ニュージーランドの高校の思い出話 前編

 以前野球の思い出話を書いたのですが、野球の思い出まとめの後編の最後の方でちょろっと出てきたニュージーランドの高校での思い出を今回のブログでは書いてみようかなと思います。海外の高校は、小さいときから行ってみたかったとかではまったくなく、実際には普通に日本の高校で硬式野球部に入って甲子園を目指すんやろなと子供のころから思っていたのですが、自分でも予想外にも鳥取の高校をあっけなく辞めてしまい、途方に暮れていたところ両親に勧められて行くことになったんです。家が結構裕福やったので、運がよかったというのもあるんですが、普通に考えたら珍しいことやと思うので、せっかくやから書いとこうかなと思った次第です。
 今は作家になれるように小説を書いたりしているので、そう考えると日本の高校で日本語をきっちり勉強しとけばよりよかったのではと思われるかもですが、結果的に言うと留学しといてよかったなと思います。今ではその高校に行ってなかった気がしません。その高校の名前の略称はBDSCと言って、中学二年生くらいの年齢から高校三年生くらいまでの生徒が大量に集まっているマンモス校でしたが、敷地自体は結構小さくまとまっていて、日本で言うと田舎で国立大学を目指すような進学校といった感じの高校でした。
 結構頭のいい生徒たちが集まってきていたみたいで、高校生活の後半は勉強ばっかりやったので、後編はつまらなくなるかもしれないですが、前編では留学して一年目のことを書こうかなと思います。俺は鳥取の高校をすぐに辞めてしまってから、留学準備をする期間がしばらくあったので、年齢的には一つ下の学年に入ってスタートすることになりました。現地では年功序列とか、敬語とかそういう文化はまったくなかったので、同じ学年の友だち作りとかその辺は特に問題ありませんでした。ただ、一つ上の学年やったけど同い年の、野球の思い出まとめで登場したRunLineくんにちょっと顔が似ている現地の日本人の友だちだけはちょっと違いました。一応先輩やから敬語使ったほうがええんかなと思って最初敬語で喋ったら、その後Lineかなんかで、
「敬語やめて。なんかきもかった」
 と言われたんです。はっきり物言うファンキーなやつやなと思ったのですが、結構衝撃でした。俺自身敬語とかが結構好きなのでこのブログでも丁寧な言葉づかいを心がけているのですが、そう言われた時点でなんかそいつのことがすごい苦手になったんですよね。その程度で普通嫌わんかもですが、女子で言うところの蛙化現象でしょうか。性格悪いと思うでしょうがその後は友だちのふりみたいな感じをしていました。なんで特に誰も読んでいないのにこんなブログ書いているのかと思うかもしれませんが、これはそのときの愚痴というか、単なる憂さ晴らしでもあります。
 そいつは普通に人気者でした。友だちも多かったし、現地の女の子からもモテていたと思います。ただ、根っから真面目なのでしょう、交換留学の生徒の様子を見に日本の学校の先生がBDSCに訪ねてきたときに、そいつはすぐに挨拶をしに行っていたのに対して、俺は面倒くさがって挨拶をしなかったのですが、
「おい挨拶しろよ」
 と言ってきたんですね。普通に考えると完全に彼が正しいんですが、今更きもかったと言われたことに対してここで言い返させてもらうと、うざかったです。完全に陰キャが陽キャを嫌う構図です。悔しいですが彼は絶対に日本の女の子からめちゃモテます。やから現地の大学に進んだときあたりに、日本に住んだらどうやと提案したのですが、そのときはニュージーランドの生活が気に入っているからと言われて断られました。現地の女の子からもモテていたし、なんならもう結婚とかしてるかもですが、俺が一方的に嫌いすぎてFacebookとかブロックしてしまったので今どうしているのかはわかりません。俺もそいつに、鳥取の高校ではなく京都のR高校から来たとか嘘をついていたので、実は嫌われていたかもですが、今まで男友達に対して謎に優しかった俺にしては珍しくかなり嫌っていたと思います。そいつのことばかり書いてもアレなので、ほかの現地の友だちとのエピソードとかも書こうと思います。
 RunLineくん顔の友だちを内心嫌っていたせいか、留学してきていた日本人たちから俺は若干煙たがられていた気もするんですが、現地の人たちとはかなり仲よくなりました。片思いでしたが恋愛もありました。留学して最初の年の途中くらいに、隣町のパクランガ・カレッジから転校してきた中国人のリンダという子と理科のクラスが同じになって、可愛いなーと思っていたんです。あとで調べてみたら、リンダってスペイン語かなにかで美しいっていう意味で、そんな強気な名前に似合った美人でした。思い出補正もあるかもしれませんが、その子に会った時点でもうその後のことがどうでもよくなったくらいのレベルでした。その子とは付き合えたりはしなかったのですが、もう一つエピソードがあるのでその事は来月書く予定の後編に書こうと思います。
 ほかは、地理の授業で隣の席になったベトナム人のトニーという男の子と最初の年に仲よくなったのですが、その年の終わりくらいに彼に、
「タイキ、これは何て言う?」
 と机を指さして聞かれて、
「え、テーブルでしょ?」
 と返したら、
「違うよ。これはデスクだ」
 と言われて、ほかに何を聞かれたか忘れてしまったけど、英語でなんて言うかいくつか聞かれたのを、別にボケた訳でもなくことごとく間違えてしまい、あほやと思われたのか次の年からはあまり関わらなくなってしまいました。いいやつやっただけにちょっと残念でした。
 長くなってしまって申し訳ないんですが、美術の授業で同じグループになったオツベルという女の子ともちょっと仲よくなりました。その子はスポーツがよくできて、アイランダーといわれるニュージーランドよりもちょっと上の方の国の出身の子やった記憶があります。間違っているかもしれません。その子は、去年撮影会に行ったときのグラドルとちょっと雰囲気が似ていたなと少し思いました。その子は結構気の強い子で、俺が一度だけほかのグループの台湾人の友だちのところに行って絵を描いていたあとに自分の席に戻ったら、ちょっとした口喧嘩になってしまって、優しい子やったんですがその次の年から授業がかぶることもなく、関わることも減りました。
 ニュージーランドの高校の最初の年はざっくりとまとめるとこんな感じでした。英語力も低かったし、結構大変やったんですが、周りの人が優しかったと思います。なんでこんなことを書いているかというと、ラクマの売れ行きとかも今月はすこぶる悪くて、ちょっと貧乏生活が続いているので本になって売れるような小説を書くための文章の練習ついでと、俺の過去編は友だちとかに隠すことが多かったせいか最近は周りの人に気にされることがほぼなくなってしまったので、自己アピールも兼ねています。姉は野球の思い出まとめを読んでくれたらしいけど、姉も学生時代の俺に何があったかを全然知らなかったらしく、俺ってわかりにくかったんやなと思いました。これはアピールになっているんやろか。むしろこれはマイナスなのか。わかりませんが来月も後編を書けたら書きます。


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