「宗教を知る」ということ
「死」の準備をするとき、人は宗教への関心が高まる。特に日本のような、特に信仰を持たない国の国民は、人の死や自らの死をきっかけにしないと宗教を肯定的に捉え、関心を持つことがほとんどない。
しかし、そんな無宗教国家日本にも宗教的なものへの関心は必ずしも無いこともない。スピリチュアルブームは定期的にやってくるし、パワースポット巡りを悪いことだと思っている人は少ないはずだ。
心の安寧を求めて宗教を求める
2011年3月11日、日本人は否応なしに「死」と向き合うことになった。
一瞬にして波が命をさらった。そこには家屋のコンクリートの土台しか残らず、その上にあったはずの家は何十、何百メートル先に残骸となっていた。波に逆らえず、助けを叫びながら流されていく幾人もの人間を目にした生存者も多いだろう。あまりに辛い。まさに「無常」である。
そんなとき、人は何かに救いを求めようとする。「神様、どうかお願い」と星に願った経験は、誰にだってあるはずだ。つまりは、その時どんな神様に願っているのかはわからないが、神様に縋っている時点で、それは宗教的な行為なのであり、結局人は、最後には宗教に頼ってしまうものなのだ。
また、災害時以外にも、人間は理不尽や困難に直面することは当然ある。
本当にいい人や才能がある人が不遇であったり、それが故に不遇になることもある。苦労したのに報われないだなんてこと、20歳そこそこの若者ですら一度や二度、経験済みであろう。その一方で、本当に悪いやつが札束片手にキャバクラに通ったりと羽振を聞かせて悠々自適な生活を送っているというのが現実だったりもするからもどかしい。
そんな残酷な現実に人は「こんなはずはない。あいつは来世では大貧民だろう。まあ、天国には行かれまい。地獄行き確定だ」などと思う。少なくとも、そう信じることで、「いっそ殺してしまおうかな」と思う心を落ち着かせる。
このように、願ったり信じたりするところが、実は宗教への入り口だったりもする。
人々はなぜ宗教を求めるのか。それは、人間という生き物の行き着く先が、いつでも心の安寧だからである。
世界を見るための目を宗教に求める
現代に生きる私たちは、国内外のニュースにすぐにアクセスできる。そして、国際ニュースには宗教が背後に絡むものがかなり多いし、なんなら宗教を知らないとただの対岸の火事程度にしか思えない。
例えば、中東情勢を知るにはイスラム教について知らないと理解できないし、アメリカの政治についてもアメリカが宗教国家であることを知らないともちろん理解できない。
2011年の5月、オサマ・ビンラディン殺害作戦が成功したことをオバマ大統領が発表し、2001年9月11日の同時多発テロ以来のアルカイダとの戦いに一応の終止符が打たれたわけだが、すぐにパキスタンで大規模なテロが起きた。
これも、自爆テロを「聖戦(ジハード)」と呼ぶイスラム原理主義過激派の思考を知ることで見えてくるものがある。※イスラム原理主義とは、イスラム神学、イスラム哲学、イスラム法の教えに忠実であり、今の政治社会を作り直すことを目指している思想運動のこと。
また、オサマという名前がイスラム教に由来しているということは、宗教に無関心では死ぬまで気づくことがないだろう。預言者ムハンマドに付き添いイスラム共同体の建設に関わったオサマ・ビン・ゼイドのようになってほしいと願いを込めて、彼の父親が命名したのだ。
他にも、捕鯨船に過激な攻撃を加えたことで知られる環境保護団体「シー・シェパード」のバックボーンがキリスト教であることを、この団体の名前を聞いただけで察することができる人は、日本には少ないかもしれない。
シェパードという犬種については知っているだろうが、そのシェパードは牧羊犬であり、キリスト教徒なら、牧羊といえば直ぐにイエス・キリストのことと理解できる。
「百頭の羊を守っている牧童は、一頭の羊が迷ったら残り九十九頭の羊を置いてでも、その迷っている一頭の羊を助けようとする」
これは、「新約聖書」にある牧童の譬えである。イエスは、自らを牧童に譬えているのだ。また、牧師の「牧」は、牧羊の「牧」である。だからキリスト教徒はシェパードと聞いたら即座に、迷える弱い者を助けるイエス・キリストのことと理解できるのだ。
このように、宗教が分かれば海外のニュースが読み解けるようになるのである。
明日は、日本人の宗教観について見ていこうと思う。
ちなみに、いま私が変な宗教に引っかかって今後マルチ商法の如く勧誘しまくるのではないかと心配になった人は、誤解しないでほしい。ただ、ブックオフに週8で通い片っ端から新書を読んでいたら、宗教関連のコーナーに辿りついただけなのだ。まあ、宗教への関心はあるし、関心というのはただの好奇心なのであるが、それでも「知る」ということが無駄になるということはないので、明日からの記事も偏見の無いように読んでもらえると、腱鞘炎に耐えながらキーボードを打った甲斐がある。ではでは、また明日。
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