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あのとき好きと言えてたら

わたしが高校3年生の7月。

高専という専門性のある学校だったため、14教科5日間のテスト日程でテスト期間をむかえていた。
その3日目の深夜、家の電話が突然鳴った。
当時携帯電話はもう持っていて家の電話に自分に関する電話はかかって来なかったものの夜中という時間もあり、自分かもと思う気持ちで出ると、小学校時代仲の良かった私立中学に進学した友人からで、今から会えないか?
という電話だった。


わたしは、テスト期間まっただ中だから今日は難しい、来週なら、と返事したが今日のお誘いだったのでそのまま会う約束はなく、電話を切った。
1週間後、その友人の訃報が届いた。
その電話が友人と話した最後になってしまった。


人は、二度死ぬ。
肉体が死に、忘れ去られて死に至る。
人間社会で誰とも繋がりを感じずに、あたかも忘れ去られているかのように感じるから肉体を葬ろうとするのが自殺のように思う。


思春期の頃というのは、人間関係か気分や体調の波等も含め、多かれ少なかれ、死んでしまいたい、消えてしまいたいと思うことはある。
その時に人を支えるものは、果たしてなんだろうか?

わたしは、あなたのことを大切に思っている、好きだ、という他者からの関心、好意、愛情のように思う。
それらを受けていると感じる時、その人のことが脳裏に浮かび、人は死ににくい。
それが例えたった一人の人だとしても。

わたしは、心配性な母から、「あなたが死んだらわたしは悲しくて、どうしていいか分からない、だから先には死なないで欲しいので、外出先では気をつけて。」
と送り出される日もあって、どうも命とやらは自分一人のものではないらしいというのを感じていたので、思春期の波も、乗り越えられた。

そう考えると、あの日の電話は友人が自分はまだ生きているか?
という電話であり、わたしは会ってお前は生きている、変わらず友達だ、好きだ、と伝えるタイミングだったのだと亡くなって初めて気付いたのです。

あの時好きだと言えてたら。
変わったかもしれないし、変わらなかったかもしれない。
それは分からない。


でも今もし言えることがあるとしたら、1つだけできることがあるとすれば、わたしはその友人を忘れないということ。

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