にとっては、それで十分だ。しかも次のダービーで、サニーは俺にダービートレーナーの称号を与えてくれるわけだしな。そのときにはもう、俺を弱小トレーナーなんて蔑むヤツはいなくなるだろう」
「トレーナーさんは」
 サニーが俺の目を見る。金の瞳の輝きが増していく。
「わたしがダービーで勝てると、本当に思ってくれていますか」
「当たり前だろう。俺が育てた君が、そこらのウマ娘に負けるなんて考えられない」
 俺が間髪入れずにそう答えると、サニーはひどく驚いた顔をした。そして改めて俺の目を覗き込んだ。まるでそこにある真実を探るように。
 だから俺は目をそらさない。そらす必要がない。俺は嘘をついていない。つくつもりもない。
「だからバカにして、笑いたいやつにはそうさせておけばいい。俺たちが目指すのはみんなの人気者じゃない、『勝者』だ」
 トゥインクル・シリーズは人気投票ではない。だからほしいのは1番人気ではない。
 そうだ。ほしいのは1番人気ではない。1着だ。ダービーでの勝利だ。
 俺はサニーにそう伝えると、椅子に座る彼女に向かって手を差し出した。
「さあ、泣いている場合じゃないぞ。ダービーまでやるべきことはたくさん残っているからな」
「はい……うう、でもやっぱり悔しいです」
「気にするな」
 そう言った俺の頭の中で、何か閃くものがあった。サニーどころか俺まで見下されているこの状況、もしかしたら利用できるんじゃないだろうか。
「……トレーナーさん? どうしました?」
 サニーが心配そうに俺の顔をのぞきこんでくる。だが俺はといえば、自分の思い付きを検証するのに精一杯だった。
 もし、もしこの策がうまくいけば、サイレンススズカを好きに逃がさずにすむかもしれない。いや、それどころか、他のウマ娘も同様に……。
「サニー」
「は、はい!」
 俺はサニーの手を取りながら、静かな声で彼女に告げた。
「俺はこれから、お調子者の三流トレーナーになる」
「はい! ……はい?」
 サニーは目を白黒させる。それはそうだ。俺はサニーの耳元に口を寄せ、ダービーに向けた作戦を聞かせてやった。
「そ……そんなのって……」
「この策がうまくいけば、ダービーは君の独壇場になるだろう」
「でも……そんなことしたら、トレーナーさんは」
 サニーの顔が曇る。まったく、そんな顔、みんなを照らす太陽にはふさわしくないだろうに。
 俺は彼女を安心させようと、努力して笑顔を作ってみせた。
「俺のことは心配いらない。俺は俺自身を信じている。君と同じだ。だから周りから何と言われようと気にしないでいられるだろう」
「トレーナーさん……!」
 サニーが笑う。輝くような笑い方、太陽の笑みだ。このときこそ、俺がダービーでの勝ちを確信した瞬間だった。

「ダービーですか? 当然、うちのサニーブライアンが逃げて勝ちますよ! 多分20バ身くらい突き放しちゃうんじゃないですか?」
「距離延長が心配? 何言ってるんですか! サニーブライアンは三冠とれる子ですからね? ダービーの2400mくらい、余裕で逃げきって見せますって!」  
「え? サイレンススズカ? ああ、彼女も逃げるんでしょうねきっと。でも、サニーブライアンは絶対に引きませんからね! 来るなら来いって感じですよ!」
「お、久しぶり、元気だったか? え? 俺が別人みたいだって? 当然だろ! なにせ俺は、あのサニーブライアンを育てたGⅠトレーナーだからな! 前までの俺とは一味違うのさ!」
「あ、それロン。緑一色に四暗刻でダブルだな。いやあ、運も味方につけたんじゃ、これはもう負けるのが難しいってもんだな! ほら、『ダービーは最も運の強いウマ娘が勝つ』って言うだろ!」

「逃げます!」
「何がなんでも逃げます!」
「相手が誰であろうと、サニーブライアンは絶対に、絶対に逃げます!」

「お前、大丈夫なのか」
 久しぶりに顔を合わせた師匠から開口一番そう言われたとき、俺は自分の策がうまくいったことを確信した。握ったこぶしに思わず力が入る。
「……なにがですか?」
「なにがって、お前……」
 言葉を濁す師匠。もちろん俺は、師匠が何を言いたいかわかっていた。
「どいつもこいつも噂してるぞ。サニーブライアンのトレーナーは、まるで酔っ払ったみたいに浮かれている、ってな」
「そうでしょうね。なにせ人に会うたびにサニーの凄さをアピールしていますから。正直、この一週間で百年分ぐらいしゃべった気がします」
 師匠は渋い顔を作る。ほんの少し、申し訳ない気分になってしまう。
「お前がそんなザマで、嬢ちゃんがダービー勝てると思ってんのか」
「何言ってるんですか。サニーがダービーに勝つためにやってるんですよ」
 俺がそう言うと、師匠は目を見開いた。
「お前、今なんて言った」
「全ては、サニーをダービーで勝たせるための布石です」
 師匠がいぶかるように俺を見る。まあ、それはそうだろう。俺以外の人間がそんなこと言っていたら、俺はそいつの正気を疑っていたに違いない。
「師匠、一つだけうかがいたいんですが」
「……なんだ」
「たとえばの話なんですが。ここに一人のウマ娘と、そのトレーナーがいるとします」
「それで?」
「そのウマ娘とトレーナーは、たまたま運が味方して大レースに勝てたにすぎないのに、それを自分たちの実力だと勘違いしてしまっています」
 師匠はボリボリと頭をかきながら、黙って俺の話を聞いてくれていた。
「調子に乗った三流トレーナーは、あちこちで言い放ちます。彼いわく、『なにがあっても絶対に引かない、今度のレースも全力で逃げる』。前走でたまたま上手く言ったから、今度もそれで勝てるぐらいに思っているわけですね。フロック勝ちだということに気が付かない、哀れな連中です」
「……ふん」
「さて師匠。師匠の担当するウマ娘が、次のレースでそいつの担当と一緒に走るとしましょう。どんなアドバイスをしてあげますか」
「そりゃあ、お前……そんなアホウにわざわざ付き合うな。どうせそいつは最後まで持ちゃしねえ。2番手以下に控えて様子を見つつ、バカが力尽きるのを待つのが賢いやり方だ……そんなところか」
 さすがは師匠。まさに模範解答だ。
「ええ、まともで優秀なトレーナーならそうアドバイスするでしょうね。そしてサイレンススズカのトレーナーは、間違いなくまともで、この上なく優秀なトレーナーなんですよ」
 そこまで聞いた師匠が、信じられないものを見るような目つきで俺を見た。
「お前……」
「俺の知る限りでは、サイレンススズカのトレーナーはまさに師匠の言うようなアドバイスをしたそうです。もっとも、言葉づかいはもう少し違ったものでしたでしょうが」
「……なるほどなあ」
 師匠がまた頭を乱暴に掻いた。しばらくボリボリとやって、息を一つつく。
「たしかに、間違いなくあちらさんは控える作戦を取るだろうぜ。いや、それどころか、ほかの連中も同じように考えて、嬢ちゃんを無理に追いかけようとはしねえだろう」
「ええ。世間じゃサニーが勝てたのは、実力者たちが後方で牽制しあってスパートが遅れてしまい、たまたま彼女が楽に逃げられたから――ということになっています。実力じゃない、あくまでもまぐれ、フロックだと」
 俺は口の端だけで笑ってみせた。
「だったらこちらとしては、それを再現すればいいわけです。勝ち方を教えてもらったようなものですね。ありがたいことです」
「しかしお前……ずいぶんと思い切った策に出たもんだな。それじゃお前さんも嬢ちゃんも、周りから鼻で笑われっぱなしだろう」
「それは問題ありません。俺もサニーも自分自身を信じていますから。周りの評判なんて気にせず走って、そして勝つだけです」
 師匠はうんうんと何度かうなずくと、豪快に笑い出した。
「わははは! やるじゃねえか! お前さんの捨て身の作戦がどうでるか、ダービーが俄然楽しみになってきたぜ!」
「ええ、楽しみにしておいてください。そうだ。俺を助けると思って、師匠も『サニーブライアンのトレーナーはワシが育てた!』とかなんとか言ってくださいよ」
「……言うわけねえよ、そんなこと。お前さん、冗談はまだまだド下手クソだな」
「……精進します」
 ……冗談のつもりはなかったんだが。

 時刻は午後3時過ぎ。大歓声が府中の空に響きわたり、コースと初夏の青空を揺らす。
 数千人のウマ娘たちの中から選び抜かれた18名――そう、たったの18名だけが、世代の頂点を目指して挑む、一生に一度の大勝負。
 東京優駿、日本ダービー。その本バ場入場の時間だ。出走者の面々が、コース上に姿を現し始める。
 俺は手元のタブレットで事前情報を確認する。サニーは18人中7番人気。皐月賞を勝ったウマ娘としては、異例の低評価だと言ってよかった。
 俺は内心でほくそ笑む。人気薄、上等だ。誰もかれも、せいぜいサニーを甘く見ていればいい。
「お、嬢ちゃん出てきたぞ」
 俺の横に師匠が指を指した先に、勝負服に身を包んだサニーが現れた。ゆっくりとした足取り。口元に笑みを浮かべ、だが金色の瞳は煌々と輝いている。
「おお、気合入ってるな。今までで一番の出来じゃねえかこりゃ」
「ええ、やれることは全部やりましたからね。最高のコンディションですよ。それこそ、これで負けたら仕方がないってレベルです」
「そいつは楽しみだ」
 そう、やれることは全てやってきた。トレーニング、作戦、はては運試しまで。全てはこの日、このときのために。
 さあ、目に焼きつけろ。お前たちがフロックだなんだと鼻で笑い飛ばしたあの子が、ウマ娘たちの頂点に立つその瞬間を!

「よう、約束どおり、ブッ潰しに来てやったぜ」
「サニーはん、お久しぶり〜」
「調子はどうだ……いや、尋ねるまでもなさそうだな」
 ゆっくりとストレッチをこなしているところに声をかけられて、わたしはなぜだか、温かいものが胸の中に生まれてくるのを感じていた。不思議な感覚だった。彼女たちとはこれから、お互いの死力を尽くして競い合う間柄だと言うのに。
 きっと、これがライバルというものなんだろうな。かけがえのない大切な存在、そして、だからこそ絶対に負けたくない相手。
「調子は、もちろん最高です。今日も逃げ切ってみせますから。覚悟しておいてくださいね」
「ハ! 言うじゃねえか、さすがチャンピオン様だぜ。けどよお、残念だったな。今日でオメーは“元”チャンピオンになっちまうんだぜ」
「……それは、みんなまとめてメジロプライドさんあたりに負けちゃうってことですか?」
「チゲーよ!」

「……私が、どうかしましたか」
 静かな、だけどよく通る声。
「おっと……これはこれは、本日の一番人気サマじゃねーか」
 声の主は、令嬢の優雅さと強者の雰囲気をまとう、名門メジロ家の秘蔵っ子。そうだ。ライバルはライトニングさんたちだけじゃない。
「な、なんでもないんです。メジロプライドさん」
 あははと笑ってごまかしてみる。メジロプライドさんは少し小首をかしげ、すぐに真顔に戻る。つられて私の顔もひきしまってしまう。
「人気はそうかもしれません。ですが、今日の私はあくまでも挑戦者。あなたの胸をお借りするつもりで挑ませていただきます」
「は、はい。よろしくおねがいします!」
「ひゃあ!?」
 勢いよく言ったわたしの声に、ソーヤジェントルさんが激しく驚いた。あ、しまった。
「テメー、コラ! ソーヤがビビっちまうからいきなり大声出すのはやめろって言っただろーが! ソーヤ、平気かオイ!?」
「ひえええ!?」
 ジャスティスさんの大声が、ソーヤさんに追い打ちをかけていた。
「……全く、決戦の前に緊張感のないことだ。すまないなメジロプライド」
「いえ、レースの直前だというのに、ライバルの方たちと自然体で交流できる……正直うらやましいぐらいです」
「そ、そうですかね……?」
 そうなのかな。
「……このダービーは、私自身にとってはもちろんですが、メジロ家にとってもリベンジマッチなのです」
「え?」
「私は、メジロ家を背負ってこの場に立っています。その重さが、私に勝利をもたらしてくれるはずです」
 メジロプライドさんは、くるりとわたしに背を向ける。一瞬、彼女の背中に、とても大きなものが背負われているような……そんな幻が見えた。
「レース、楽しみにしていますよ」
「……はい!」
 歩み去っていくメジロプライドさんから視線を離せずにいると、急に背中を強い力で叩かれた。
「うひゃ!?」
「おい、オメーよお……」
 わたしの肩を抱くように腕を回し、ジャスティスさんが不満そうにつぶやく。
「勘違いしねえように一応言っとくけどよ、このレース、テメーが一番意識しなきゃいけねえのはアイツじゃねえ、このアタシだろ」
 わたしはうなずく。ジャスティスさんのレースは何度も繰り返し見た。彼女の末脚は恐ろしい武器だ。その切れ味はライトニングさんに勝るとも劣らない。そうだ。このジャスティスさんも、ライトニングさんも、そしてソーヤさんも、みんなみんな恐るべきライバルだ。
「メジロ家のリベンジ……か。おそらくはメジロライアンのことだろうな」
「メジロライアンさん……ですか」
 ライトニングさんはうなずき、去っていくメジロプライドさんの背中を見つめつづける。
「名門と名高いメジロ家だが、ダービーだけは一度も勝てていなかった。メジロライアンはそんなメジロ家の期待を背負い、一番人気でダービーに臨んだ……しかし」
「結果は……2着」
 そのレースなら、わたしも記録映像で何度も見ている。勝ったウマ娘の名はアイネスフウジンさん、わたしと同じ逃げウマ娘だ。スタートから先頭に立ったまま、メジロライアンさんの猛追を凌ぎきり逃げ切った。レコードタイムを叩き出したその走りからは、いろいろなことを学ばせてもらったと思う。
「ライアンは逃げる相手をつかまえきれずに敗れた。そして今日のダービー、おそらくは同じ流れになることだろう。逃げる君、追う我々――なるほど、たしかにこれはリベンジマッチだな」
 わたしは目をつぶり、軽く首を振った。彼女の負けられない理由、それはわかった。だけど。
「冗談じゃありません。わたしはアイネスさんじゃない。わたしたちのレースに、勝手にそんな意味付けをしてほしくないです」
 そうだ。これはわたしたちの勝負、わたしたちのダービーだ。それ以上でもそれ以下でもない。勝負するのはわたしと彼女で、アイネスさんとライアンさんじゃない。
 そのとき、歓声がひときわ大きく響いた。たった今、コースに足を踏み入れてきたウマ娘に対してのものだ。
「サイレンス……スズカさん」
 サイレンススズカさんはわたしのほうをちらりと見ると、すぐに目を背けてしまった。そのまま、コースを確かめるように走り出す。
「お、感じわりいな。ちょっとシメとくか?」
「やめておけ……全く、どこを見ても強敵ぞろいだな。さすがはダービー、といったところか」
「へへ……よっしゃ!」
 ジャスティスさんが私の肩から手を離し、軽く数度飛び跳ねる。いかにも軽やかな動き、彼女の調子も万全のようだ。
「アタシたちも軽く流してくるとすっか。いいかサニーブライアン。くれぐれも準備運動でケガして出走除外、なんてドッチラケなことにならねーように気をつけろよ!」
「もちろんです。いいレースにしましょうね!」

東京優駿(日本ダービー) 芝2400m 晴れ 良

1枠1番 グロスライトニング(6番人気)
1枠2番 アオノリューオー(8番人気)
2枠3番 スピードロード(16番人気)
2枠4番 エノシマカウント(14番人気)
3枠5番 グロスジャスティス(3番人気)
3枠6番 エアロベルセルク(11番人気)
4枠7番 ソーヤジェントル(9番人気)
4枠8番 サイレンススズカ(4番人気)
5枠9番 ギガントホリデー(15番人気)
5枠10番 マキシマムマイン(10番人気)
6枠11番 トライストラグル(18番人気)
6枠12番 フリーストローム(2番人気)
7枠13番 マウントアカフジ(13番人気)
7枠14番 マチカネフクキタル(12番人気)
7枠15番 メジロプライド(1番人気)
8枠16番 テイエムダンシング(17番人気)
8枠17番 エクスゴールデン(6番人気)
8枠18番 サニーブライアン(7番人気)

 ウマ娘たちが、続々とスターティングゲート前に集まっていく。いよいよだ。あと数分後には日本一のウマ娘を決めるレースが始まってしまう。そしてたったの二分と二十数秒で、その決着がついてしまうのだ。
 スタートを待ちきれない観衆から、静かなざわめきが漏れていた。ざわめきは少しずつ大きさを増していくが、俺の心は逆に静まりかえりつつあった。不思議なものだ。
 さあ、俺の覚悟はとっくに決まっている。何があっても揺れはしないぞ。

《第9レース、発走除外のお知らせをいたします》

 突然流れた場内放送に、俺の心臓は口から飛び出るような勢いで跳ね上がった。このタイミングで発走除外というのはつまるところ、足のケガが発覚し、レースを走れないと判断されたウマ娘がいるということだ。ま、まさかサニーじゃないだろうな……!

《――1枠1番、グロスライトニングは、左足に故障発生のため発走を除外となります》

「ライトニングさん……」
「……すまない、サニーブライアン。聞いてのとおりだ」
 そういうライトニングさんの表情は硬い。当たり前だろう。レースの直前で、しかもよりによってダービーでこんなことになるなんて。わたしは彼女になんと声をかけていいのかわからずに、ただおろおろとするしかなかった。
「おい、ライトニング! オメー、まさかアタシたちにまで足のこと隠してたってんじゃないだろうな!?」
「それはない。そもそも隠す必要がない。私の足は、ついさっきまで何一つ問題などなかったのだからな」
「マジかよ……なんてこった……」
「ライトニングちゃん……」
 落ち込む三人を見て、ライトニングさんは苦笑を浮かべる。
「おいおい、なぜ君たちが暗い顔をしているんだ。ケガをしたのは私で、君たちじゃないぞ」
「そりゃそうだけどよ!」
「だったら、早く競技者の顔に戻ってくれ。でなければ、私はここを立ち去れない。沈んだ顔をした者に、私の代わりに頑張れなど口が裂けても言いたくないからな」
 その言葉を聞いた瞬間、わたしの心のなかに火が灯った。
「……そうだ。サニーブライアン。その顔だ」
 嬉しそうに微笑むライトニングさんを見て、ジャスティスさんもソーヤさんも顔つきを変える。二人の顔を見たわたしの背筋に、ぞくりと震えが走る。
「まかせろ、ライトニング。お前の代わりに、全員ぶち抜いて勝ってやるからよ」
「ライトニングちゃん、ゆっくり休んでや。あとはウチらに任しとき」
「ああ、頼んだぞ。いいレースにしてくれ」
 そう言って、左足をわずかに引きずりながらターフを去っていくライトニングさんは、一瞬たりとも下を向くことはなかった。

 そしてファンファーレが、高らかに鳴り響く。

 上を向く。雲ひとつない青空。太陽はまばゆく輝いている。わたしは光に手をのばす。ぎゅっと掴み取る仕草をする。まだ、あそこには届かない。だけど、必ず。

 東京優駿、日本ダービー。いよいよスタートだ。

《さあ、各ウマ娘たちが続々とゲートに入っていきます。一番人気のメジロプライドもスムーズにゲートに収まりました。同じメジロ家のライアンは、レコードで駆けるアイネスフウジンの後ろで涙をのみました。このレースに勝ち、メジロ家の悲願を果たすことができるのか!》 
 悲願。俺は両手を祈るように組む。そうだ、悲願だ。ダービーに勝つことは、ウマ娘に、トゥインクル・シリーズに関わる者すべての悲願なのだ。
 もう、俺には祈ることしかできない。だが目は閉じない。どんな結果になろうとも、最後まで目はそむけない。
 そうだ。たとえどんな結果になろうとも。

《さあ、ゲートが開いて各ウマ娘が一斉にスタート! エクスゴールデンががちょっと出負けした感じか!》

 ゲートが開いた瞬間、まばたきよりも短い刹那、私の胸の中にさまざまな感情が膨れ上がった。喜び、悲しみ、感謝、絶望、不安後悔自信達成感エトセトラ。それらをすべて足へと注ぎ込み、走るための燃料へと変える。さあ、いくぞ。わたしの前は、誰も走らせない。
 右足。左足。大地を踏み込んで。三歩目。踏み出したときにはすでにトップスピード。
 誰よりも、誰よりも速く、誰よりも前へ!

《さあ先行争い……行った行った行った行ったあ!》

 コースの一番外側から、一番内側へ。急角度、えぐりこむようなコース取り。16人すべてをかわし先頭へ。よし。
 視界の隅に、苦悶の表情を浮かべた子が映り込む。サイレンススズカさんだ。見るからに不自然な走り方。トレーナーさんの言ったとおりになった。彼女は今、ウマ娘の本能と「控えろ」というアドバイスの狭間で、もがき苦しんでいるのだろう。
 同情はしない。するはずもない。してはならない。真剣勝負の場に、そんなものは持ち込まない。わたしとトレーナーさんのほうが、一枚上手だった、ただそれだけだ。

《皐月賞ウマ娘、サニーブライアンが大外から内に一気に切れ込んで、早くも先頭に立った! そしてそのインコース、サイレンススズカは抑えた!》

 すごい。本当に誰も追いかけてこない。皐月賞のときより足も軽い。トレーニングの成果かな。

《マウントアカフジ、ギガントホリデー、さらにマチカネフクキタル、こういったところが前に行っています。そしてメジロは後方から三番手! 後ろからのレースとなりました!》

 さあ、もう相手はスズカさんじゃなくなった。
 わたしは後ろに意識を飛ばす。その途端、全身に感じる、もはや殺気のような気配。恐るべきライバルたちが、切り札をだすタイミングを狙いすましている。

《1コーナーから、これから2コーナーへ回っていきます。やはり、大方の予想どおりサニーブライアンが先頭で、ペースを落とそうとしています!》

「完璧だ……」
 サニーの走りを見ながら、俺は思わずそう口にしてしまっていた。そう、ここまでは完璧な逃げだ。皐月賞のとき以上だ。スタートしてすぐにハナを奪い、中盤はペースを落としスタミナを温存、ラストスパートで全力を出し切る……そのお手本のような走りをしていた。
「そうだな。いい走りだ。まあでも、まだわからんぞ。最後まで何があるかわからんのがトゥインクル・シリーズだからな」
「……俺はですね師匠。正直に言うと、逃げ戦法を教えるのあんまり得意じゃないんですよ」
「どうした急に」
 サニーの走りから目を離さずに――離せずに――俺は師匠に答える。
「サニーの能力をフルに引き出すためには、逃げるのが正解だということはひと目で分かりました。だけど俺には、逃げの細かいノウハウはなかった」
 彼女を最初に見たときのことを思い出しながら、俺は語り続ける。
「だから、彼女には教科書どおりの、基本に忠実な逃げを叩き込んだんです。というより、俺にはそれしかできなかった。だけど師匠が前に言ってたように、それは本来、王者の、真の強者の走りなんです」
 レースは中間地点にさしかかる。サニーはいまだ先頭、のこり16人を従えるように軽快に走り続けている。
「彼女が今しているのは、そんな走りです。本当に、本当にすごい子だ。俺は……俺はあの子に出会えて」
「おいおい」
 師匠があきれたような声を出す。
「お前さん、そのセリフはちと早いし、言う相手は俺じゃないだろう」
「あ……す、すいません」
 顔が赤くなるのがわかった。師匠はそんな俺を見ると、しょうがねえなというように笑い、
「まったく……ほら、いいから嬢ちゃんの走りを最後まで見届けてやれ! 担当の力を心から信じて、全力で応援しろ! それが俺らトレーナーの、一番大事な仕事だろうが!」
 そういいながら、俺の背中を何度も叩いた。

《先頭から見てみましょう。サニーブライアン先頭で二番手にはマウントアカフジが上がりました! そしてギガントホリデー三番手、内の方から8番のサイレンススズカ、ちょっと苦しそうな走り!》

 中盤戦。わたしはすこしずつペースを抑えていく。府中(東京コース)の直線は長い。高低差の厳しい坂もある。走り切るには、皐月賞のとき以上にスタミナが要求される……全部、トレーナーさんから教わったことだ。わたしはそれを一つずつ、丁寧に確かめながら走り続ける。

《10番のマキシマムマイン、マチカネフクキタル、内にスピードロード、外目をついてフリーストロームも早めに行った!》

 トレーナーさん、見てくれていますよね。わたしは今、あなたの教えてくれたとおりに走っています。そしてダービーに勝ってみせます。
 あなたは、本当にすごい人なんです。暗闇の中でもがくわたしに、一筋の光を当ててくれた……そう、まるで太陽みたいな人。なのに。

《17番のエクスゴールデン、ここまで上がってまいりました。アオノリューオーがいて、エアロベルセルク、そしてメジロプライドはここ、メジロプライドはここです!》

 そうか。

《さらにその後ろでありますが、テイエムダンシング。内、4番のエノシマカウント。外からグロスジャスティス、そして11番のトライストラグル、そして後方から、追込みに賭けるソーヤジェントル!》

 きっとわたしたちは、出会うべくして出会ったのだろう。

《そんなに速くはありません、ペースはそんなに速くはありません! どうやらこれは、直線での決め手勝負という形になるのでしょうか!?》

 ああ、勝ちたいな。わたしとトレーナーさんの、二人で勝ちたい。

 感情が、わたしの中で爆発した。全身が燃えるような感覚。わたしは無理矢理にそれを押さえつける。まだ、まだ早い。貯め込めなさいサニーブライアン。それを解き放つのは――。

《さあ、第4コーナーをカーブして、まもなく直線コース! メジロプライドはやはり外に出した!》

 ――この、瞬間だ!

《さあ直線に入った! 先頭はサニーブライアン、依然としてサニーブライアンが先頭だ!》

 俺は叫んでいた。サニーに俺の声を、思いを届けるために。だが十万を超える大観衆の歓声に、俺の声などすぐにかき消されてしまう。
 だからなんだ、知ったことか。俺は血でも吐かんばかりに声を振り絞った。吐いても構わなかった。

 サニーは、先頭のまま走り続けていた。最後の直線、彼女の走りは衰えるどころか、逆にスピードを増していく。ついていこうとしていた子たちは、スタミナ切れで後方へと沈んでしまう。後続との差がぐんぐん開く。
 なんて……なんて強い走りだ。まさに王者の走りだ。

 サニーは勝つ。ダービーに勝つぞ。
 俺がそう思った瞬間、それがやってきた。

 肉食の獣の群れ。
 わたしが背中で感じた気配は、一言でいうとそれだった。ここまでじっと我慢してきたライバルたちが、伝家の宝刀を――ここまでため込んだ末脚を解放し、わたしをかわそうと襲いかかってきているのだ。
 牙が、爪が、歯が、わたしを食いちぎらんとしているような、そんな気配。重低音の足音が、少しずつわたしの背中に迫ってきているのがわかる。

「逃がすかあ! テメーにだけは絶対に負けねえ! アタシはテメーに勝つためだけに、ここまで来たんだ!」
 ジャスティスさんが叫ぶ。

「ウチかて、ウチかてやれるんや! いつまでも、ジャスティスちゃんに守られてばかりやない! ライトニングちゃん見ててや、うちは負けへん!」
 ソーヤさんが吠える。

「メジロ家のため、いいえ、私自身の誇りにかけて! 同じ相手に二度負けるわけにはまいりません! 必ず、必ず勝ってみせます!」
 メジロプライドさんが猛る。

 彼女たちの夢が、願いが、希望が、祈りが、わたしの全身を絡めとろうと追いすがる。

 だから、だからどうした!

 わたしは腕を振り、誰かの夢を振り払う。わたしは芝を蹴り、誰かの祈りを踏み潰す。そうして一歩ずつ、前へ、前へ、前へ、前へ、誰よりも前へ!

《さあ、外目をついてエアロベルセルク、メジロプライド、さらに、グロスジャスティスも飛んできているが!》

 わたしは負けない。絶対に負けない。
 トレーナーさんと二人で練り上げてきたんだ。

《残り200m! 坂を上がって! サニーブライアン先頭!》

 すぐ後ろ。迫る気配。背中に爪をかけようとしてくる。負けるもんか、負けるもんか、負けるもんか!

《外からグロスジャスティス、グロスジャスティスだ! 間を割ってフリーストロームも来た!》

 わたしは勝つ、絶対に勝つ! 勝って、わたしたち二人で、輝く太陽に、なるんだ!



《――サニーブライアンだ、サニーブライアンだ! これはもう、フロックでも、なんでもない! 二冠達成!》

《これはもうフロックでもなんでもない、サニーブライアン堂々と、二冠達成です!》

 サニーがゴール板を駆け抜けた瞬間、思わず隣の師匠を抱きしめてしまっていた。
「や、やめろ馬鹿野郎! とっとと離しやがれ!」
 師匠の叫びに我に返る。その途端、嬉しさよりも恥ずかしさと申し訳無さが勝り、俺は平謝りに謝る羽目になってしまった。
「ったくよお。気持ちはわかるが相手を考えろってんだ」
 師匠はあきれたようにそう言うと、手元のストップウォッチを覗き込み、軽く口笛を吹いた。
「こりゃあすごい。嬢ちゃんの上がり3F(ラスト600m)のタイム、35秒1だ。この上がりじゃあ、後ろの連中は絶対に届かねえな。たいしたもんだぜ」
 俺は、師匠の言葉に何もこたえられなかった。ただ黙って、うなずくことしかできなかった。師匠の前で黙り込んでしまうのは、これで何度目だろうか。
「勝ち時計(走破タイム)は2分25秒9か、アイネスフウジンのレコードタイムに0.6秒遅れとはな。今日の芝の状態から考えると、レコードに決して劣った数字じゃないと思うぜ」
 師匠は何度かうなずくと、俺の顔を見て笑った。
「文句なしの強い走りだ。フロックだなんだと笑っていた連中の顔を見るのが楽しみだな。それはそうと、どうだ? ダービートレーナーになった感想は?」
「……です」
「は?」
「夢見たい、です」
 俺は、ようやくそれだけ答えた。師匠はなにも言わず、俺の肩を何度か優しく叩いた。

 そのときだった。レース場中の観衆が、一斉にコールを始めたのは。

 ――サ・ニ・イ! サ・ニ・イ! サ・ニ・イ! サ・ニ・イ!

 サニーは驚くような顔をすると、恥ずかしげに観衆に向かって右手をあげてみせた。とたんに地鳴りのような大歓声が沸き起こる。

 俺は空を見上げた。雲ひとつない青空の真ん中、輝く太陽がそこにあった。だが、今この地上には、決して劣らないもう一つの太陽が、まぶしく輝いていると思った。
 みんなを明るく照らす、太陽みたいなウマ娘。
 今の彼女は、間違いなく太陽そのものだった。

日本ダービー(GⅠ) 結果
1着 サニーブライアン 2:25.9
2着 グロスジャスティス 1バ身差
3着 メジロプライド 1/2バ身差
4着 ソーヤジェントル クビ差 
5着 フリーストローム クビ差


《それでは、勝ったサニーブライアン選手のインタビューです》
《は、はい、よろしくおねがいします》
《ダービーウマ娘になった感慨は、今いかがですか?》
《よ、よかったです》
《道中の手応えはいかがでしたか》
《ええと、手応えは十分でした。あとはもう、自分の力と、トレーナーさんの教えを信じていくだけでした》
《正直、皐月賞を勝ったわりには、評価が今ひとつだったと思いますが》
《あ、評価は別にどうでもよかったです。一番人気はいらないから、一着だけほしい、そう思っていましたから》
《当然、3つ目のタイトルも視界に入っていると思いますが》
《は、はい。がんばります》
《淀の3000(菊花賞)でも、今日のように逃げますか?》
《逃げます!》
《これまで支えてくれた皆さんに、一言お願いします》
《ええと……応援、ありがとうございました。また秋には最終決戦が残っていますので、応援、よろしくおねがいします!》
《ダービーウマ娘、サニーブライアン選手でした! おめでとうございました!》

 ――サニーがこのインタビューで言った「一番人気はいらない、一着がほしい」という言葉は、のちにトゥインクル・シリーズ史に残る名言扱いを受けることになるのだった。



「さて。サニーの話はここまでにしておこうか」
「えー!? そんないいところで? なんでですか!?」
「なんでって、もうレースの時間だろうが。せっかくの晴れ舞台に遅刻していくつもりか?」
「え……わああ!?」
 あわてて駆け出していく後ろ姿を苦笑交じりに見ながら、俺はサニーのことを思い出す。
 彼女の勝利は、周囲の彼女に対する評価を一変させるに余りあるものだった。さらにその後、ダービーでサニーに敗れたグロスジャスティス、サイレンススズカ、メジロプライド、マチカネフクキタル、スピードロード……彼女らが次々にGⅠ級のレースを勝ったことで、いよいよ確かなものになったのだった。 
 俺への評価も変わっていった。ダービーの後から、俺とトレーナー契約を結びたいと言ってくる子たちが少しずつ増えていったのだ。
 そんな子の一人が、今日夢の舞台へ立つ。彼女は幼い頃にサニーのダービーを見たらしい。さっきも「レース前にサニーの話を聞いて、気合を入れたい」なんて言うものだから、得意でもない長話をする羽目になってしまった。まあいい。それで彼女が勝ちに近づくのなら、それはお安い御用というやつだ。
「トレーナーさ―ん! 一つ忘れてましたー!」
 ……なんで戻ってくるんだ。
「どうした」
「あのですね! 今日私が勝てたら、ひとつだけお願いしたいことがあるんです!」
「俺にできることならいいぞ」
「やった! ええと、あのですね……私のこと、『カル』って呼んでほしいんです! その、サニーブライアンさんみたいに愛称で!」
 なんだ、そんなことか。いまだによくわからないが、まあ彼女たちにとっては重要なことなんだろう。
「わかったから早く行ってこい、カル。お前は右によれて走る癖があるから、それだけ気をつけろよ」
「え……えええ!? わ、私まだ勝ってませんけど!?」
「なに言ってるんだ。俺の育てた君が負けるわけないだろう。さあ、行くんだカル。おまえのスピードを、皆の目に焼き付けてこい」
「はい……はい!」
 カルは嬉しそうに何度もうなずくと、レース場に向けて駆け出していく。不思議なものだ。二人は全く似てはいないのに、カルの背中にサニーの姿が重なって見えた。
 そうだ。こうやって思いは受け継がれていくのだ。サニーの走りはカルに受け継がれ、そしてカルの走りも、まだ見ぬ誰かに受け継がれていくのだろう。それこそが、俺の愛するトゥィンクル・シリーズなのだ。
 ふと、人を育てる仕事をしてみたい、そう思う自分がいることに気がついた。ウマ娘だけではない、彼女たちに関わる多くの人を育てる仕事を。俺がいろいろな人からもらったものを、受け継いでもらうために。
 そんなことを考えていると、自然に笑みが浮かんでくる。

――素敵な笑顔、まるで太陽みたいですね! さすがはわたしのトレーナーさん!
 どこからか、そんな声が聞こえてきた気がした。

「ダービーも逃げて勝つ」

そう君が言ったとき、周囲の人間はそれを鼻で笑い飛ばした。

まぐれだ、フロックだ。君を嘲笑う者は数知れず。

だが君は動じなかった。自らの力を信じていたから。

最後の直線。追いすがるライバルを置き去りにして、君は輝く光となった。

その太陽の名は、サニーブライアン。

青空の下、君の名を呼ぶ大観衆に応える姿は、まさに地上の太陽だった。

URA制作CM「ダービーウマ娘の系譜」より


【完】

そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ