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「夢華録」の覚え書き(三)

(二)からの続きです。

闘茶

闘茶の場面でやたらと泡立ちに執着しているのを見て何のことやらと思ったのですが、劇中でも言及される『茶経』を見ると、既に唐代、茶筌に似た道具で粉茶を溶いて泡立てるという作法があったようです。劇中のようなラテアートめいたことまでやったかどうか、さすがにそれは分りません。
趙盼児が舞って見せるのは、相手の高級そうな道具から審判の注意を逸らすため、ですよね。まさか舞うことで茶の味が変化するわけではあるまい。「ムーンサルトプレスに入る前にどうして拳を握るのか」と聞かれた小橋建太が「威力が倍増するからだ」と答えたのを思い出して一人で悦に入ってしまいました。

高みの見物

池蟠が手下を率いて半遮面に乗り込もうとすると、思いきや別の一団(高家の連中?)と鉢合せになり、双方へっぴり腰で睨み合うのを書院の学生が楼上から見下ろして大笑いする。これはどうやら「用心棒」のオマージュでしょう。二十一世紀の中華ドラマに黒澤映画の影を見るとはちょっと意外なことでした。

帽妖

「帽子の形をした妖怪が夜な夜な出没して人を喰う」とはなんのこっちゃと思いますが、史書に記載があります。『続資治通鑑長篇』巻九十二、眞宗の天禧二年五月の記事にいわく。
丙戌、河陽三城節度使張旻言、近聞西京訛言、有物如帽蓋、夜飛入人家、又変為大狼状、微能傷人、民頗驚恐、毎夕皆重閉深処、以至持兵器捕逐。詔使体量、又命侍御史呂言馳往按本府長吏洎転運、提点刑獄司不即上聞之故。仍設祭醮禳禱。
帽子の蓋、現代風に言えばクラウンの形をした妖怪が、狼の姿になって人を襲う。ドラマでもセリフに使っていました。天禧二年五月丙戌(五月二十五日)は西暦に換算すると1018年7月10日ということになります。
少し経って六月乙巳の記事に、
是夕、京師民訛言帽妖至自西京、入民家食人、相伝恐駭、聚族環坐、達旦叫譟、軍営中尤甚。上慮因縁為姦、詔立賞格、募人告為妖者。既而得僧天賞、術士耿概、張崗等、令起居舎人呂夷簡、入内押班周懐政鞫之、坐嘗為邪法、並棄市、其連坐配流者数人。然訛言実無其状。時自京師以南、皆重閉深処、知応天府王曾令夜開里門、敢倡言者即捕之、妖亦不興。
とあります。天禧二年六月乙巳(六月十四日)は1018年7月29日に当ります。二十日間ほどの間に西京つまり洛陽から流言が伝わって東京の人々を恐怖させ、やがて沈静化した、ということのようです。ドラマではどういう味付けにするのか、楽しみです。

匂わせ

女三人で店を切り盛りして東京で勝負する、という趣向は「桃園の誓い」のオマージュかもしれません。
欧陽旭がヘトヘトになりながら山上の道観を目指す場面は水滸伝の冒頭、洪大尉のエピソードを連想させます。
全然関係ないかもしれませんが、繋げて考えるのは面白くもあります。

殿前司

殿前司という役所が出てきました。『宋史』巻百六十六、職官志第百十九に、「殿前司。都指揮使、副都指揮使、都虞候各一人。掌殿前諸班直及歩騎諸指揮之名籍」云々とあります。禁軍の取締りに当る役所のようです。
禁軍は大雑把に言うと近衛兵といった意味の言葉ですが、宋代では実動する軍事力は禁軍が一手に引き受けていましたので、実質「国軍」のようなニュアンスになります。その取締りに当るのだとしたら、殿前司とは憲兵隊のようなものでしょうか。憲兵隊と警察との関係と考えると、殿前司と皇城司とは、いかにも仲が悪そうです。

風骨

六朝時代の文学理論書『文心雕龍』に「風骨」という項目があります。いわく「是を以て怊悵として情を叙ぶるは必ず風に始まり、沈吟して辞を鋪ぶるは骨より先なるは莫し。故に辞の骨に待つは体の骸に樹うるが如く、情の風を含むは猶ほ形の気を包むがごとし」と。詩文の根幹にある気韻といった意味の言葉だと考えてよいでしょう。

凸凹コンビ

欧陽旭のことを嗅ぎ回る二人組は高家の手下でしょうか、絵に描いたような凸凹コンビが演じています。大衆芸能のお決まりとも言えましょうが、ひょっとしたら「用心棒」で三十郎を見張る丑寅の手下二人組に繋がるかもしれません。

劉皇后

前にドラマは仁宗の時代をモデルにしたのかと述べましたが、帽妖だの皇后の出自だのといった要素から眞宗の時代がモデルだとわかってきました。
劉皇后は眞宗の三人目(名目上)の皇后となった人。下流の生れながら聰明で、よく眞宗を補佐した。自分が腹を痛めたのではない皇子を我が子とした。ドラマでは立太子が行なわれないことに言及されますが、行く行くはこの子が太子に立ち、眞宗の死後に即位して仁宗皇帝となります。皇后というか太后は幼い皇帝に代わって朝政をとりしきりました。「垂簾聴政」は悪政の代表のように言われますが、劉太后の政治は評判は悪くないようです。ドラマではどういう扱いになるのでしょうか。

悪童

孫三娘が書院の悪童を懲らしめる。痛快な場面でした。
北京滞在中、清華大学の食堂で、附属中学の生徒達、当時のいわゆる小皇帝がお行儀悪く食事する様子を見ました。四半世紀経って、あの小皇帝どもも四十がらみ、中国社会の中堅層になったことでしょう。ちょっとした感慨を覚えます。

門蔭

蕭謂は科挙を受ける資格を得てないが何かの役職にはあるらしい。父が高官なので息子もそれなりの地位を得る、いわゆる門蔭というやつでしょう。宋代で言えば張載の門弟、呂大臨は挙業を事とせず、しかし大学博士の地位にあった。人に問われて「わざわざ父の恩恵を無にすることはあるまい」と答えたという話があります。ただし呂大臨が登第したと述べる史料もあります。

(四)へ続きます。

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