第65回 短歌研究新人賞 感想
約半年前の自分が、短歌研究新人賞に作品を提出していました。
自分の作品がこれ以上に評価されることは今後無い、という確信をどのように騙しながら短歌を続けていくかという感じになりそうです。
他の人の作品を読んで思ったこと。
「この人はこういう人で、こういう視点から詠んでいるんだ」と序盤にはっきり伝わってくる作品が多い。
それぞれの短歌単独では背景や意図が伝わらないものも、連作だと伝わったりします。普段ならその31音では説明しきれないことを伝えられるのですから、それは連作というフォーマットの強みなんですね。
といった具合に、私は勉強不足です。
当たり前だろと思った方、すみません。
全然関係ないですが、筆名以外の情報を全て非公表にしました。印象よくないかなとも思ったんですが、そんなことないみたいです。
職業欄とか所属とか、全員が全員、本当のことを書いているんでしょうか。
633作も応募があれば、職業:電話交換手 とか書いてレトロな短歌を詠んで、その連作自体をSFにする人とかいそうですが。
私が思いつくようなことはきっと誰かがやっていて、その上でちゃんと無視されているのでしょうね。
・感想
今後の勉強のためと自分で見返すため、新人賞に投稿された短歌の中から、こんな短歌をよめるようになりたいと思ったものをピックアップして、感想を書いてみたいと思います。
他の人の感想で羨ましかったのは、「Twitterで見たことある人がたくさんいた!」みたいな感想です。(私は人の名前を覚えられず、Twitterではアイコンとかの色味でぼんやり識別しているのでほとんどわかりませんでした)
交流があるのに急に引用していたらすみません。
以下の短歌は、月刊誌『短歌研究』(2022年7月号)の第65回「短歌研究新人賞」に投稿されて掲載されたものから引用しています。
バレエの演者の体つきや演技の、綺麗な人間味のなさに不安を覚えたのだと読みました。美しすぎるものに対する違和感を、「心臓は左右対称ではない」と表現されていて、きっと演者の心臓のみならず、自らの体を確かめながら反芻するほどの感覚だったのだろうと感じました。
国ではないとされる地域について、「〜の国旗」「〜の首都」「〜の国境」などとつい言ってしまうことがある。個人の発言ならともかく、新聞社やテレビ局がやってしまうと結構なおおごとになってしまう。しかも、この歌では第三者の失言に巻き込まれていてやるせない。「システム不具合」という言葉が、もっと広い意味を帯びているようでおもしろいと感じた。
「捨てればいいのに、捨てない」という前提は揺るぎなく、冷蔵庫が狭くなると決まっている。私もこういう歪んだ認識を当然のものとする面白みを表現したいとワイヤレスイヤホンの短歌を作りましたが。。。「らっきょう」というのも厄介で絶妙なチョイスだと思いました。なかなか腐ってくれないし、臭い。
私は兵器ブリオンのクソコラ画像を見られたことがあります。
亡くなったか、少なくともアイドルは辞めた人に対しての周囲の評。その一部分を淡々と読み上げ、背景を想像させている素敵な短歌だと思いました。偶然短歌botっぽさも好きです。
はじめは「朝焼け(夕焼け)をバックにしたクレーンは鶴っぽく見えるね」という気付きを共有してくれた人、ということだと読みました。それが朝焼けの時だったか夕焼けの時だったかが朧げであるというのは、この短歌全体のぼんやりとした暖かみとマッチしていて素敵だと思いました。もしかしたら、「人」はおらず、朝焼けか夕焼けのどちらかが、クレーンが鶴に見えるということを教えてくれたのだということかもしれません。
「坂の途中」が、漠然とした経済の崩壊というイメージに合って素敵だと感じた。破調が真実味を増していると思った。関係ありませんが、街のことばというアカウントが好きです。
眼前にあるこの幸福は底に泥を湛えているのではないかという不安に大変共感しました。そして、水たまりの中に泥が沈んでいることほどの確からしさ、という感覚が素敵だと思った。私は自然物を詠むことができないし、比喩を用いて共感させるのがかなり苦手なので勉強したい。短歌をやり始めたころは、こういう素敵な短歌を詠めるようになることを想像していたのに。
おなじ比喩でも、全然意味がわからなくて好きです。そういう意図の短歌でなかったら大変失礼なのですが…
しかしこの人にとってそうとしか言えない経験をした場合、どんどんそう言っていくことは必要だと思う。わからないがおもしろいという歌は楽しい。
「言わせるあなた」ということか。この手のことを「言われる」短歌ではなく、「言う」短歌だとすれば珍しいのではないでしょうか。そしてこの人の頭のなかのリビングでは、凍りつくタオルでなぐる音がしている。大変だ。強烈な個性があって羨ましい。名前も素敵です。
(沸騰間際でガスを何度も止めているのが詠み手で、第三者に注意させてしまっているのだとも読めます。30首読んだら悲痛な叫びが見えてきたりして、全然印象が変わるかもしれない。)
小梅田せらさんの短歌の2首目に掲載されていたのですが、これは30首のうちの1首目ではなかったのでしょうか。草々から始まる短歌もあったのだと勝手に想像しています。読みたい。もう働いている描写などがあれば、過去の自分に対するエールとしてやや明るさが増しますね。
どういう文脈で詠まれたものなのか(ハナモゲラ語短歌のような感じか)わからないが、これが掲載されていて嬉しかった。
私は以前、短歌の読めなさと書けなさが悔しすぎて
というものを詠んでいた。私の場合は、自分の能力の低さを棚に上げていて、その上、悔しさが滲み出ていてダサい。が、田中大貴さんの場合はそんな余地はない。かっこいい。
面白い。
以上です。お読みいただきありがとうございました。
深山睦美(@57577_77575) 2022.6.28
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