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言葉を不便な道具だと思うこと

私事ですが、40歳になりました。
アスペルガーの半生を振り返ると、言葉で人を傷つけ、言葉で人に傷つけられ、また言葉で人を慰め、言葉で人に慰められてきた40年間でした。
なるべく丁寧な言葉で伝えたいし、伝えてほしいと願って止みませんが、何て難しいことでしょうか。
事が起こるのは、話し手の問題ではなく、受け手の問題の場合もあります。

ある日を境に僕は、散文的な言葉の使い回しに、興味を失い始めました。
散文的な、と言いますのは、文章の見出しであったり、何かのキャッチコピーやスローガンであったり、あるいは本人が詩のようなものだと思ってSNSに投げる呟きのような類のものであったりします。

まず一つには、誰かが何かをしてみたいとか、何かをこういう事だ、と言ったところで、それを裏付ける根拠が事実として無ければ、今の時代においては容易く信用できないのです。
もう一つには、誰かの発言を素晴らしいと言ったり、批判したりしても、それを発言した状況を事細かく理解していない段階では、評価を共有できないと思うからです。

興味を失い始めたというのは、囚われなくなってきたということです。

これでも過去には、詩や文学にも人並みに親しんできたし、今でも心に残っている感動というのは、散文的な言葉で紡がれてきたものも多くあります。
それでも最近はどうにも、言葉なんて所詮、言葉でしかなく、何とも不便な道具だと、そんな風に思っています。

しかし、道具たるもの不便であれ、というのも、僕の40年間で築き上げてきた哲学の一つです。
20代から付き合い始めた鋸、鑿、鉋といった木工道具から、僕はそれを学びましたし、今付き合っているコンピューターでさえもそうです。
不便さの中でこそ、人は思い上がらずに自身を顧みることができ、また自己を開発できるものだと信じています。

聞く、話す、読む、書く。これからも程々に距離を置いて、上手く付き合っていきます。


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