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自分と社会と濁流と

 社会は変わりにくいものだ。そう思っていた。

 近頃新型コロナウイルスの流行により、世界的な規模で外出自粛が叫ばれている。日本も例に漏れず、どこの誰が名付けたか「三密」といういかにもな名称なソレを避ける、テレワークの推進、学校で言えばオンライン授業や分散登校などが具体的な対策の一つだ。さて、本校でも実施されている分散登校であるが、実施すると通達された文章の中にあったとある一文に、私は少し違和感を覚えた。その文がこれだ。

「登校前、検温して健康状態を確認のうえ、発熱や咳などの風邪症状がある場合や、少しでも体調に不安のある場合は、自宅での静養をお願いします。」(本校メールマガジン、登校にあたって、五月十二日配信より抜粋)

 まず断っておきたいのが、私は元より身体が弱く、体調を崩しやすい体質であることだ。いわゆる普通の生徒のように、毎日元気に授業を受け続けたり、部活動に精力的に取り組んだり、といったことが難しい、できない人間であるのだ。こればっかりは自力ではどうにもならない。最近はそういう星の下に生まれたのだ、と半ば悟りのような諦めをしている。体調が悪いことがデフォルトである私にとっては、毎日の学校生活が無理の連続だ。現に今の休校期間であろうとも、頭痛に絶えず悩まされている。私がこれから言いたいことはこのご時世にこんなことを、と思われるかも知れないが……本心である。
 体調が悪いなら無理をしない、休んだことによってペナルティは課せられない。どうしてこちらがデフォルトにならないのだろうか、と。そう思ったのだ。何も体調が悪いからといったらすぐに休めるようにしてくれ、と言いたい訳ではない。そうなることが一番嬉しいし、そうでないことにより苦しんだこともあったけれども。

 私は同じようなことをテレワークという制度にも感じた。そう移行できる職種であったのならば、なぜ最初からそうしなかったのか、そう考えたのだ。その素早い対応の裏には多くの人間の、血の滲むような努力があったかもしれないのだが。いや、それにしても、だ。

 新型コロナウイルスの流行によって世界の在り方、社会の在り方や仕組み、日常が大きく変わっている。中には「それ、今じゃなくても変えられたんじゃない?」というようなことだって多々ある。非常事態だから仕方ない……?本当にそうなのだろうか。疑問に感じる。

 日本の国民性かどうかは分からないが、私たちは「変わること」を極端に恐れているのではなかろうか。変わることで良い方向に動くであろうことですら、その手間に甘んじて実行しない。そんなことで溢れている。現状維持が本当に最善策なのであろうか、いや、そんなことは無いだろう。今私は体調が悪ければ無理をしないこと、テレワークを例にあげたが、その他にもちょっと手を加えるだけで誰かが生きやすくなったり、手間を省き、効率化したり出来ることが多く存在しているだろうと考える。自己責任、という言葉だけで従来の形に囚われ、能力を十分に発揮できていない人たちがこの社会変化をキッカケに、生きやすい社会になって欲しい。

※在籍校での作文データを発掘したので載せました。若干の修正、加筆がありますが。

〈追記〉

 上記の作文モドキの愚痴を書いたのは5月中旬のことだったので、3か月経った今、現状で私が思うことを記しておこうと思う。きっとこれは、貴重な資料になることだろうから。

 8月初頭、私は思いっきり体調を崩した。あぁ、どうか身構えないで欲しい。私の病状はいわゆる夏風邪だ。貴方の風邪はどこから?私は喉から。2年前も同じように高熱を出した覚えがあったので、多分喉に来やすい体質なんだろう。そういえばあの時医者にかかって、点滴をされたんだっけ。左ひじ裏にぶっ刺されたまま固定された針がとにかく恐ろしくって、そこから絶え間なくずっとナニかが注入される感覚が気持ち悪くって、点滴が終わるまでずっと恐怖に打ち震え泣いていたことを思い出した。もう二度と、点滴は受けたくない。あと血液検査も。だって怖いからサ。
 話を戻そう。朝起きたときに喉の痛みを感じ、時間割と委員会の予定、体調を天秤にかけた後、私は欠席の連絡を入れてもらうよう親に頼んだ。正直、このときは弁当を作るのがちょっぴり面倒だったからというのがある。さて、休むことが確定してから病状を寝て直そうと努めるのだが……。なんと、喉の痛みのせいで全く深く眠れないのだ。眠れない地獄。睡眠は私の中でメガネの次に大事なので、文字通り死活問題。だがしかし、起きていようとしても、それはそれで喉の痛みが存在をはっきり主張して何もできない。冷えピタを喉に張り、うがいをしまくって布団にうずくまることで一日を消費する。声を出すのもしんどい時に限って饒舌で、腹の底が気持ち悪く疼くことを言う人間がどうしているんだろうか、といった点でも不快だった。
 翌日。熱を測ると37.5℃。やったわ、と思った。頭の左右の端に温かい靄がかかったみたいで、何かものを考えようとすると脳がキューっと熱くなって、上手く考えられなくなって。病院にかかり、診察の結果(ここでも小さな検査キットに針を刺され、採血された。怖かった。もう二度とやるもんか)ただの風邪だと診断された。ちなみにこの地点で熱は38℃を超えていた。そりゃふわふわもするわ。痰の切れを良くする薬とトローチを貰い帰宅。そこからの記憶はないが、母曰くしっかりと飯を食っていたらしい。
 そのまた翌日。熱は微熱に下がり、喉の痛みもピークを過ぎて、処方薬のおかげか鼻水が滝のように出てくる。依然と頭に靄がかかり、上手く物が言えないうえに何もできない。その後1週間程度、喉に痰が引っ掛かり続け、ぐうたら感が引き続くのだった。
 学校の最終5日間を休み、何なら夏休みの半分を体調の回復に潰したお陰で、貴重な時間を浪費してしまったような、もったいない気持ちだったが、どうせちょっぴり体調が良くてもおんなじような生活をしていそうなので、結局私はなんだかな~、というような感情でいる。

 そしてまあアレを書いた後、3か月を過ごして思ったことは「人間の感覚なんて当てにならない」ということだ。学校生活という普通の社会に関わる活動をする中で、徐々に私という一個性は無価値だと教え込まれているようで、ずっと呼吸がしづらかった。今まで過ごしてきた日常と違う生活だから?皆が皆、根底にとある人間不信を抱える中で、普段隠れている部分が底上げされて出てきたのだ。キャパシティーには限界があるから。というより元々、普段通りなんてものは存在しないのに。単純に私が他人と関わるのが得意ではないのも一因だとは思うが、多くの他人を見たり、また関わる中で、とにかく絶望しか感じなかった。どいつもこいつも辛気臭い顔をして、同じような顔をしていて(実際私はまだクラスメイトの顔と名前を一致できていない、努力はしているのだが)、そこから妙な連帯感を得て得意げな顔をしている。私はそれがとても気持ち悪く、不気味である。話の最初に言った「人間の感覚は当てにならぬ」だが、私を私自身で肯定しないと危険だということに帰結すると思う。自分の中で評価をある程度固定しておくことで、何事にも揺るがない気持ちを手に入れることができるのではないかな、なんて考えた。今回の件でそれが露見したというか、思考回路が別の方向に開けた、と言うべきか。いずれにしろ、少々は感謝してもいいのかもしれない。

 色々ごちゃごちゃと書いてきたが、とにかく、皆さん体調にはくれぐれも気を付けて。体調が悪いときは休んでもいいですけれども、その後ケツ拭くの自分ですからね、その点の根回しを忘れると着々と首を絞められるのでご注意を。あーあ、本当にヤな世の中ですよ。ちょっとくらい優しくしてくれたっていいんですけれどね。

現在進行形で苦しんでます。そんな生活です。

めっちゃ喜ぶのでよろしくお願します。すればするほど、図に乗ってきっといい文を書きます。未来への投資だと思って、何卒……!!