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「窮鼠はチーズの夢を見る」を観に行った話(ネタバレ無し)

※ストーリーとしてのネタバレはありませんが、登場人物についてはめちゃくちゃ語ってます。そういうのが苦手な方はご注意ください。

先日、同じ部活の友人2人と映画館に行き、「窮鼠はチーズの夢を見る」を観に行った。もう1人は既に1回観ていて、ぜひとも私に勧めたい、とのことだったし、純粋にCMなども見て気になっていたので、観に行くことに決めた。

ちなみに、事前情報も一切入れずに行った。唯一知っていたのは、さとうほなみさんこと、ゲスの極み乙女。のドラムを担当しているほな・いこかさんが出演しているということ。それだけは、彼女自身のTwitterを見て知っていた。内容については、ほとんど何も知らない。あらすじもネタバレも、一切踏まずに劇場へと向かった。漠然と、恋愛映画だということは耳に入れていた。


私と恋愛作品

そもそも私は今までに、恋愛映画というか、恋愛を題材にした作品にあまり触れてこなかった。小説は特に読んでこなかった。ガッツリと恋愛を本筋とした話は、触れるのが怖かった。私の思い描く恋愛と、世間で面白いと消費される恋愛の違いに打ちのめされて、傷つくのが怖かった、というのが正しいのかもしれない。世間や一般で好まれている、大衆的な恋愛モノというのは、恋愛においての「こうあるべき」を押し付けているようにも感じて、嫌だった。恋愛なんて多種多様で、一つとして同じ恋なんてないのに、終着点はこうであれ、幸せであれ、と強要されていて、相手を想うことだけに集中させてくれない感じが、嫌いで。これは理想論かもしれない。恋愛の醜悪さを覗き込めない私は、未だに憧れでしか恋ができないようだ。同じように、憧れのような恋しか見たくもないようになっていた。

そして、私は今恋をしている。詳しく語ることはあまりできないし、もちろん、どんな相手かも秘密だ。自分の中でもちゃんと整理がついていないのだけれども、月日にすると2年強の間やらせてもらっている。不器用ながらも、ずっと好きで居続けている。ありがたいお話だ。そんな私がこの映画を見ると、どうなったか。


感じたこと、と書いて感想、思ったこと、と書いて思想

いや、めっちゃ泣いた。
真に迫りすぎて、理屈じゃ迫れないくらいに泣いた。とにかく泣いた。

映し出される行動から伺える感情すべてに私の恋心が共鳴して、何も考えられなかった。感情が嵐のように私の中をかき乱した。ただ、涙が止まらなかった。エンドロール後もその暴風のような感情が抜けず、席を立つことができなかった。ハンカチで目元と嗚咽を抑えていると、友人らに「やっぱりそんだけ泣いてると思ったよ」と優しく笑われてしまったぐらいに。

この映画が絶賛されるワケは、
私のような人間にも、恋愛に心から本気になれない人間をも等しく描ききり、またその残酷さを最上にも近い形で切り取ったところにあるのだろう。

恋は最も美しく、またそれが愛に代わろうとする瞬間は最も醜い。その実態を持たない難しさを、この作品は見事に表現しきっているのだ。

原作はコミックスらしい。エンドロールを呆然と見つつ、初めて知った。


登場人物の心理を考えてみる

さて、主人公の紹介とかめんどくせえなー、とか思っていたら公式サイトに素晴らしい紹介文が載っていたので、それを引用させてもらう。〈STORY〉の項だ。

学生時代から「自分を好きになってくれる女性」ばかりと受け身の恋愛を繰り返してきた、大伴恭一。ある日、大学の後輩・今ヶ瀬渉と7年ぶりに再会。「昔からずっと好きだった」と突然想いを告げられる。戸惑いを隠せない恭一だったが、今ヶ瀬のペースに乗せられ、ふたりは一緒に暮らすことに。ただひたすらにまっすぐな想いに、恭一も少しずつ心を開いていき…。しかし、恭一の昔の恋人・夏生が現れ、ふたりの関係が変わりはじめてゆく。

恭一(きょういち)という人間はこう書かれているように、相手が欲してくれること=好き、と捉えている人間だ。恋とか愛だとか、そんなことを自分が考える暇もなく、その応対する人間の「望むであろう姿」を使い分けて、いわゆる上辺だけの関係を続けることを恋愛だと思っている(と、私は解釈した)。そんな上辺の関係は、始まるのも終わるのも一瞬だ。だが恭一はそれを辞めたいとか、変えなくてはいけないとも思っていない。むしろ、「そういうものだろ」と諦めともつくような思考をしていて、それ以外の恋愛の深い辛さなどを知らないように見えた。その方が楽に生きれることを知っていたのかも知れない。

対して、そんな恭一に想いを寄せる今ヶ瀬(いまがせ)は、恭一とは真逆の人間だ。同じ人間を、8年間も好きで居続けた。同性であり、浮いた恋愛関係が絶えない先輩。そんな人間に恋し続けるなんて、普通ならすぐに諦めてしまうだろう。
だが、恋愛においての「普通」とは、何だろうか?そもそも存在しているのであろうか?何も知らない外野が勝手に推察して、踏み荒らして、理解した気になっていいものなのだろうか。好きという感情と、普通という概念は、もはや対義語といってもいいくらいの場所に在る。好きは人それぞれであって然るべきだし、普通は、個々の中の平均して起こる事象をまとめて言ったものだ。個人の中にあるといった点では同一であるが、向けるものによって抱く感想が大いに異なっている。その点、好きは暴力だ。普通は、陰湿ないじめだ。前提として括る事がまず間違っている。

話がちょっと脱線した。気を取り直して、作中ではあまり今ヶ瀬の恋愛関係が表面化して描かれることは少なかった。それ故以下の文章は妄想になる。
彼にとっては、恭一を想うことこそが「普通」になっている。その気持ちはずっと消えることがなくて、消そうとしても消えなくて。お腹が空いているのに食欲がないような、喉が渇いて仕方がないのに飲料が近くにこれっぽちもないような、どうしたって満たされない絶望。何かが足りなくて、その足りないものは分かりきっているのに、どうしたって手に入らない絶望。

誰かを想うことは強制されているわけでもないのに、続けなくてはと思ってしまう。その想いの切れ目が玉の緒の切れ目だと思ってしまう。その感情も、分かる。分かるというか、共感性が高すぎて、いっそのこと恥ずかしくなってしまうくらい、自分のことだと思った。無理くりにでも、それがきっと正しくないと分かっていても、藁にも縋る思いで延命を図るのだろう。それが自らの恋心の首を絞めることを、頭の片隅で悲しくなるくらい知っていても。

恋している人間に「諦めろ」ということほど、残酷なことはない。まして、想いを寄せている人間から告げられることは、恋において一番残酷とも言えよう。それをやってのけるのが、そうさせるように仕向けてしまうのが、夏生(なつき)という人物だ。いわゆる当て馬的ポジションなのだが、とってもいいキャラをしている。ここでは友人の夏生に対する解釈が素晴らしかったので、そこを引用させてもらう。

――夏生が出てくるまでは2人の、人間対人間としてのむず痒い恋模様だったんだけど、夏生が出てきた瞬間、世間的に見た「ゲイ」という社会的な壁が芽生えて、一気に物語に奥行きが出るんだよね。社会に引き戻される、というか。

全くもってこの通りだ。夏生、というキャラクターはこの作品において、社会との橋渡し役を果たしている。作品と私たちの生きる世界を繋ぐ、経由地として。
世間的に見れば夏生は正しい。でも、今ヶ瀬の恋心を知っている私たち観客は恭一に今ヶ瀬を選んでほしい、と思ってしまう。その恋心を汲み取ってくれ、と祈ってしまう。

その祈りこそが、この映画の心髄だ。


「窮鼠はチーズの夢を見る」のスゴイところ

心底惚れるって、すべてにおいてその人だけが例外になっちゃう、ってことなんですね。

公式サイトにも載っている、今ヶ瀬のセリフだ。

この言葉の意味を自分のことのように理解できる人もいれば、いない人もいる。この言葉が響く人は、今すぐ劇場に駆け込んでいい。そしてその人は、私のように今ヶ瀬の感情に深く、心を掻き乱されることだろう。一度でも深く恋をしたことのある人ならば、この映画は良い昇華剤となってくれる。

この言葉が聞けるのもまた、どうしようもない場面なのが良くて、切ない。
本質をとらえたこの言葉が聞けるだけでもこの映画はスゴイのだが、ここでは終わらない。

広報の性質上、端的に述べられた極論は目を惹きやすい。それ故、今ヶ瀬のように恋愛に全てを費やすだなんて、馬鹿じゃないか。だとPRや公式サイトを見て思う、恭一タイプの人もいることだろう。そんな人間たちのことも、この映画は刺しにきているのだ。

本気で恋をしたことのない自分に、本気で恋をしてくれている人がいる。その恋心は自分には理解できないし、かなり気味が悪い。それなのにどうにかしてあげたいなとは思う。だって、その人を傷つけたくはないから。その好意を無下にすることだけは違うと分かったから。だけど、なぜか自分のやり方ではその人を救うことができなかった。愛してあげることが、出来なかった。自分は、何が、間違っていたのだろうか。一から相手と向き合う必要があることに、やっと気が付くのだ。それを知るには、既に遅かったのかもしれない。恋には次があったとしたなら、それに生かせる経験として捉えると、適当な時期だったと言えるのかもしれない。
でもその人が救えないことに変わりはない。それに気が付いたとき、本気の恋を知る。ほんとうの恋の美しさと、深く恐ろしい醜さを。

両極端な2人を登場人物とすることで、恋に対する沢山の考え方をターゲットにできているのが、スゴイ点その1。
尚且つその考え方が芯を食っているため、過去現在未来どの地点の観客をめった刺しにしようという気概を感じさせるのが、スゴイ点その2。
恋の幸せな部分に至るまでと辛い部分をきっちりと描いて、どの感情をも説明が付くようにしてあるのが、スゴイ点その3。

ここまで共感性を散りばめているからこそ、この映画はスゴイのだ。


おわりに、と書けば何でも許されると思っている、乱雑な気持ちの羅列

「窮鼠はチーズの夢を見る」、本当にスゴイ映画だった。あんだけ作品に泣かされたのも久しぶりだ。映画が始まる前の、近日公開の違う映画のCMにも感動して泣きそうになるような人間。それが私なので信用が無いと思われそうだが、この映画の共感性はどんな人間にもあると思うので、安心して観に行ってほしい。泣くとか、泣かないとかそんな感情の発露は関係なく、何かしらを自身の心に残せると思うから。
ただ一つ苦言を呈するとするならば、場面転換が急な事ぐらいか。監督の作風なのかどうかは知らないのだが、突然視点が切り替わったりするので感情だけがポツンと置いて行かれて、現実が淡々と進んでいくのが人生そのままでちょっぴり辛かった。その点では、この映画のリアリティを演出していて良かったとは思う。私はちょっとついていけない場面があった。感情が、ノロマなので……。

私は恭一か今ヶ瀬かで言うと、完璧に今ヶ瀬タイプだ。恋心全てを、相手に注ぎ込んでしまうタイプ。それらがいいとか悪いとか、そういうことが言いたいのではなくて、どちらにも良さがあって、それぞれダメなところがある。
片手間の恋は深く傷付かなくて済むし、本気で恋をすることは相手に触れたときの喜びは計り知れない。逆も然り。心から恋ができないと、人との縁はすぐに絶えてしまうし、身も心も捧げる恋は全部を擦り減らして何もかもを見えなくしてしまう。要は、その好意を受け取る側がどう感じ、どう応対していきたいか、どう付き合っていきたいか、なのだろう。

今ヶ瀬の何がズルいって、満たされない感情を他の何かしらで発散しようとして、結局できなかったところ。やっぱりその穴はその相手でしか埋まらないし、募る想いとは同時に、相手への過度な理想の積み重ねでもある。恋は長期戦になればなるほど、不利になりがちだ。裏腹に気持ちだけはどんどん肥大化して、抑えが効かなくなる。自分の中で多大な矛盾が生まれるのを感じても、どうしようもできない。それが後半の今ヶ瀬の行動や感情に深く現れていて、私もそこを深く汲み取って勝手に泣いてしまった。

……何だか、壮大なラブレターを書いたような気分だ。これが私の相手に届いていたらめちゃくちゃ恥ずかしいな。最近はそういうのも、なんかもうどうでも良くなって来たけれど。それがもし判明したら喉搔っ切って死のうかな。

というわけで、「窮鼠はチーズの夢を見る」という映画に少しでも気になるな~という気持ちがある人は、100%観に行くべきである。きっと見る時々の気分によって違う見方ができると思うし、恋人がいる人もぜひ観に行ってみてほしい。どんな感情を持つのかは皆目見当もつかないが、きっと恋人が愛おしくなることは請け合いだろう。大事にしてあげてね。
機会があればまた観たいな、この映画。

ではまた。

めっちゃ喜ぶのでよろしくお願します。すればするほど、図に乗ってきっといい文を書きます。未来への投資だと思って、何卒……!!