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末寺の末事 89
で、鯔の詰まり何が申し上げたいのかと言えば、何のことはない。頭で考えても「苦悩」しかないことが解ったから、頭で考えたって解らないものに救いを求めた。ってことは、信じて仰ぐって世界に、つまり脳から心に救いを求めて逃げ込んだとも言える。
逃げたって表現は反感を覚悟。スミマセン、語彙がない馬鹿です。
でも、それって、脳にない救いが、心にはある、という確証にはなってないけどね。だから信じるんだろうね。確証があって、解ってしまったら最後、それは信じてるじゃなくて、知っているんだから。
どうもフワフワしてる。信じるって世界が、フワッとしていると、満ち足りて穏やかに安らぐ心も、それに対する感謝の念も、同じようにフワフワフワッとしたものになる。
しかし、信が固まったら、それは確固たる知になるワケで、矛盾してしまう。
…まぁ、フワッとしてちゃ救われない、って確証もないけどね。
to be continued
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