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【エッセイ】消えたハンガー

「なんで落ちてるんだろ」
 仕事から帰ってきた私は、ベランダに干してあった洗濯物を取り込んだ。そしてあることに気づき、恐怖に陥った。

 その日は朝から快晴だった。窓を開けると、すぐ近くを走る電車の音が部屋に入ってくる。一週間前までは静かな山奥にいたのに、今は転勤で引っ越してきた都会にいる。慣れない生活音に戸惑いながらも、私は洗ったばかりの服やタオルを順番にベランダの物干し竿にかけていく。パーカーや薄手のシャツは針金で作られた細く白いハンガーにかけ、下着や靴下は洗濯バサミがついているゴツめのハンガーに吊るす。
「よし、これで終わり」
 最後に小さいタオルは余ったハンガーにかけて、パーカーの横へ。今日はよく乾くだろう。
 私は窓を閉め、意気揚々と家を出た。その夜の恐怖も知らずに。

 仕事終わりの電車の中、夕飯は焼きそばにしようと考えていた。頭の中が焼きそばで溢れながら、ドアを開け、ジャケットを脱ぐ。洗濯物を取り込まないとと思い、窓を開けた。そこで動きが止まる。
「なんで落ちてるんだろ」
 目の前には物干し竿にかけたはずのパーカーとシャツ、そしてタオルが落ちていた。他の大きなタオルやズボンなどはかかったままだった。
「風強かったかな」
 なんとなくイヤな感じがしながらも、私は落ちた衣類を拾い上げ、埃を払うと、そのまま他の衣類も取り込んだ。

 期待通りに乾いた洗濯物をたたもうとした時にあることに気がついた。パーカーとシャツ、タオルをかけていたハンガーがないのだ。ベランダに落ちたままなのではとすぐに窓を開ける。しかしハンガーはなかった。三本も落ちていればすぐに分かるはずだが、周りには跡形もない。ベランダの下を覗くが落ちてもいない。洗濯物に紛れたのかと改めて見るもやはりない。これを三回繰り返し、見つからないと確信した瞬間、ゾワッと背筋に冷たいものが走る。誰かが入ってイタズラしたのか。慌てて部屋の中で取られていないものがないか確認する。幸いなことにハンガー以外は無事だった。

 しかし、得体の知れない恐怖に襲われ、取り乱しはしないものの、すっかり焼きそばを食べる気がなくなった私はとりあえず警察に相談することにした。ハンガーがなくなっただけだが、誰かが侵入したとしたら冗談では済まされない。
「事故ですか、事件ですか」
 この時点でこれはなんだろうとすでに迷う。だが、万が一を考えると致し方ない。今の私には頼れるものがないのだ。
「あの…事件っちゃ事件なんですけど…」
 私は起こった出来事を時系列に話す。話せば話すほど対応してくれた警察官のなんとも言えない雰囲気が電話越しに伝わってくるのが居た堪れない。けれど、都会に暮らして間もないのに、干しておいた洗濯物は取られず、複数のハンガーだけがなくなったら誰だって怖くなるだろう。

「近くにいる警察官に行ってもらいますね」
 電話を終えると、自分の手が震えていることに気づく。警察官が来てくれたら解決するだろうか。
 落ち着かないまま、ダメ元でネットで調べてみる。『洗濯物 ハンガーだけない』。すると、「二日続けてハンガーがとられました。洗濯物は取られていません」という質問が出てきた。慌てて読んでみると、今日の私に起きた出来事を見たのかと思うくらい、ほぼ同じことが書いてあった。質問の日付は13年前。そんな前に私と同じ恐怖を味わった人がいたのだ。

 そして、いくつかの回答もあったのだが、犯人はカラスだという。カラスが巣作りをするために、3月から5月にかけて針金のハンガーを持っていくのだという。カラスなら衣類などに興味はないので、残っていた理由もつく。警察に連絡した時点で人間以外が犯人とは思ってもみなかった。やはりそれなりに動揺していたのか。

 カラスか…と思っていると、警察官が来てくれた。ひと通り起こったことを説明し、現場も見てもらう。しかし、カラスの話はあまり信用してない様子だ。
「大通りに面しているので、ベランダをよじ登るのは難しいですし、手すりにも擦った後などはないですね」
 警察官も首を傾げる。一緒に干してあった下着も取られていないことも確認する。
「イタズラ目的だと、下着とか衣類を持ってかれるんですけどね。ハンガーだけって不思議ですね…。僕も初めてのケースです」
 警察官のおかげで、とりあえず人が入った形跡はないことが分かっただけでも安心できた。

「被害届どうします」
 ハンガー三本取られたのは痛いが、もう二度と戻ってこないだろう。どこかの木に引っかかっているに違いない。
「…出さずにおきます。またハンガー買ってきますから」
「まあ、また取られるかもしれないですけどね」
 警察官もカラスだと思ってるんじゃん、と心の中でツッコミながらも、わざわざ来てくれたことへのお礼を丁寧に伝えた。

 結局犯人は分からずだが、カラスということにしておこう。警察官のおかげで怖さはなくなったものの、今度は明日からの洗濯物をどう干すか新しい問題に頭を悩むこととなってしまった。

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