私のお気に入り

 青い太陽の下を歩いていると、なんだか無敵になったような気がしてくる。恐れも無い。憂いも無い。この世の全てが味方で、この世の全てが正しい。陽に照らされた街はいつもと違った輝きを放ち、鳥のさえずりは運動靴と隣のローファーの靴音によって新たな音楽に生まれ変わる。正面からは肌に溶ける優雅な風が。スカートも靡かない程度だけど、おセンチな前髪には少々強かったらしい。軽く握られた手から小指を突き立てて、沙友里は前髪をちょんと撫でた。
「コミュ英の最後の並び替え何になった?」
賢吾は特に関心もないように尋ねる。
「多分、にーよんいちごーさん」
ああ間違った。時間が無くて直感で並べた数字はかすりもしていない。これで最大九十五点。まあいい、テストの話はこれ切りにしよう。賢吾は大きく伸びをして、新鮮な空気を身体に取り込んだ。
「違った?」
「いや合ってる。てか今からどうする? とりあえずファミレス行く?」
「うん。それでいいよ」
沙友里の横顔がしとやかに笑った。すると、背後からエンジンの低く唸る音が聞こえてきた。高校前を経由する市営バスだ。正面に電信柱があったから、二人はその後ろで立ち止まってバスをやり過ごすことにした。のっぺりとしたフロントガラスから、男女問わず黒髪にワイシャツ姿の生徒がたくさん乗っているのが見える。みな同様にテスト開放の喜びを分かち合っているはずだ。多くがスマホに目を落としている中、数人が立ち止まる二人の姿を見ている。賢吾はその視線に優越感を感じずにいられなかった。振動と共にバスの最後尾が電信柱を通過すると、二人は再び並んで歩き出した。賢吾は確かめるように遠ざかるバスの窓から沙友里の方へ視線を移す。沙友里はそれに気づいて互いに顔を見合わせた。そして、ほぼ同時に顔を綻ばせ、ほぼ同時に目を逸らした。不意に見てしまった沙友里の胸元には、いつも通りピンクゴールドが輝いていた。

 沙友里の制服の胸ポケットには、いつもボールペンが入っている。メタル製のスタイリッシュなやつで、ボディ部分の桜色とクリップやペン先のピンクゴールドの組み合わせは、沙友里の雰囲気によくマッチしていた。格好良くて賢吾もつい真似したくなったけど、沙友里との関係をわざわざ強調するのも気が引けて、結局やっていない。沙友里は、初めからボールペンを入れていた訳では無かった。だから当初は友達からもよく理由を訊かれていて、その度に「なんかいいかなと思って」と困ったように答えていたけど、今では彼女の立派なトレードマークになっている。賢吾も明確な理由は知らない。でも心当たりが無いのかと言われれば、それは嘘だった。

 駅近くのファミレスに入ると、すぐに案内された。店内を一望できる角のテーブル席。沙友里に奥の席を譲って、賢吾は通路側に座った。平日の上に早い時間だからお客さんは少ない。年齢職業不詳の客がぽつぽつと、あとは小さな子供を二人連れたママさんがいるだけ。リュックを隣の席に置くと、己の存在を叫ぶようにプラスチックの箸が音を立てた。テストが午前中で終わることはもちろん親には言っていない。弁当をどのタイミングで処理するか、頭が痛い所だった。メニューを机に広げると沙友里は早々にカルボナーラに決めてしまったから、賢吾は目に入ってそこまで高くもなかったハンバーグステーキに決め、早速店員を呼んで注文をした。もちろんドリンクバーも頼んだ。
「ジンジャエールでいい?」
店員が去り、賢吾が席を立ちながら尋ねると、「うん。ありがと」と沙友里は短く言った。藍色のカーペットの上を進み、ドリンクバー隣のトレーからグラスを二つ手にした。ピクッと頭頂部の髪が立ち上がった気がして、店の上の方を見やる。何だっけこの曲。スピーカーから流れているジャズ風のBGMに聞き覚えがあった。曲名は元より、どこで聞いたかも覚えていない。でも美しさと儚さを併せ持った雰囲気のいいメロディで、つい京都に行きたくなる感じだ。賢吾は頭で旋律をなぞりながら二つのグラスにジンジャエールを注ぎ、慎重に通路を戻った。左手のジンジャエールの方が多いから沙友里のにしよう、ついでにそんなことを思っていた。

 左腕を伸ばして、沙友里の前にグラスを置いた。
「ありがとう」
席に着くなり賢吾がグラスを傾けると、沙友里も後に続いた。賢吾は半分、沙友里は三分の一ほど飲んだ。
「ねえ、中学の修学旅行って京都だった?」
「ううん」
え。賢吾は驚いた。自分で訊いたとはいえ、否定されると思っていなかった。
「どこ行ったの?」
「広島」
「へえ。じゃあ原爆ドームとか?」
「うん。だからあんまり面白く無かった」
「まあそうだろうね」
沙友里が爪でグラスをコツコツと鳴らしていた。分かってる。この時間にすることは、初めから決まっている。
「じゃあ、暇だしまた何か描いてよ」
「いいよ」
沙友里は事前にプログラムされていたかのように紙ナプキンを一枚取ってテーブルに置き、胸ポケットから桜色のボールペンをスッと取り出した。
「じゃあね、並んで泳ぐラッコ」
「ラッコね」
沙友里は考える風に左上に目線を上げた後、ペンを走らせ始めた。硬いテーブルに厚い紙ナプキンの組み合わせだから、ペンもどういう音を出せばいいのか分かっていないみたいで、釈然としない音が断続的に鳴った。賢吾はその音を聞きながらスマホを取り出しパズルゲームを起動した。ただ、すぐにそれを閉じる。
「はい」
しばらくすると沙友里は紙ナプキンを回転させ、賢吾の前に差し出した。賢吾はスマホを脚の間に隠して、それを手に取る。
「うまいなあ」
並んで泳ぐラッコは共同で編み物をしているようだ。真ん中には貝殻の模様が施され、仲睦まじさがありありと感じられる。
「これは誰に向けた編み物なの?」
「子供かな。それとも二人で巻くマフラーかも」
設定までかわいい。無駄な線が一切無く、恐ろしく上手に描かれている。かわいいで売っているこの世のキャラクターは全て問題ないくらいだ。
「早くイラストレーターになってよ。絶対売れるよこれ」
沙友里は静かに笑っていたけど、否定はしなかった。
「いい? これもらって」
「うん」
賢吾はリュックの広いポケットにそれを入れた。沙友里は少し遠慮がちに新たな紙ナプキンを取り出している。まだ時間はありそうだ。
「じゃあね」
少し、いたずらなことを考えていた。
「拗ねてるパンダ」
「拗ねてるの?」
「そう」
沙友里はまた左上に目線を上げ、そしてペンを走らせ始めた。賢吾はジンジャエールを口にしながら描き始めたのを確認して、隠していたスマホを取り出す。画面上で親指を動かし、背もたれに寄りかかると同時にスマホを顔の前に持ち上げた。画面に映っているのはパズルゲームではなく、黙々とペンを走らせる沙友里だ。
 沙友里は、拗ねてる顔をしていた。
 眉を顰めて、唇をとんがらせている。賢吾は親指の爪で表層をなぞるなどしてあたかもパズルゲーム中を装いながら、沙友里の一挙手一投足を画面に収めていた。パンダの目の部分を描いているのか、ペン先で紙ナプキンを何度も引っ掻いているが、それでも表情は拗ねたまま。賢吾はついに制御できなくなった口角を手で覆い隠した。なんでこんなにも純粋なままでいられるのか、賢吾には分からなかった。

「あんま上手く描けなかった」
沙友里はそう言いながら賢吾の前に絵を差し出した。今回は表情の緩みで描き終わるタイミングが予測しやすかったから、既に録画は終えている。作品と共に、またお気に入りの動画が一つ増えた。
「すげえ。これはどうやったって拗ねてるわ」
パンダは切り株の上に座ってうなだれ、だらしなく開いた両足の間の地面を笹でカリカリとしている。パンダの拗ねた顔だけを忠実に描くのではなく、その行動や雰囲気でパンダの憎めないかわいさまでも演出していた。
「これの何がダメなの?」
「顔と身体が繋がってないみたいで、なんか着ぐるみっぽくない?」
「そう?」
まあ、言われてみれば丸々とした顔の割に身体の節々がはっきりしすぎている気もする。
「でもいいんじゃない。動物園でバイト中に手違いでパンダの檻に入れられちゃって拗ねてるかもしれないし」
「それ拗ねるじゃ済まないでしょ」
笑っていると沙友里の目が何かを見つけた。若い男の店員がこちらに向けて歩いて来ている。賢吾が確認のためにパンダの紙ナプキンをチラつかせると、沙友里は胸ポケットにボールペンを装着しながら、眉毛を上げて返事をした。絵をリュックにしまうと、ちょうど男が到着した。かなり背が高い。髪はきちんとセットされ、精悍な顔つきをしていた。男の問いかけに沙友里は控えめに手を上げ、男はえんじ色の盆に載っていたカルボナーラを彼女の前に置き、「失礼します」と会釈をした。沙友里はそれに応じた。
「どうしたの?」
男の背中を目で追っていた沙友里に、賢吾は訊いた。
「いや、あんな若い人も働いてるんだと思って」
「大学生?」
「多分そうじゃない?」
沙友里は特に関心も無いようにそう答えてジンジャエールを一口飲むと、ご丁寧に足の上に手を置いた。カルボナーラからは白い湯気が続々と逃げ出している。
「パスタだし、先に食べていいよ」
「ううん、待ってるよ」
沙友里はこういう時、頑なに先に食べようとしない。もちろん礼儀正しくはあるけど、パスタぐらい先に食べればいいのにと思ってしまう。
「じゃあさ」
賢吾はスマホを取り出して、目的があるように親指を忙しなく動かして見せた。
「俺、描いてみてよ」
返事を待っていると、知らないジャズの断片が耳に入って来た。チラと目線を上げると、沙友里は微笑をしたまま固まっていた。
「人とかあんまり描けない?」
「描けるけど、嫌だよ」
「なんで?」
「だって見せなきゃいけないでしょ? 上手く描けなかったら悪いもん」
「いいよ全然。それにうまいから大丈夫だって」
「えー」
沙友里はそう言いながらカルボナーラをよけて紙ナプキンをセットし、胸ポケットに輝いていたボールペンを抜き出した。
「どういう感じの描けばいい?」
「何でもいいよ」
「もう、それが一番困るんだけど」
沙友里はそう言って苦笑しながら左上に目をやった。賢吾も小さく笑いながら一旦スマホをテーブルの下に移し、カメラを起動した。ぱっと後ろを振り返ると、まだ店員が来る気配はない。
「楽しい系でいいよね?」
「うん」
賢吾が返事をすると、沙友里はペンを走らせ始めた。どんな絵を描いてくれるのか。いや、それよりも。賢吾はスマホを取り出してテーブルの上に肘を置き、さっきよりも近い距離で沙友里を画面に収めた。見てるか。賢吾は今、全てのオスに勝ち誇った気分だった。これから何度も見返すことになるのは間違いない。その時のためにも、沙友里の輝きを最大限まで映そうと思った。
 どういうことだろう。沙友里はいつまでも無表情だった。
「今、俺のこと描いてるよね?」
録画をしていることなど忘れ、気づけば口に出していた。沙友里は液晶の中から賢吾を訝しげに見る。はっとしてスマホを手前に傾けると、目の前の沙友里も全く同じ表情をしていた。
「…うん」
沙友里は言っている意味が本当に分からないみたいだった。すると少し顎を引いて自分の絵に非を探し始めたから、賢吾は「ごめん、なんでもない」と何とか笑顔を作って誤魔化した。ジンジャエールを飲み干し、グラスを持って席を立つ。スマホは録画をしたまんまズボンに突っ込んでしまった。いや、まだ分からない。表情があまり必要ないのかもしれないし、その絵では俺が無表情なのかもしれない。グラスにジンジャエールを注ぎながら、賢吾は限界まで沙友里を理解しようとしていた。なみなみと注いでしまったグラスを持って席に戻ろうとすると、レジ側の通路からさっきの男の店員が歩いて来ていた。客が帰ったのか、お皿やグラスを載せた盆を片手で持っている。男は得意げな笑顔を浮かべて会釈をし、そのまま厨房に消えて行った。その余裕な感じが、賢吾には不快だった。
「あっ」
それが影響したのかもしれない。賢吾が沙友里に向けて一歩を踏み出すと、手に持っていたグラスからジンジャエールが零れてしまった。床のカーペットには音も無く暗いシミが付き、それは炭酸さえも抜け出せない深淵のようだった。

 結局、最後まで沙友里は無表情だった。
「はい」
沙友里に渡された紙ナプキンの絵で、賢吾らしき男は笑顔いっぱいだった。玉乗りをしながら、水玉や星などの模様が付いた五つの玉をジャグリングしている。
「なんでサーカスなの?」
「楽しいかなと思って」
本当に無邪気に沙友里は笑った。すると、ようやく賢吾の頼んだハンバーグステーキが運ばれてきた。持ってきた店員は三十代ぐらいの女で、伝票を入れ物にねじ込むとそそくさと去って行った。沙友里は脇に置いていたカルボナーラを手元に動かしながら、女の背中を追っていた。いや、違う。他の誰かの姿を探しているようだった。
「じゃあ、食べよう」
次いで沙友里はご丁寧に両手をピッタリと合わせて、口角を上げ「いただきます」と言った。賢吾はそのかわいらしい挨拶を見届けながら、机の下で紙ナプキンを握りつぶした。

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