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末寺の末事 161
生きてるうちは阿弥陀仏を仰いで、死んだらお浄土に生まれたい。
今生には本願を信じて かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ
終の棲家は末寺で楽園、死んで往くお浄土。安心安心、辺地や仮土でも構わない。永い年月がかかっても、いずれは浄土往きの確変状態。そもそも時間なんて概念どーでもいい。
信ぜざれども、辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願(第二十願)のゆゑに、つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。
あれだけ怯え続けていた焦燥感のようなものも、不思議と温まり解れていく。顕める、諦感するってこーゆーことなのか…いや、違うだろーな。こんな次元の低い覚りなんて愚かしいけど、ただ感謝と反省を幹にして日々念仏する。
心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
to be continued
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