西平守温(87) 聞き取り記録 その3


「ああ、いらっしゃい。今日は雨ですねえ。濡れなかった?」

「ああそうですか、良かったねえ。はいはい、どうぞ」

「この前は何の話だったですかねえ?」

「ああ、学校の話ね。」

「うーん、だいぶ昔だからねえ。戦前は…図画なんかは軍艦とか書きよったですねえ。航空母艦とか。あとはねえ、何の時間かねあれは、教育勅語とか天皇の名前覚えさせられたりしましたねえ。コウソコウソウクニヲハジムルコトとかなんとか。天皇の名前とかはジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク…とか、難しかったねえ。」

「そうねえ、あの、首里城の正殿あるでしょ、あれは入れよったんですよ。雨の時なんか入ったりして。正殿の2階には、何か駕籠みたいなのがあったのは覚えてますねえ。」

「僕なんかからが国民学校といいよったかねえ。どんなだったかねえ、でも、しばらくしたら疎開したからねえ。戦前は少ししか通わんかったですよ。」

「はい、僕らなんかは母子家庭でしょ。だから最初はおふくろが渋っていたわけ、子どもだけ行かせるというのは。」

「というよりは、女一人でしょ? 子どもがいないと、下のきょうだいの子守する人がいないし、家のことする人がいなくなるから、困ると思ったんじゃないかな。」

「はい、うちは6名。僕の上に兄と姉、下に弟2人妹1人。戦争のときは、下二人はまだ小学校上がってなかったから。」

「だぶん、みんな行くし、役所とか学校から何か言われたんじゃないですかねえ。それに、戦争が近づいているという感じもあったし、一家みんなで疎開できるということになって、決心したんじゃないかな。<どうせ死ぬならみんな一緒がいい>と言って。」

「大変でしたよ。でもね、うちはほら、大人はおふくろ一人、あとは兄と姉くらいしかいないから、荷造りに時間がかかってねえ。最初のグループにあたっていたけど、準備が間に合わなくて、次の船に回されたの。これは後から聞いた話だけど、この最初の船団というのが対馬丸だったらしい。うちは遅れたから命拾いしましたね。」

「はい、それで荷物固めて港行くんだけど、もう港から今の西武門交番のところまで、船に乗る人が並んでいるわけ。暑くてねえ。」

「それで、ようやく岸壁のところまで来るとね、コールタールから、樽か何かに入っているわけ。そしたら、何でかこれに火がついてね。近くにいた子どもが焼け死によった。お母さんかは、気が狂ったみたいにアギヨーアギヨーしていたけど、大人たちが何処か連れていきよったよ。」

「この時は戦争嫌だなーと思いましたねえ。」

「それから伝馬船に乗って沖の大きい船に乗って。自分なんかは一番下のところじゃなかったかな。こっちも暑くてねえ。」

「船酔いもするし、夜なったら気持ち悪くて、出るなと言われていたけど、甲板にこっそり出てね。そこで生まれて初めて蛍光灯というものを見ましたね。」

「海だから周りは真っ暗でしょ? 蛍光灯だけ明るいわけ。小学校低学年だったけどね、この時は、こんなところで死ぬのは嫌だなーと思いましたね。」

「それから鹿児島ついて、少ししてから、熊本の人吉の渡村、ここのなんという寺だったか。そこに泊まってね、あとは終戦まで。」

「最初は良かったですけどね。寒くてね。あかぎれとかができるですよ。これにね、米洗うでしょ、この割れたところに米粒が入ると痛いわけ。また、食べるものもないですからね。沖縄では暖かいからカンダバーなんかはいつでもあるし、人の畑から少しくらい採ってもとがめられもしない、葉っぱくらいだったら皆のものという感じだけれど、あそこ(疎開先の熊本、記録者注)は寒いでしょ。年に何回も生えないから、勝手に採ったら泥棒扱いされてね。こっちの感覚でやったら。嫌な感じでしたよ。」

「うん、だから母はいつも帰りたがっていた。言葉も違うし。」

「当時は差別というのは分からないし、今でもどんなかなあ、差別というまでではないかなあ、でも、(沖縄とは、記録者注)やっぱり違うなあ、という感じはしましたよ。」

「あんまりいい思い出はないですねえ。辛いというほどではなかったけど、ここ(での暮らしは、記録者注)は嫌だなあ、とは思っていましたね。」


「確か、寺にしばらくいて、それから村の農家の小屋とか借りていたんじゃなかったかなあ。どんなだったかなあ。」

「してから、しばらくしてから荷物ほどいていたら、観音さんの背中が割れているわけですよ。」

「ああ、うちは仏壇(トートーメー、一族の位牌、の意。記録者注)が2つあって、うちのものと、本家のものと。うちのものは長男の兄貴が持って、それで、本家は嫡子がいなくて、僕が次男だから(本家の養子に入って、記録者注)跡継ぎということになって、仏壇とこれと一緒になってる観音さんは僕が管理することになっていたんですよ。それでこれを荷物から出したら、後ろの飾りみたいなの(光背のこと。記録者注)がパカっと割れているわけ。そしたらしばらくしてから、噂で<首里那覇は空襲があってダメになったらしい>ということになってね。あー、観音さんに守られているんだねえ、と思いよったですよ。」

「戦後、1年くらいしてからかな、沖縄に引き揚げてきて、すぐは中城御殿のところ、前の県立博物館のところね。あそこにみんなテント暮らし。地面に線引いて。それから何か所か移動したのかな。してから、赤田に。」

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