団地の遊び 思い出徒然 三

思い出徒然 三

 いつも遊ぶ川の横には、野球のグラウンドがあった。フェンスのついた本格的なやつである。
 野球で有名な高校のグラウンドであった。
 当時は、まだ子供だったので、野球の強い人たち、ぐらいにしか、認識していなかった。
 ネットと金網で、グラウンドの中には入れない。たくさんボールが転がってるので、一個ぐらい欲しいなあ、と思って見ていた。
 夕方になると、汚いユニホームを着て、走っていた。夕日に照らされた、その集団の姿は、やけに印象深かった。
 そんなわけで、話は大きく変わる。林間学校である。
 ところが、実に覚えていない。この、二泊三日の修学旅行代わりのものは、どこへ行ったのかすら、百パーセントの自信がない。おそらく山中湖である。そう書いて河口湖か?などと考える。
 九割は記憶にない。なぜそれ程に、忘れているのか、そんなに嫌な旅行でもない、というハッキリしない印象が残っている。
 実に確実に記憶してるのは、湖の中を歩いている時である。確か、泳いではいけない、なんかそんなこと言われ、水遊びぐらいしかできなかった。
 ビーチサンダルを履いて、湖の中をズブズブ歩いていた。透明度は、ほとんどなかった。汚い。膝ぐらいまでの深さである。すると、ズボッと何か重いモノを踏んだ。左足の親指に何かを感じる、
 足を上げて見ると、L字型をした鉄の棒のようなモノが、親指と人差し指の間から、突き抜けていた。ビーチサンダルを楽に貫通している。
 これは焦った。ちょっとでもズレていたら、足裏に刺さっていたところである。
 L鉄棒を抜いた。水の中に入れ手探りで地面の奥に突き刺す。我ながらいい事をしてると思った。
 それにしても、なんも考えずにズブズブ歩いていたが、ここは危険である、という認識を得た。すると、急に怖くなってきた。左足のビーチサンダルはほとんど壊れている。
 ともかく、透明度がほとんどないので、水の中が見えない。なので、足をゆっくり動かし、岸辺に向かった。
 友人のSY1(仮名)が、岸辺でしゃがみこみ、ものすごく心配そうな泣きそうな顔で、コッチを見ていた。いつも強気のSY1の、そんな顔を見るのは初めてなので、かえって気が散った。
 でもまあなんとか無事に陸に辿り着いた。元の強気に戻ったSY1が足見せろと言うので見せた。ケガはしていなかった。
 なぜSY1が心配していたかというと、走るのが速いだけが取柄のバカが、もし走れなくなったら、ただのバカになってしまう、とハッキリ言われたわけではないが、なんかそんな感じではないかと、自分的には思っている。
 林間学校といえば、これぐらいしか記憶になかった。電車で行ったのかバスで行ったのか。何を食べたのか、まるっきり覚えていない。
 低学年の頃、みんなから嫌われている奴がいた。コイツ一人が、嫌われていたわけではなく、コイツの家族全員が、嫌われていた。
 高木(仮名)は、泣き虫だった。すぐ泣く。これも嫌われる理由の一つといえた。
 なんといっても、団地中央のストアから十号棟までの間、ずーーっと大きな声で泣きながら歩き、二十五号棟分の団地の人々に、その存在を知らしめるようなヤツである。
 夏休みなんぞは、朝の七時前に家に遊びに来て、親に怒られるヤツである。
 いつも口をポカンと開け、口も態度も締まりがない。
 コマ遊びをしてる時、コマを割られたら割った奴のモノになる、というルールに納得せず、一人泣きわめき、あとで親と一緒にウチに来てコマを返してくれ、というヤツである。
 親も嫌われていた。団地の芝生は、ゴルフ禁止である。芝がえぐられたりしたら、良くないのは子供だって知っている。だから誰もやらない。ところがコイツの父親は、そんなの無視し、平然とヘタなゴルフで芝をえぐっていた。
 ものすごくケチで、金を貯め、埼玉の奥地に家を買った。ほとんどの人が、いなくなって良かったと言った。
 父親が、団地の連中と言ってバカにしていたが、実際、その埼玉の奥地の家を見た奴が言うには、ただの山の中のとりあえず一戸建てといっていた。あんな田舎のあんな家に住むぐらいなら、東京の借家の団地に住むほうが、はるかにマシと、近所の奥さんたちも言っていた。
 引越して一年ぐらいたって、コイツが団地に遊びに来た。細かいことは忘れたが、公園で自分と二人で話をした。東京と埼玉との違いについて、コイツは語っていた。ほんの少し成長したようにも見えたーーー自分もまだ小学生だが。
 この高木とは、その後、二度と会っていない。特に会いたいとも思わず、でも、なぜか、妙に記憶に残っている。それほど、仲良かったっけ?と不思議に思う、現在の自分であった。

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