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余白 と 余地

日本の学校教育で漢文や古典の時間がなくなるという話を聞いた。本当なんだろうか、もしかしたらもう無くなっているのかも知れない。その代わりに、道徳の時間が増えるとか。大人が満足な道徳を子供に示していないことは明白で、テレビやニュースから政治家や、教育あるとされている人たちが堂々と嘘をまかり通す時代になった。どれだけその嘘をメディアが美しく飾って見せても、みんなその後ろの真実を見ていると思う。ああ、えらい時代になったものだ。

私にとって読書は必要不可欠だった。字の下手な子は早いうちから本を読み始めた子。と聞いたことがある。テレビが自宅に無くまだ字も読めなかった頃、母が本を読んでくれていた。夜寝る前にいつもお布団に並んで読んでくれていた。字を早く自分で読みたいという欲求は、母に頼まずとも自分で続きを読みたいということが始まりだった。今でその時に思った気持ちを覚えている。というわけでお世辞にも美しい字は書けない。昨今、自筆で手紙を送ることも亡くなったため、美しい字かどうかも、あんまり気にしなくても良くなったけれど。毛筆で流れるような字をさらさら書きたいと今でも憧れている。

学生時代にこんなもの何の用があるのだろう、とうんざりやっていた勉強はたくさんあった。理科系の頭を全く持たない私には、数学がそうであった、サイン、コサイン、タンジェント、 √、こんなもの大人になってから必要になんかならないから知らなくってもいいじゃないって思っていた。今のところ社会に出てからは使っていないような気がするが、必要ないとは思わない。学校に行く一つの理由は、きっと自分一人なら触れる可能性のない物に関わる機会を与えてくれることだろうから。漢文を習ったおかげで、中国の新聞を見たときに、なるほど、こうなるんだろうな。。って想像ができた。そして学生時代に習った事が、なぜか思い出されるってあるあるでしょ。

奈良県の出身の叔母は、「うたてよう!」が口癖だった。その言葉が使われるタイミングから、面倒なことやなあ、邪魔くさいなあって言葉だとは想像がついた。大阪や京都では使われない言葉らしく、彼女以外からは聞いたことがなかった。それが古典の「 うたて 」=嫌だという意味からきていると知った時、わーっと跳ねたぐらい嬉しかったことを覚えてる。いつでも発見は嬉しい。
もし美しい日本国を目指すなら、学生時代の頭の中に空白の綺麗なスペースがある間に、古典も科学も漢文も哲学も習った方が人生は豊かになると思う。学校という空間は、高得点争いではなく、自分に向いていることや好きなものを見つける機会を得るところだろうから。

本を読むのが好きだったので、国語の本だけはさっさと読んでしまっていた。でも国語は好きではなかった。一番嫌いだったのは本を読んだ後、〇〇はこの時どう感じたのかを書きなさい。という質問だった。ある日気が付いたのは、私の感想は先生の求めるものから外れていると。小学校高学年になると、こんなふうに書かないと先生的にはダメだなってわかってくる。要するに日本の試験はどのように先生や大人が求めている答えを忖度できるかという要領の良さ、回転の速さに行き着く。無駄を許さぬ有能な日本教育を受け、余白と余地の無い優秀な方々が日本の官僚や日本の大企業を引っ張ってるのが日本社会。

活字が大好きなので、乱読だった。コンピューターやスマートフォーンのない時代は電車の中でも、お風呂でも寝る前でもどこでも本が欠かせなかった。そして本の中で一番好きなのが食事の描写なんだと思う。海外の見たこともない想像もできない食べ物に執着した。要するに食いしん坊で好奇心が旺盛なんだと思う。

だから幼い頃の熊のプーさんに出てくるコケモモって一体どんなもんだろう、アメリカの小説に出てきたルートビアーって子供がどうして飲んでもいいのだろうか、など想像が湧き上がった。ジンジャービアってどんなもの、ジンジャーエールってどんなだ?焼きナスに生姜をおろしても、生姜でできたビールとか飲み物って想像ができなかった。子供時代にはホットケーキは存在したが、パンケーキ、クレープは一般的ではなかったし。ラズベリーやクランベリーは果物屋さんで見つからなかった。イチゴだってとっても高価なものだった。日本にある果物って本当に限られていたのだ、みかん、りんご、柿、いちじく、桃もちろん八朔とか違ったタイプの柑橘類はあったけれど。バナナですら高価で房で買うなどできないそういう時代が日本にもあった。

グレープフルーツが日本で初めて売られた頃、食べ方指導があった、横半分で切り分け、真ん中と皮の袋をキッチン鋏で切りさいて、お砂糖を表面にまぶし、冷やして食べる、大人はその真ん中にブランデーを少し垂らして、グレープフルーツ用のギザギザのあったスプーンで食べていた。海外で暮らして、誰もそんなふうに食べているのを全く見たことがないから、あのグレープフルーツセレモニーは日本で作られたに違いない。

クリスマスプディングも本を読んで、なんとなくプリンのようなものを想像したのであるが、全然違った。知らない方にはイギリスのクリスマスプディングを知らなくとも人生を損したことには絶対にならない。保証できる!

感動したのは、まだ70年代に知り合いの船乗の知り合いからいただいた、フロリダのオレンジ。みかんとは違って、もうジューシーで甘くって、こんなに美味しいものが世の中にあるなんて。。って思った。多くのものは、保存方法もまだまだ良くなく、運搬も高価で時間もかかり、そんな時代には世界のものがどこでも食べれるなんてあり得なかったのだもの。だからこそ、その貴重な経験が記憶に鮮明に残っているし、その時の味を覚えている。アメリカの小説で読んだガロンの容器に入ったオレンジジュースとあったのだけれど、あーこれのことを言っているんだと納得。そしてオレンジジュースをガロンの容器から飲みたいと思った。

若いということは、頭の中もサラッピン。だからなんだって余白の紙にサラサラ書くように頭の中に入っていく。

ネットで検索したら、余計な事、知りたくない事、嘘も含まれた情報が満載の現在。すぐに知れてよかったと思う反面、自分で図書館に行ったり、本を探したりしたときの知識は自分のものになったし、想像と言う余地があった。この余地が人間にとって大切なんだと思う。

自分が何かに追い詰められたり、嫌なことがあったり、そう言う時、私はずっと本の中に逃げ込んだ。ビジュアルのインプットがない、字を読む作業が心地よかった。紙の上に書かれた言葉で私は救われた。この方法は、時代遅れなんだろうな。本を手に取ることは減ってきているらしい。かつて、日本の活字文化は素晴らしいと思った。安く供給されそして翻訳されていた小説の数々。それは日本という国内で読まれる本の量が莫大だったこと、そして人口が多かったことがある。これってかなりユニークな国だと思う。

電子書籍が出た時、海外に住む身としてはあー便利になったと思った。旅行に行く時に何冊本があれば大丈夫だろうと思う身には、iPadひとつで本棚があるなんてすごいと思った。でもこれで読む文章は私には違っている。あくまで本好きの私には、本を触る、後書きを読む、装丁を見る、帯まで感動したり、それも含めての読書なんだと気がついた。あくまで私事。そして電子書籍で買ったものは、そのサイトから見る権利を買っただけで、本を所有することとは違うと知ったから。そのサイトに何かあったら読めなくなることも経験した。贈り物をしたい時、私は本を送る。この方がどのような本を楽しむだろうかを考えるのは楽しい。そしてもしその本が合わなくっても、捨ててしまっても、二束三文で売ってもいいって思ってるから。でもあの本面白かったって言ってくれるとやったって嬉しい。

本を汚すのも汚されるのも、普通には嫌だけれど、私は本を読みたいところを角を折ることが平気。いくつかの本は汚くなり過ぎて二冊目を買ったものもある。本はいまだに私の精神安定剤そして痛み止めとして活躍してくれている。老眼が出てきて焦点が合わないでくたびれる。でも本を手に取り、ページをめくる行為で気持ちが落ち着く。

新しい本をドキドキしながら最初の1ページを捲る、この感覚だけは忘れたくないな。小さな文庫本で癒され、満たされ、豊かな気持ちにしてくれるって素晴らしい。そして同じように本を愛する友達から、これを読んで、と送られてきた本は、人生を共有できたようで本当に嬉しい。

そんな友人達が私の人生に存在するって、贅沢で幸運。