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2020年6月

 六月は夢に明けた。九月一日、夏休みのおわりに、友人とひさしぶりに会って、街をただ歩いている。やけに開けた道に闌けはじめの日が降り注いでいた。コンビニに入って硬貨を渡すと、カステラのような氷菓子を手渡される。うすい氷の層が黄から茶へと移り変わるそれに、球体の回転を思う。横断歩道をずいぶんと長い間渡っているのだけれど、向こう岸は見えないままだ。食虫植物の舌はつるりと甘く、落ちていくのにきっと気づかない。わたしたちは歩いた。「夏のあいだどのぐらい歩いた?」「それって十キロ以上歩いた日のこと?」「そう」「それなら五月は多かったかな」そうしてその月の歩数の記録を見せるのだけれど、わたしは歩いてなどいない。夢だと気づくとしばらくは身体だけ氷のなかにいる。その年の夏のことを思い出そうとしてみる。

 じっさい、ほとんどの時間を眠っていた、あるいは眠るようにうつうつと過ごしていたのだ。いま目の前にあることがとても少ないから、起きている時間はだいたい昔のできごとを流していた。流されていた。わたしには生家と呼べる家はもはやないのだけれど、実家と呼べる家たちのこと、それを紐づける人たちのことは、痣の記憶として、胸で、腹で、頬で……覚えている。その家たちから逃れても、わたしの中に家はありつづける。死体の埋まっている家が。事実、それは丹念に埋めてあるのだけれど、暴かれるかもしれないという恐れから、死体であった自分の手で何度も掘り返すことになるのだった。その手をとれば泥になることはまぬがれない。開け放たれた窓からは月が見えている。労働の時間だった。

 身体を動かしている間だけは、ほかの時間で起きたことを追いやっておくことができた。きょうだいとの協議の末、数年ぶりに梅酒を漬けた。水に浸かっているあいだ、梅はのっぺりとどこか無機質で、うぶ毛の感じのするあの匂い(この感じは桃にもある)とはまったく無縁であるように見えた。ブランデーに漬けてしまえばあとは砂糖が溶けて、梅がしなびていくのを待つだけだ。思えば最後に梅を漬けたのは、こちらに来るまえのことだった。愛すべき生活というものが、あそこにもありえたのだろうか。いずれにせよ梅の匂いは、満たされながらあるささやかな幻の生活と、いつまでも連れ立っている。

 匂いにまつわる感覚はまるっきり引用で、たとえば『half of it』での電車との並走は映画内の別のシーンの変奏であり、繰り返し、わたしたちに物語の型として仕込まれてきたものをあえてやることの、身投げする叙情だった。この映画は、生き方や感じ方の型のなかでうまくやれない彼女たちが、すでに書かれた言葉を借りながら身を寄せ合って、別々に出ていこうとする物語でもあった。『アイリッシュマン』では、かれらの出会いの記憶が呼び寄せるように、パンをスープに浸しながら食べるシーンが酒場から刑務所に場所を移して再生される。かれが手ずから殺めた別の友人の、眠るときドアをすこし開けたままにしておく習慣が、そのまま別の友人への消えない懺悔となって、映画は細い光の筋を残して終わる。わたしたちに偏在する回想のあやが、離れて見るほどに定型化する生を固有であることにつなぎとめる。

 おろしたてのサンダルのゴムのにおいはビレッジバンガードのにおいとよく似ている。昔はあのにおいが苦手で、十代も終わりに差しかかる頃まで入っていくことができなかった。同じような理由でコンビニに入るのはとても嫌なことだった。コンビニのにおいがましになったのか、わたしの鼻が悪くなったのかわからないが、コンビニはいまはもう無臭だ。安全で安心な。ミルクタイプの日焼け止めもまた、安らかなにおいだ。日なたの、似島という小さな島で子どもだけで昼間を過ごした、いくつかの夏の日々とつながっている。手の甲についたにおいを嗅ぐと、満たされた記憶だけがもつ懐かしさで目の奥が覆われていくのだった。

 しかしそれでも人の気配は失われていく。ずっと人と会わないでいると、会うべき人のいない世界に住んでいる心地になる。夏至が近づくにつれ眠りが崩れてゆき、もはや淋しさは存在しない。人がいないのだから。といってもやはり、熱は失われているのだ。友人たちとの通話がどんなにうれしかったことか。友人の、スーパーに行くのは工夫して十日に一回ほどに抑えているが煙草の方はいつもどおりなので最近は煙草にかかる費用がいちばん大きいのだという話に、人と話すときのうれしさのありどころを思い出した。その人に特有の生活や考え方の癖のようなものが見えるとき、自分だけの暗い部屋を抜け出すことができる。このように他者が発見されるまでは、他人はいつも煮えたぎる穴、あるいは沼だった。

 雨の重さに眠り通してしまうのは例年通りであるなか、それでも今年はなんとか生活を回しつづけ、六月の昼間にはじめて外を出歩いて、夕方の涼しさに息をつけること、その涼しさのなかで疲れもまたゆるんでいくのだということを知った。そうしてうつうつと眠りに戻るあいだ、向こうにいたときに唯一先生と呼び慕っていた人と会った。出会ったとき、これが夢なのだということ、先生をやがて失うのだということをわかっていて、ぼろぼろと涙した。先生に抱きとめられたのか、抱きとめられたいと思っていたのかはもうはっきりとしない。ゆきもどりつつ真夏へと傾いていく季節としての六月は、雨に流されていく。晴れ間に向けて足の爪を整えるとき、脳裏で太い枝を断ち切っている。植木鋏の影が、爪の中の細かな層を見せる。この凹凸を丹念に埋めて色を塗ってしまえば、歪みやひび割れもないのと同じことになる。つるりと機嫌のよいすがたで、ふたたび日あたりを歩くのだろう。

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